中身重視ですから
@MeiBen
中身重視ですから
30過ぎた頃からだんだん母の催促がうるさくなった。結婚についてだ。実家に帰省するたびに、見合いを勧められた。でも面倒で断った。オレなりに努力してるからと言ってお茶を濁そうとした。けど母はそれでは納得しなかった。証拠を要求された。仕方ないからオレは結婚相談所に会員登録した。入会費10万円。月会費2万円。オレは金をかけることにより努力を証明したわけだ。これで小言を言われなくなるなら安いもんだ。一応、名の知れた大企業に努めていた。貯金も1000万円くらいはあった。顔も不細工というほどではないと自負している。ステータスはまずまずだろう。嫌々入会したのだが、実は期待もしていた。結婚には一切興味がなかったがセックスはしたかった。適当に真面目に結婚を考えてる振りをして、セックスだけさせてもらおうと甘いことを考えていた。オレは相談所のサイトで可愛い子がいないか探し始めた。愕然とした。ババアばかりだ。テカテカの輝度の高い写真ばかり。写真からしてババアなら、実物はもっとババアだろう。同い年の35歳以下に年齢制限をかけた。候補が一気に減った。でも明らかに外見が若くなった。でもどいつもこいつもブスばかりだ。その中で一人だけ目にとまった女がいた。井上有紀。32歳。結婚歴あり。外見はかなり好みだった。でも結婚歴ありというのが引っかかった。けど考えてみればオレはセックスがしたいだけだ。バツイチだろうが子持ちだろうがどうでもいい。外見が良ければそれでいい。オレは女のプロフィールを見てみた。出身は岡山。仕事は事務職。趣味はカフェ巡りと読書。自己紹介文を読んでみたがくだらない内容だった。適当に読み流して最後のメッセージ欄に行き着く。そこの一文にこんなことが書いてあった。
『中身重視です。』
終始くだらない内容だ。中身重視の女がそんなことを書くわけがない。薄っぺらい文章。どうせ薄っぺらい女だろう。でもバツイチということはある程度、男を知っているだろう。薄っぺらいがバージンではなく、見た目も悪くない。合格だな。そう思ってオレは彼女と会うことにした。
相談所のサイトから連絡を取る。お見合いの打診だ。サイトの手続きに則り申請する。一日後に返事があった。会ってくれるとのことだ。オレも彼女も都内在住。適当なカフェで待ち合わせすることになった。当日、10分前に到着し、喫茶店に入ってコーヒーを注文した。注文した後で彼女に言われたことを思い出して、しまったと思った。
”前日の21時以降は水以外の飲食禁止”
コーヒーはダメだよな?あともう一つ要求があった。
”保健証を持参すること”
会って早々に保険に加入させられるのだろうか?まあそれもいいだろう。笑い話にはなる。ただ飲食禁止というのはどういうことだ?前にこの手のやり方で女と会ったことがあった。その時は身に付けるものに謎の要求をされた。結局、女からは宗教の勧誘を受けた。身に付けるものへの要求は洗礼の儀式を受けてもらうからという理由だった。今回もその手の話なのか?
待ち合わせ時刻5分前。女が一人入ってきた。緑色のフワフワした服。下は薄い茶色のスカート。髪はストレートのロングヘアーで、耳には小さめのイヤリング。女と目が合った。ツカツカとこちらに歩み寄ってきた。
「松谷さんですか?」
「そうです。はじめまして」
オレは座ったままお辞儀した。彼女はオレの向かいの椅子に座った。写真で見るより可愛いと思った。胸もけっこう大きい。店員が水を持ってやってくる。彼女はコーヒーを注文した。その後で、オレの前にあるコーヒーに気づいて言った。
「飲食はしないでくださいとお伝えしましたよね?」
「間違って頼んじゃっただけですよ。でも飲んでないです」
「そうですか。それならいいのですが」
「何で飲食禁止なんですか?」
「これから健康診断を受けていただくからです」
「健康診断?なんで?」
病院は好きじゃない。まあ病院が好きな奴なんていないだろうけど。病院の思い出なんてひどいもんだ。オレは今までに肺炎で入院したことがある。あと肝臓の病気か何かでも入院した。子供の頃のことだから、もうほとんど覚えていないけど。中学以降は大きな病気はせず、病院にもほとんどかからなかった。でもたまには行くことがあった。その度に思う。オレは病院が嫌いだ。空気が嫌いなんだ。ここには死の空気が満ちている。元気な人間だろうとここにいたら死に近づいていくような気がする。そんなオレがなぜか今、病院にいるのだ。適当にカフェでお話して近所のショッピングモールで買い物して、映画でも見て時間を潰して、居酒屋で酒を飲ませて、ホテルでランデブーの予定だったのだが。ここから巻き返せるのだろうか?
