やがて灰になる。

yukisaki koko

ハイボールを飲みながら文章を書いている。



 時刻は1時50分。


 リビングのライト一つだけをつけた空間はポツンと真っ暗な道に立つ街灯のような哀愁を漂わせる。この世から人がみんな消えてしまったと思うくらいに静かで透明な時間。


 僕は今ソファーに座ってハイボールを飲みながら文章を書いている。隣には僕の太ももに体をくっ付けて眠る我が家の頂点、チョコたん色のチワックス、チョコがいる。チョコが名前である。僕が立ち上がると、チョコは飛び起きて後ろをついてくる。グラスが空になって、もう次のハイボールを作るのも面倒だからとグラスに新しい氷を入れてウイスキーをそのまま少しだけ注いだ。因みに銘柄はバスカーの緑。大学生な上にバイトも最低限しかしない僕は、その癖多趣味でお金が中々たまらない。このウイスキーはそんな僕にも優しい値段をしている。足元にチョコがやってきて、物欲しそうに僕を見ていた。目がパチパチとしていて、いかにも眠たそうに見えた。何もあげないよ、と僕は呟いてソファーに戻る。チョコはソファーに飛び乗ろうとして何度かためらい、上下するのを三度ほど繰り返してからソファーに乗った。一息ついてウイスキーを喉に流す。うん、やっぱり少し他のウイスキーよりは美味しい気がするということしかわからなかった。そもそも、味を比べられるほどウイスキーを飲んできたわけでもなし。僕はノートパソコンのキーボードに手を置いた。チョコの口端は少しベロンと皮膚が見えている。


 ミニチュアダックスフンドとチワワのミックスでチワックスなんて言うらしいということを知ったのは小学四年生の頃だったと思う。母親が家に帰って来るなり大声で「お母さん何してきたと思う?」と聞いてきたから、僕は一瞬の思考すら挟まずに「犬飼った!!」と大声で返した。時々こういうことがあるよなと今でも思う。数秒先の未来を見たかのように、これから何が起こるのかがわかるのだ。そして、それは決まってとても良いことで、その時僕が望んだことだ。母親はしゅんとわかりやすく肩を丸めて「なんでわかるの」と言った。その後の記憶は時にない。次の記憶は段ボールの箱を開いて初めてチョコと顔を合わせた時だ。僕に真っすぐと向けられるまん丸の瞳には明らかな怯えが見えて、今この犬が立たされている状況がどういうものかを小学生ながらに理解した。安心してほしくて、でもどうすればいいのかなんてわからずチョコが入るケージの前にずっと座っていたような気がする。落ち着かず不安そうにしているうるんだ瞳を見て少し申し訳ないという気持ちになった。でも小学生の僕には自分の心の状態をそのままとらえることはまだ早くやっぱりわけもわからずただただ座っていることしかできなかった。特にこれといったことも考えることなく、ずっと。しかし、チョコは案外図太い性格で数日もすれば我が家の頂点に君臨していた。ケージで眠ることもなくなり、飯をねだり、おやつをねだり、毎日のように悪戯をくらっては対策を考えていた。僕は小学校からの帰り道でもチョコのことを考えた。家の扉の前に来て考えることは、これから終わらせなくてはならない宿題のことでも、当時大好きだったゲームのことでも、遊ぶ予定のことでもなく、チョコのことになった。今家で何をしているだろうか、眠っているのか、それとも今日も目ざとく何かを見つけて家を散らかしているだろうか。この扉を開けたらいつものように飛び出してくるのだろうか。同じマンションに住む友人たちと別れて僕が住む部屋の扉を開くとチョコが飛び出してきた。尻尾を腰ごと振って身を屈めて足元に飛び込んでくる。でも、その日のチョコは少しだけ様子が違っていた。目を充血させて苦しそうに何かを訴えていた。その顔を見ただけでどうしようもなくたまらなくなった。動物は言葉が話せない分、表情で雄弁にものを語る。しかし、ある時にその表情は人の言葉以上にものを語ることを初めて知った。最初はただ何かが起こっていることしかわからず立ちすくんでしまったが、すぐにその理由が分かった。チョコがつけていた水色の首輪に下あごだけが入り込み、半開きの口と強く引っ張られ痛々しくめくれる口端があった。僕はその光景を見た瞬間にランドセルを玄関に投げてチョコを抱きかかえた。わけもわからず涙が溢れそうだったことを今でも覚えている。痛くて痛くてたまらなくて、首輪が思っていたよりもよっぽどきつく巻かれていたからさらに焦った。暴れて鳴くチョコを抱きかかえて、ごめんねごめんねと何度も言いながらやっとのことで首輪を外した。大丈夫? とチョコと目を合わせると、打って変わってキョロっとした表情をしていて気が抜けてしまった。そのすぐ後に口端が捲れたままになっているのを見て何と思ったのかは、もう覚えていない。


 十年たった今も残るその口端を見て思い出すのは、ランドセルを背負っていた僕と、まだ小さかったチョコのことだ。小学四年生の頃。チョコもまだ一歳だった。はるか遠くへ旅をするときある地点で一旦落ち着く時間があるように、僕はそこにとどまっている。ずっとずっと、忘れることはないと思う。得た教訓は、チョコはとにかく首輪を嫌っているということだけだ。首輪はもう付けないようにして、散歩をするときは胴輪を使うようにした。何度も、思い出す。


 今、横で丸くなっているチョコは何を思っているのだろうか。十年の付き合いになる。僕の人生の半分には、チョコがいる。小学生の頃に出会って、僕はもうお酒が飲める。あれだけ打ち込んでいたバスケを辞めて、なぜか自発的に文章を書いている。時間が欲しかったという理由で進学を選んで、好きなことをやっている。満足している。幸せかと聞かれたら、もちろん、とすんなり答えられるくらいには。でも不思議と、未来を見るよりも思い出すことが多くなった。僕のように、チョコも何度も思い出す地点があるのだろうか。あるとしてそれはどんな時? 何を思っていたの? そんな話をしてみたい。あの頃ランドセルを背負って泣きそうな顔をしていた僕がウイスキーを飲んでいるのを見て、何を思っているのだろうか。地点地点の記憶を拾って、見比べて、面白おかしく話をしたい。それが叶うのは、きっともっとずっと、先のことだ。



 ――立ち止まった日のことを、今一度。


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