第6話 綺麗な笑顔

 キーホルダーを返したから、紗奈と悠に接点は無くなった。そうすると、からかいは徐々に無くなっていく。


 もうからかっていた本人も、からかわれていた悠自身も忘れていることだろう。


 ……そう思っていた。


「いてて……」


 放課後、紗奈は今日は一人で帰っていたため、散歩がてら家の近くを遠回りをして帰っていた。


 途中、近所の公園の中を歩いていた紗奈は、木の上から降りられなくなっている猫を発見してしまい、降ろしてあげようと奮闘中だった。


 猫のいる木は結構大きい。枝のある位置もかなり高いため、幹に捕まって登るしかないののだが……。


 紗奈には無理だった。握力が足りずに落っこちて尻もちをついてしまったのだ。


 制服を汚して怒られるな。と思いながら、再挑戦しようとしたところ、後ろから小さな声で話しかけられる。


「何、してるの……?」


 紗奈が振り返ると、そこには小澤悠が立っていた。


 制服姿で木登りなんてしようとしている少女が気になって見ていたら、前にキーホルダーを拾ってくれた少女だった。


 最初は無視して通り過ぎようと思っていたのに、尻もちをついていた彼女がまた木に足をかけるものだから、悠はつい声をかけてしまったのだった。


「悠くん!」

「え? あ、うん。なんで名前……。」


 彼は戸惑っているようだが、紗奈は気にしない。


 心做しか震えているように見える猫を指さして、悲しそうに言う。


「あの子。降りられなくなっちゃったみたいなんだ」

「俺の質問は…まあ、いいや」


 ふうっと小さくため息をつくと、悠は鞄を紗奈に押し付ける。


「よいっしょ」

「わ。だ、大丈夫?」


 身長はそこそこあるが、失礼ながら彼は見た目的に体育が苦手そう。偏見を持つのは良くないと分かっていても、心配になってしまう。


 しかし、その心配を他所に彼はするすると木を登って行った。


「ほら。こっち来なよ」


 猫に向かって手を差し出す悠だが、大人しく来てくれるはずもなかった。猫はふるふると震えながら、悠の手をすんすんと嗅いでいる。


ズルっ


 猫が足を動かそうとした瞬間、木の枝からするりと足を滑らせてしまった。しかし、悠が首根っこを掴んでそれを阻止する。


「ほっ……。あの、悠くん! 大丈夫?」


 紗奈が心配そうに見上げている間も、猫は突然の事に驚いたのかバタバタと暴れている。


「こらっ…暴れんなっ!」


 猫による抵抗のおかげで悠もバランスを崩し、落っこちそうになってしまう。


「きゃあっ!」


紗奈は咄嗟に顔を覆うが、落ちたような気配はない。恐る恐る顔を上げ、悠の安否を確認する。


「っぶな……」

「悠くん」


 木の枝に右手で捕まり、左手は猫をだき抱えている。そのまま手を離して降りてくると、紗奈が不安げに駆け寄ってきた。


「悠くん。怪我してない?」


 そう聞いた直後、猫が悠の手を引っ掻いて走り去っていく。


「いった。あいつ…助けてやったのに」

「悠くん……!」


 大した傷には見えないが、段々と血が滲んできて、ぽたっと地面に垂れた。見た目よりも深く傷ついてしまったようだ。悠の体をよく見ると、制服も汚れてしまっていた。


 紗奈は思わず涙目になって、悠を水道まで手を引いて連れてきた。そして、蛇口をひねるとそのまま彼の手を引いて傷口を水に当てる。


「ごめんなさい」

「なんで君が謝るの」

「だって、あの子を助けようとしたのは私だわ」

「…別に、俺が勝手にした事だから」


 ふいっとそっぽを向いて、悠はそう呟く。


 それでも紗奈は落ち込んでしまい、このままでは涙が零れてしまいそうだった。


「ちょっと。やめてよ。俺が泣かしたみたいでしょ」

「あ……。ごめんなさい!」


 涙を拭った紗奈は、ポケットからハンカチを取り出して悠の傷口を包んだ。


「汚れるよ」

「いいの。猫を助けてくれたもの」


 そのまま公園のベンチに座らせて、紗奈は彼に鞄を返す。


「待ってて」

「え?」


紗奈が自分の鞄すら置いて行ってしまったので、悠は仕方なくその場で待つことにした。


。。。


「おまたせ!」


 暫くして、紗奈は薬局の袋を持って帰ってきた。


「は? ちょっと君、何してるの」

「あそこの薬局で化膿止め、買ってきたよ」


 紗奈の住んでいるマンションの隣は薬局になっている。家に帰るよりも近いので、薬局で薬を買ってきたのだ。


「こんなの、放っとけば治るよ」

「駄目よ。野良猫は病気を持ってる子も多いんだから」


 紗奈は丁寧に薬を塗っていき、買ってきた包帯で悠の手を覆った。


「…いくら?」

「え?」

「薬と包帯」

「あ、いいよ。そんなの」

「そういう訳にはいかないだろ」


 悠がそう言うと、紗奈は少し視線をさ迷わせて考える。そして、小さく笑ってこう言った。


「私が勝手にした事だから!」


 悠はそれ以上、何も言えなかった。自分が勝手にした事だ。とさっきはこちらが言った台詞セリフで返されてしまったのだ。


 あのキーホルダーを返してもらった日、教室でも思ったことだが、彼女は凛としていて、可憐だった。


「ふ、ふふ……そっか」


 悠は今度こそ、零れる笑みを堪えきれない。彼が初めて笑うので、紗奈はじっと見つめてしまった。ちゃんと笑ったりするんだ。なんて失礼なことも思ってしまったが、声には出していないので許されるだろう。


 紗奈がじーっと笑う彼を見ていると、悠がそれに気づいてふわっと笑う。


 その顔が優しく吹く風に煽られたおかげで顕になった。


 すっきりと整った優しそうな眉に、やはり男らしい、それでいて優しげな瞳。男子とは思えぬ程に長いまつ毛。形の良い鼻や唇は、バランスの良い位置に収まっている。中学生なので当然とも言えるが、肌にハリがあって美白である。


(綺麗な笑顔……)


 一瞬見えただけだったのだが、まるで木漏れ日のように暖かな笑顔を浮かべる彼に、紗奈は見惚れてしまった。


 思い返せば、困っている時に助けに現れた彼はまるで王子様のようだった。


 そう考えてしまうのも、きっと彼の笑顔が眩しくて、素敵なせいだと思う。


 単純にも、紗奈は彼に淡い恋心を抱いてしまった。そう自覚した紗奈は、悠に「帰りは送る」と言われるまで放心したままなのであった。

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