彼女が受付を済ませて、よく分からない書類が入ったクリアファイルをオレに渡す。
「今日の検査項目はこれです」
お品書きの紙を渡された。
・身長体重測定
・視力検査
・聴力検査
・胸部エックス線検査
・血圧測定
・血液検査
・尿検査
・便検査
・心電図検査
・胃部内視鏡検査
・医師の診断
「今日一日で終わるのかな?」
「終わります。この病院は早いです」
「そうですか」
「では尿検査と便検査からです」
容器を渡されたオレはトイレに案内された。なんでオレはこんなことをしているのか?などと考えながら尿をとる。和式便器で気張って便を出す。なかなかの手際だ。採取した尿と便はトイレに隣接する窓に置いた。
トイレから出ると彼女がすぐ近くで待っていた。
「次は血液検査です」
「はい」
彼女は迷いなく南側に向かう。だが、明らかに血液検査の看板が逆方向を指していた。
「何してるんですか?早く行きましょう」
「看板にはこっちって書いてるけど?」
オレは看板を指差す。彼女が看板を見る。何事もなかったようにこちらに戻ってきて、看板の指し示す方向に歩いていく。オレは笑いを堪えるのに必死だった。
「何してるんですか?早く行きましょう」
オレは黙って彼女についていく。
血液検査だ。最近は自動採血ロボットなんかもあるらしい。でもすごく怖いと思う。失敗したらどうなるのか?動脈をさされたらどうなるのか?そんなことを考えてしまう。注射で刺されるとき、刺されるところを見てしまう。それで刺される時につい笑ってしまう。あれはなんでだろう。オレだけなのかな?大量の血液を取られた。
「血液検査から一番多くの情報が分かるんですよ」
X線検査室の前で待っていると、彼女は言った。
「看護学校か何かに通ってたの?」
「大学は看護学科でした。看護師の資格は取れたのですが、実習で向いてないと思ったんです。それで結局メーカーの事務職に就職しました」
「へえ、じゃあ詳しいんだね。健康のこととか、病気のこととか。すごいなあ」
彼女は何も答えなかった。でも少しだけ得意げに見えた。彼女の言った通りこの病院の検査は早かった。ほとんど待ち時間がなくスムーズに進んだ。
「診断結果っていつ出るの?」
「今日です。朝から始めているので、夕方4時までには結果がもらえます」
「早いね」
「早いです」
何をそんなに急ぐことがあるのか。今日知ろうと明日知ろうと同じではないか。どうせ何も変わらない。知ろうと知るまいと変わらない。なら知らないでいればいい。知らないでいれば可能性が残る。未来に可能性を残しておけばいい。
午後3時。予定していた検査が一通り終わった。オレは診察着から着替えて、彼女の隣に座った。
「お疲れ様です。後は検査結果をもらってから、最後に医師の診断があります」
「そう。じゃあ少し待ち時間だね」
やれやれ。結局、朝から何も食べてない。一息つくと急に腹が減ってきた。彼女もオレに付き合ってたから昼ごはんを食べていないはずだ。
「夜ご飯は何を食べようか?」
オレは彼女に話しかける。
「私はなんでもいいですよ。松谷さんの食べたい物にしましょう」
「そうか〜、何にしようかな?昨日は何食べたっけ?そうや、お好み焼きだ。井上さんは昨日何食べた?」
「カップヌードルです」
即答。オレは彼女の横顔を凝視する。
「何ですか?」
「いや、何もないです」
「駄目ですか?カップヌードルを食べちゃダメなんですか?」
「そんなことは誰も言ってないよ」
「じゃあなんですか?その反応は?」
「別に何もないよ。何も思ってない」
まだ不満げだった。
「料理ができないわけじゃないですよ。一人暮らしになって、そんなに頑張る必要も無くなっただけです」
「そう言えば結婚してたんだよね?じゃあ昔は料理作ってたんだ?」
「そうですよ。夫もいつも美味しいと、、、」
彼女は急に言葉を止めた。
「どうしたの?」
「なんでもないです」
そう言ってから彼女は黙ってしまった。
「血圧ともに異常なしですね。TGの値が少し低すぎます。あまり脂っこいものは食べないですか?」
居酒屋の一席で向かいに座る彼女がオレの診断結果を凝視している。オレは彼女からの質問に適当に答えながら、嬉々としてオレの検査結果を見る様子を眺めていた。
「面白い女だね。きみ」
つい声に出して言ってしまった。彼女がキッとこちらに視線を向ける。失言だ。どう取り繕うかを考える。オレが言い訳をする前に彼女が口を開いた。
「やっぱり変ですよね。分かってますよ」
