隠れた存在

「うう……朝日がこんなに眩しいのは、一体何時ぶりかしら……」


 研究所の窓から差し込む朝日に、エレノアはぽつりと独りごちる。

 何時だって朝日は眩しいものだ。しかし今日はやたらと目に染みる。一体どうしてだろう――――


「徹夜明けですからね。久しぶりじゃないですか、夜明けまで起きていたの」


 等と現実逃避していたが、イリスは容赦なく現実を突き付けてきた。隈の出来た目をパチパチと瞬きさせながら、エレノアは苦笑いするしかない。

 イーヴィスと議論が白熱し過ぎて、ついつい夜明けまで話し込んでしまった。熱い議論が出来た事自体は実りであり、全く後悔はしていない。だが今日も研究という名の仕事はある。

 エレノアは(王女という立場を抜きにすれば)宮仕えでもなければ、商売人でもない。学者というのは時刻に縛られる職業ではないので、午前中は寝て午後から研究を再開しても問題はない……と言いたいところだが、船を出してもらうにしろ、漁をするにしろ、特殊な事情がない限り日が出ている時間帯に頼むのが普通だ。それが、一般人が仕事をしている時間帯なのだから。もっと言えば夜中に海に出るのは危険であるし、寝不足で出向くのはもっと危ない。

 仕方ないが、今日は無理のない研究をしようとエレノアは考える。例えば資料集めのような。


「う、ううぅう……徹夜なんて、滅多に、してないから……堪える……」


 ……昨日まで資料集めをしていたイーヴィスは、エレノア以上に酷い状態だった。どうやら徹夜慣れしていなかったらしい。さぞや真面目な研究者で、徹夜して発表会に間に合わせるという無茶はしていなかったのだろう。エレノアと違って。

 疲労困憊の彼を叩き起こし、資料集めの詳細についてあれこれ聞くのも申し訳がない。他に何か、やれる事はないだろうか。あれこれと考えて、エレノアは重たい身体を立ち上がらせる。


「イリス。今日は町に出よう!」


 元気よく選んだ方針は、町の散策だった。

 ……………

 ………

 …

 港町はこの日も賑やかだった。

 大勢の観光客が訪れ、美しい海の景色と、新鮮な食材を用いた料理を楽しんでいる。誰もが笑顔で、観光を楽しんでいる。


「おおおおお! オガパマの頭蓋骨! まさかこれが土産屋で売っているとは!」


 土産屋の前ではしゃぐエレノアの姿も、一見して観光を楽しむ貴族の娘にしか見えないだろう。


「……海に出るよりは安全なので止めはしませんが、遊んでいる訳ではありませんよね?」


 イリスがかなり怪訝な声色でそう尋ねてくるのも仕方ない事だ。

 とはいえ疑われたのはとても不本意なので、隈のある目を細めながらエレノアは唇を尖らせる。


「無論よ。この数日間、調査ばかりで全然町を歩いていなかったからね。人魚について一番詳しいのはこの町の人なんだから、この町の食文化や風土が人魚の生態を解明する上で役立つと思うのよ。特に魚介に関する認識は重要ね」


 人魚と共に生きていた町民が、必ずしも正しいとは言えない。人間は憎しみにより、容易に目を曇らせるものだ。

 しかし何百年も、それこそ文献記録通りなら四百年も存続した漁村であれば、それだけの『ノウハウ』がある。それは文化として根付き、町人達の生活に見られる筈だ。

 そしてこの漁村で最も印象深い存在が人魚。二百年掛けて、住民は敵対する人魚と付き合うための知識を身に付けた筈である。漁の作法(底引き網漁はしない)だけでなく、食文化や土産にも表れているかも知れない。


「ちなみにお土産屋にどんな知識があるのですか?」


「さぁ?」


「さぁって……」


「生活に根付いた知識が何処にあるかなんて、部外者に分かる訳ないわ。外からじゃ想像出来ないから、文化は地域によって違うのよ。とはいえ土産屋にあるとすれば、ああいった食品でしょうね」


 エレノアはそう言った土産屋の隅を指差す。

 そこには無数の、袋詰めされた干物が置かれていた。

 魚に限った話ではないが、動物性の食べ物というのは放置すればすぐに腐る。しかも繁殖期など、捕れる時には大量に捕れる事が多い。そのため乾燥させて保存性を高め、食べ物がない時期に備えるという事は、余程年中食べ物が多い場所でない限り自然と生まれる発想だ。

