針が進む
鳴代由
針が進む
懐中時計を拾った。金色の、随分と古そうな時計だ。盤面にはローマ数字が刻まれていて、針は止まっている。雨が降っているから、そのせいで壊れてしまったのだろうか。僕はその時計をそのまま雨にさらしておくのもしのびない、とその時計を手に取った。
じっとりとした空気が肌を撫で、前髪から滴る水滴が頬を伝って落ちる。
「朝急いでたからなぁ……」
つまりはまあ、傘を忘れてきて雨宿り中、というわけだ。
空を見上げた。今にも落ちてきそうな重たい雲から鋭い雨粒が降ってくる。これはなかなか止みそうにない。少し弱くなってきたら走ってでも帰れるが、雨は強くなるばかりでその気配もない。
僕は手の中の懐中時計を見つめた。金の塗装はところどころはげていても、それでも大事に使っていたのだろうということがわかる。
せめて拭くくらいはするかな、とカバンからタオルを取り出し、雨で濡れたままの時計を拭こうとしたときだった。時計に静かに手が伸ばされる。その手は少ししわがあって、それでもしっかりとしている手。雨のせいか誰かが近付いてくる音は聞こえなかったから、正直びっくりした。
「おわっ、何?」
思わず声をあげて、時計を持っていた手を引っ込める。目の前にいたのは、スリーピースのスーツを着た、おじさん、というよりはおじ様といった雰囲気の男。
「お、っと、失礼。その懐中時計、拾ってくださったのですね。いやあ、どこで落としたものかと……」
男は気が急いた、とでも言いそうな表情で、帽子を外し胸にあて頭を下げる。
「その時計は私のものです。返していただけますか?」
そう丁寧に言われては、返すしかない。見る限り悪い人ではなさそうだから、僕は男に時計を差し出した。
「君は雨宿り中かな? これも何かの縁、雨が止むまで少し私の話に付き合ってくれませんか」
突然のことで呆けてしまったが、まあ、雨は止みそうにないし僕は暇していたし、暇つぶしにはいいのかもしれないな。そう思って、男の話に付き合うことにした。
「僕も暇してたし、雨が止むまでなら……」
僕が頷くと、男は時計を撫でながら、話を始める。男が話すのは、昔話だった。
「実はこの時計はもう随分と前に止まっていましてね。何度か直そうとしたんですが、直しようがなかったんですよ」
男は少し照れくさそうに笑う。その表情に、僕はなぜか安心した。
「壊れているものを持っているのはやっぱり変ですかね?」
「……変じゃない、とは思う……ます」
「ははは、素直ですね。でもそう言ってくれて良かった。この時計ね、昔、大切な人からもらったものなんです。なかなか手放せなくてね、こうやってずっと持っているんです」
わかるなぁ。そう思ったあたり、男が言ったとおり、どこか素直なのかもしれない。僕は男に返す言葉が見つからず、黙ったまま、空を見上げた。
男の話を聞いて数分、いつの間にか、雨は弱くなっている。たぶんしばらくしたら、
「もうそろそろ止みそうですね」
男は僕と同じように空を見上げていた。まだ雨は降っているのに、男は何も差さずに、屋根の外へと出る。今まで気が付かなかったが、男も、傘は持っていなかった。男はなぜだか幾分か晴れやかな表情で、雨を眺めている。そして振り返り、一言、
「それでは、ありがとう、お嬢さん」
男はかぶっていた帽子を少し上げ、会釈をする。男は雨の降る中、傘もささずに、懐中時計だけを大切そうに持ってかえって行った。
僕はその背中を見送るだけ。男の姿が見えなくなって、僕はなんとなく、その背中を追いかけて、一歩、二歩、と外へ出てみた。まだ雨は降っていたが、あまり気にならない。
空を、見上げた。ひっそりと開いた雲の隙間から光が漏れて、前髪やまつ毛の影を顔に落とす。僕はその光をじっと見つめ、風は濡れた前髪を遊ぶように揺らした。空には虹。きっとすぐに雨も止む。
僕が頬を緩めると、雨もそれをわかってか、僕の頬に水滴を落とした。
針が進む 鳴代由 @nari_shiro26
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