彼女は視線を落とした。
「いや、そういうつもりじゃなくてさ」
「でも松谷さんも変な人です。いませんでしたよ。今まで一人も。言うことを聞いて健康診断を受けてくれる人」
そりゃそうだろうな。今度はちゃんと声に出すのを抑えた。
「みんな訳が分からないって言って帰っちゃいました。保険金目当てかよなんて言われたりもしました」
「あれ?違ったの?」
キッと睨まれた。また言ってしまった。空腹状態で一気に酒を入れたから酔いのまわりが早いらしい。
「そんなことするわけないじゃないですか。私、そんなこと考えたことないです」
確かに。保険金殺人をするには少々、不器用すぎる。もしこの不器用加減さも含めて演技だとしたら、オレは殺されても仕方ないだろう。
「でもさ、やっぱり僕も少し変だと思ったよ。いきなり健康診断とかさ」
「中身重視ってプロフィール欄にそう書いたじゃないですか!」
「そりゃそうだけど。物理的な中身だとは誰も思わないと思うよ。人間性みたいなさ、そんな意味で受け取ると思うよ、普通は」
彼女はビールジョッキを持って勢いよく飲み干す。まだ半分ぐらい残っておりましたが?彼女はジョッキをゴトッと置く。立ち振る舞いが男前だった。
「人間性ってなんですか?人間性って。そんなもんどう評価したらいいんですか?健康診断で測定できないじゃないですか!」
「それはその通りです」
「だって人間は突き詰めて言えば生物ですよ。胃があって腸があって心臓があって肺がある。そういう内蔵があって、頭の中に脳みそが入ってる。脳みそは本当に味噌みたいなもんですよ。トロトロです。人間はそういうのが骨格の中に収まっていて、腱や筋肉で繋いで、その外から皮膚で覆ってるだけなんです。顔がかっこいいとか、身長が高いとか、筋肉質とか。そんなことは本当に一部分でしかないんですよ。顔がカッコ良くても肺はタバコの灰で真っ黒とか、筋肉質でも血液がドロドロとか、身長が高くても糖尿病とか。外見が良くても生物として生命活動を続けていけそうにない人たちがいるじゃないですか。外見だけじゃ何も分からないんです」
「つまり、健康な人と結婚したいってことかな?」
「違うんです。人の何を見るべきかっていうのを考えた時に、外見で見るのはおかしいと思ったんです。でも、内面なんて分からないし、見えないじゃないですか。だから内面の見える部分を見ようと思ったんです」
なるほど。オレは感心した。
「それで、オレの内面はどう?合格でしょうか?」
「AGB値が低すぎます。運動不足じゃないですか?」
彼女はニコッと笑った。その笑顔をみて殺してやろうかと思った。嘘だ。不覚にも可愛いと思ってしまった。オレは急いで自分を律する。店員さんを呼んでビールを2つ追加してもらった。
「不躾な質問をしてもいい?」
「何ですか?」
「前の旦那さんとなんで離婚したんかなと思ってさ」
彼女は視線を落とした。楽しい話なんて出てくるわけはないか。
「秘密です」
「ああそう」
まあそりゃ今日会ったばかりの男に言いたくないよな。
「子供はいないの?」
一瞬表情が強張ったのが分かった。
「いません」
何かを隠してるようだった。分かりやすい女だ。また彼女はビールジョッキを空にした。よく飲む。相当な酒豪なのかと思っていたら、その後まもなく酔いつぶれた。
オレは酔いつぶれた彼女を自宅まで送った。もちろんオレの家ではなく彼女の家だ。でも不思議なもんだ。酔いつぶれてベッドの上で唸っている女というのは、こうも性欲を減退させるものなのか。今まさに当初の目的を果たせるシチュエーションとなっているにも関わらず、オレのリビドーは消え失せてしまっていた。おい起きろと右手で股間を触ってみるが反応はない。仕方ないからオレは何もせずに帰ることにした。
「じゃあ、オレ帰るからね。鍵はポストに入れとくよ」
オレは立ち上がって部屋を出ようとした。
「待ってください」
振り返ると彼女がこちらを見ていた。
「どうしたの?水欲しい?」
「私、人殺しなんです」
彼女はゆっくり言った。
「人殺しなんです」
掠れそうな声。泣いてるみたいだった。
「中絶したんです。3年前に」
オレは何も言えなかった。
「もう手足も見えてたのに。中絶したんです。障害がわかって」
彼女は目を手で覆って泣いていた。嗚咽を漏らして泣いていた。
「生きてたのに。生きようとしてたのに。私の中で。それを」