 この港町でも魚の干物はよく作られているらしい。様々な種類の魚が干物にされ、商品として並べられていた。


「こういったお店でなら、この町での魚の付き合い方がよく分かるわ。種類とかも確認しやすいし」


「種類を知りたいのであれば、市場の方が良いのではないですか? 捕れる魚が集まるのですから」


「確かに種類を知りたいのであれば、市場が一番ね。でも生活でどのように魚を使っているのかを知るなら、食べられる寸前のものを見るのが良いでしょ? あと……どう認識しているのかを知るのも、このやり方の方が良いのよね」


「どう認識しているか?」


 例えば、と言いながらエレノアは干物の一つを指差す。

 干物は開きにされており、背中側がエレノア達に見えている。捌かれ乾燥した状態とはいえ、ほぼ生きた姿のまま。これがなんという魚であるかは、余程魚に縁遠い地域の者でない限り王国民ならば分かるだろう。

 そして干物には商品名の名札が張っていて、『クロメ』と書かれていた。

 クロメとは王国の広い海域で生息している魚だ。背が高く、成体の大きさは子供の腕ほどにもなるが、正面から見た身体は扁平であまり肉厚ではない。浅い海を好む種で、主に岩礁に生える海藻を主食としている。

 確かにこの魚は、一見してクロメだ。王国民の大部分はそう答えるに違いない。

 しかしある程度魚に詳しいものであれば、別物だと答えるだろう。


「これ、クロメって書いているわよね。違和感、覚えない?」


「……強いて言うなら、クロメはもっと大きかったと思います。あと、なんでしょう。頭が小さいような」


「正解。これ、クロメじゃなくて、ヒメクロメっていう別の魚よ」


 ヒメクロメはクロメと同じ分類群に属する種だ。外見はよく似ているが、一回り小型である事、身体に対し頭が小さい事、そして尾鰭の形が三日月形をしている(クロメは扇のような形)事が違いとして挙げられる。生息域もやや沖合寄りだ。

 それ以外の外観は全くといえるほど似ているため、知らなければクロメと間違うのは無理ない。そしてクロメとの違いは、形態や住処だけでなく味にも見られる。


「ヒメクロメはクロメと違い、エビなどの甲殻類を多く食べる魚よ。だからかは分からないけど、ヒメクロメの方がちょっと身に癖があって、食べる人を選ぶのよね。それと旬も一月ほど違うっていう特徴があるわ」


「姿が同じなのに、色々と違うのですね。しかしそんなに違うのなら、クロメと間違えてしまうのは……」


「多分、この地域ではクロメを殆ど漁獲してないのよ。岩礁地帯は漁をするにはちょっと厳しい環境だし」


 岩礁地帯で船を出すのは危険だ。波は穏やかでない事が多く、また岩が浅い場所にあれば座礁の可能性もある。投げ入れた網が引っ掛かり、破損する可能性もある。

 ここまで苦労しても、大きな魚が大量に得られる訳ではない。対して沖に出れば大きな魚が大量に捕れる。必然漁は沖合中心のものとなり、ヒメクロメが多く漁獲されるだろう。

 しかし素人目にはクロメとヒメクロメの見分けは付かない。分類学が未発達だった大昔なら尚更だ。そんな時代に旅人などがヒメクロメを『クロメ』であると伝えたなら……村人はヒメクロメをクロメと誤認するだろう。そしてこの地に二種類の魚がいると誰も気付かず今に至る……といったところか。

 生物学者としては大問題だが、村人としてはあまり問題にならない。稀に本物のクロメが捕れて、食べたとしても味が少し違うだけ。「今日のクロメはちょっと淡白だわ〜」となるだけである。死なないどころか、とびきり不味い訳でもない。問題がないのだから、間違いを直す事もないまま定着してしまい……文化となれば、もう修正は出来ないし、する必要もなくなる。


「こんな風に、厳密には別種でも、区別しなくても問題ないものは一緒くたに扱われがちなのよ。クロメとヒメクロメは本当に些末な違いなので仕方ないけど、中には我々には全く違うように見えるものを区別しない文化圏もあるわ。例えば、カマキリとバッタを分けないところとか」


「その二つを分けなくとも、生活に不便はないという事ですね」


「或いは纏めた方が好都合なのかも」


 分類の細分化には、「細か過ぎて伝わらない」というリスクもある。毒があるハチに襲われた時に伝えるべきはハチに襲われた事であり、ヤマトゲオオバネダイオウバチが来た、なんて言う必要はないのだ。

 何を分けて、何を一つにするのか。それは文化を知る上で非常に重要な要素である。干物一つ取っても、人々の認識を理解する証拠となるのだ。

 それともう一つ、こういった干物には『新種』がいる可能性もゼロではない。


「後は新種探しが出来るわねぇ〜」


「新種ですか? そう簡単にいるようには思えませんが」


「いやいや、意外とこういった場所で発見された新種というのは……稀ではあるけど、皆無というほどでもないのよ」


 学者でなければ、それが新種かどうかなど分からない。

 ましてや生物学が未熟な時代から確認され、種の場合……地元民は知っているが学者は知らない、という状況が稀にだが生まれる。そして誰も新種だとは思っていないので、平然と売られててしまうのだ。食べられるものなら特に。


「まぁ、そんな事は本当に稀だけどねー。でもゼロではないから、しっかり観察しないとね!」


「……エレノア様。本当に、これは不躾な質問だとは思うのですが」


 爛々としながら干物を眺めている中、イリスがそんな前置きをしてくる。振り向くと、イリスは真剣な眼差しでエレノアを見ていた。

 不躾なのは何時もの事じゃないですか、と普段なら軽口を叩いただろう。

 しかしその顔を見れば、イリスとしては『一線』を超えているかも知れないと思っているのだと分かる。何分付き合いは長いのだ。そしてエレノアが言うなと命じれば、イリスは決して口にしない。

 だからこそ、止めない。

 分かった上での問いであれば、こちらも相応の覚悟で聞くまでだ。言葉はどれほど軽薄だとしても。


「んー、なぁに?」


「私にはそもそも、希少な種とやらを発見する理由が分かりません。一目で新種だと分かる生き物や、有用な生物であれば、価値があると思います。ですが誰も新種だと気付かず、町の片隅で干物になっているような生き物を『発見』して……何か、あるのでしょうか」


 イリスから投げ掛けられた疑問。それは確かに不躾な――――『分類学』そのものの否定に思える発言だった。

 さらりと日常会話で言われたら、かなりのムカつきを覚えたに違いない。しかし前置きされ、ある程度気を引き締めた上で聞けば……イリスの疑問が、決しておかしなものではないと理解出来る。

 新種。その言葉自体は、多くの者がなんらかのトキメキを感じるだろう。自分が発見者になってみたいと考える者も少なくはあるまい。

 しかし実際の新種は、とても地味だ。爪先よりも小さな生き物だったり、有名であり触れた種とちょっと形が違うだけだったり。人の足下にいて踏まれているような種や、誰も立ち入らない深い森に暮らすが大半だ。先程例に挙げたように、地元ではとっくに知られていて、食材などに利用されている場合もある。

 そんな生き物を発見したからといって何があるんだ、という気持ちは分からなくもない。確かに「何があるのか」は。答えられる訳がない。

 だって、まだ何も知らないのだから。


「……その問いには、二つ、根本的な勘違いがあるわね」


「二つ、ですか」


「一つは、発見する事は『知る』事の始まりである事。つまり発見しなければ、私達は何も知る事は出来ない。そして知ろうとしなければ、人は本当に何も知らないわ。知らないのに、どうしてそれが有用でないとか、価値がないって分かるのかしら?」


 小さな生き物というのは見くびられがちだ。小さいから、大した力もないのだと思われている。

 しかしそれは偏見だ。小さな生き物達は、いわば生態系世界を支える土台のようなもの。その土台に、大き過ぎる人間は目も向けていないだけだ。

 どれほど重要な働きをしていても、見ていなければ気付かないのは……生態系だけでなく、仕事であっても言える事だろう。人間というのは、見落とそうとすればどんな偉大な功績も見落とす愚物なのだ。

 だからこそまずは発見し、研究する必要がある。そこで初めて『価値』が見付かる。「そんなものに価値があるの?」の答えは、「これから分かる」しかない。


「もう一つは、正確な保全を行うため。例えば先のクロメとヒメクロメが、仮に別種だと分かっていなかったら……資源管理は、失敗するでしょうね」


 クロメとヒメクロメはよく似た姿をしているが、生態は異なる。クロメは海藻を好んで食べるがヒメクロメは甲殻類を好み、クロメは浅い岩礁を好むがヒメクロメはやや沖に棲む。

 この二種を把握せず、『クロメ』という種だと認識していた場合、漁獲制限は二つ纏めた状態で行う。知らないのだから、そうならざるを得ない。

 しかしクロメは浅瀬にしかおらず、ヒメクロメよりも数が少ない。また岩礁地帯は陸地に接している事から、開発などで破壊されやすいという弱点もある。だから開発や浅瀬での漁獲を行うと、クロメは急速に減っていくが……沖にいるヒメクロメはあまり影響を受けない。

 ヒメクロメの数は保てているので、漁獲制限は行われない。クロメとヒメクロメを『同じ』だと思っているのだから、する訳がない。他の場所にクロメヒメクロメがいるのだから、開発も止める理由がない。結果、浅瀬のクロメはどんどん減り続ける。

 最終的にクロメは絶滅し、ヒメクロメだけが生き残る。こうなるともう、岩礁地帯が戻ろうが乱獲を止めようが、クロメは戻らない。今までクロメとヒメクロメの二種で確保していた漁獲が、一種類分しか得られなくなるのだ。「大事に保護しているのに何故か最近クロメが浅瀬にいない」と、知る者から見れば間抜けな顛末を迎えてしまう。


「正しい保全を行うには、正しい理解が必要よ。いいえ、知らなければ、本当に正しいかどうかも判断出来ないと言うのが正しいわね。だからこそ、分類が必要なの」


「……よく、理解出来ました。不肖の身でありながら不躾な問いをし、申し訳ありません。如何なる処罰も受ける所存です」


「あはは。それで処罰したら、国民の大多数に処分を出さなきゃいけないじゃなーい」


 分類学の重要性は、一般市民には然程理解されていない。

 いや、理解する必要がないと思っているかも知れない。人間は、自分達が世界一賢い生き物で、知らないものなどないと思い込んでいる。賢い点はエレノアも否定しないが、知らないものなんていくらでもあるのに。

 そして理解されていないがために、批判にも晒される。もっと役立つ研究に金を投じよう――――その役立つ研究テーマを見付けるのが、分類学などの基礎学問なのだが。


「(まぁ、これは完全に愚痴ね)」


 聞いてきたのがイリスで良かったとすら思う。他の貴族や国民に問われれば、もっと当たり障りのない……言い回しをしなければならなかった。

 本音を言えたお陰で、ちょっと心の中がスッキリする。

 或いは、靄が掛かっていた自分の気持ちに気付けたと言うべきか。エレノアもまた世界どころか、自分の事さえも知らない。これからも精進しようと、前向きな感情が湧き立つ。

 別段落ち込んでいた訳ではないが、少なからずやる気が湧いてきた。人魚について知るため、人魚の暮らす世界について知るため、そこに暮らす生き物達を知る……酷く遠回りにも思える、けれども確実なやり方をしたくて堪らない。


「ふふふ……なんか居ても立っても居られなくなってきたわね!」


「え。何故?」


「なんでもよ! 新種でもなんでも見付けて――――」


 力強く拳を握り締めながらエレノアは干物をじぃっと見つめて、

 直後、ぐぅーっとお腹が鳴る。

 ……お店中に響き渡る、というのは大袈裟だが、かなり遠くまで届きそうな大きさの音色だった。流石に、市民の往来が多い土産屋で腹ペコを主張するのは、王族とは関係なく年頃の女性として少々恥ずかしい。


「そー言えばご飯食べてなかったわねー。何処かで遅めのお昼にしましょうか」


「……新種を見付けるのも結構ですが、自己管理も忘れずにしてくださいね」


 照れ笑いを浮かべ、誤魔化すように言ってみても、付き合いの長い従者は容赦なくお叱りの言葉を投げ掛けてくるのだった。

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