オレは何も答えてあげられなかった。静寂な空間。彼女の嗚咽だけが響き渡る。このまま何も言わないで、彼女の告白を聞き続けるのでもよかった。けど言うことにした。その方がいいと思ったんだ。
「なんで中絶したん?別に障害持って生きてる人なんかようけおるやん。中絶することなんか無かったんちゃう?」
彼女は身体を起こしてこちらを見た。窓から入る月明かりが彼女の顔を照らしている。涙で目の周りがテカテカしていた。罵倒を受けて傷ついたような表情だ。暗闇の中で眼と眼が合った。しばし見つめ合い、彼女はまた視線を落とした。そしてこっくりと頷く。
「そうです。その通りだと思います。でもあの時は」
オレは彼女の次の言葉を待つ。
「あの時は本当に色々なことを考えて、、、私にちゃんと育てられるか?とか、こんな社会で幸せに生きていけるか?とかたくさん考えたんです。だから」
「それ全部やってみな分からんことやろ?」
「やってダメだったらどうするんですか?私のせいで一生苦しんで生きていくことになるかもしれない。いじめとか差別とか、そんなことで苦しまなくちゃいけないかもしれない。生まれて来ないほうがよかったって思うかもしれない。それなら」
「それなら生まれて来ないほうがいい?」
彼女は答えない。黙って手元を見つめ続けている。不謹慎かもしれないが、綺麗だと思っていた。月明かりに照らされた何かを思い悩む彼女の姿は美しいものだった。
「誰も私を責めませんでした。医師も両親も誰も私を責めませんでした」
「旦那さんも?」
「はい。夫は私の判断に任せると言いました。そう言って私に全部押し付けました。お前が生むって言うなら支えるよなんてことを言っていました。結局、その裏で浮気してたんです。私が一人で悩んでる間、彼は何一つ悩んでなんかいなかった」
「それで離婚したの?」
「どうでもよくなったんです。慰謝料とかで揉めるのも面倒だから何も要求せずに双方円満離婚です。マンションも私が出ていきました」
それは何とも言えない話ですねと思った。
「松谷さんならどうしてました?」
顔をあげてオレを見つめる。やめて欲しいのだが、まっすぐな目でオレを見つめる。
「オレに聞かれても分からんよ。そんな状況に遭遇したことないし、これからも遭遇する予定はない」
はっきりと言った。もう嫌われてもよかった。セックスする気分は消し飛んでいたし、この女に好かれる努力をする必要はなかった。
「そうですよね」
彼女はまた視線を落とした。
「でも生きてたんだろ?その子は君の中で」
オレは思っていたことを言ってみる。
「君の中で生き始めてたんだろ?君の中で君から栄養を奪って生きようとしてたんだろ?その命を殺す必要なんてあったか?その子は殺されないといけなかったのか?」
彼女は顔をあげてオレを見ていた。傷ついているのが分かった。止まっていた涙がまた溢れ出していた。また彼女は手で目元を覆った。
「仕方ないじゃないですか。普通の人でも幸せに生きられるか分からないのに、障害をもって生まれた子が幸せに生きられるなんて思えない。きっと苦しむんですよ。他人よりもたくさん傷ついて苦しむんですよ」
「だから殺したの?傷つかなくていいように。苦しまなくていいように。だから中絶したの?」
「じゃあ産めばよかったんですか?こんな社会に?ちゃんと育てられるかも分からないのに?生まれたくなかったって思うかもしれないのに。死んでしまいたいと思うかもしれないのに」
「そん時は死ねばいい」
彼女は怖いものを見るような目でオレを見た。
「何を言ってるんですか」
彼女の声は震えていた。
「生きて死ぬだけだ。人間も他の動物もみんな生きて死ぬだけだ。オレも君も生きてる。だからいずれ死ぬ。別に普通のことだ。ありふれたことだ。その子も同じだった。生まれて生きて死ぬ。それだけだったはずだ」
「そんな単純なことじゃない。幸せに生きられるかが大事なんでしょ?」
「違う。君が言ってたことだろ?幸せなんか測れない。測れないものは見れない。オレたちは突き詰めて言えば生物だ。オレたちは生命現象の集まりだ。心臓が血を送って肺が呼吸して胃が消化して手を動かして脳みそは何かを思考する。役割は全部バラバラだ。でもそいつらの全てが群れをなしてオレたちを構成してるんだ。オレたちという輪郭を作ってる。オレたちの身体は生きようとしてる。そこにオレたちの意思は関係ない。オレたちが死のうとしてるかなんて関係ない。幸せかどうかなんて関係ない。オレたちの身体はそれぞれ自分勝手に動いている。自分勝手に生きてる。そんでいつか勝手に死ぬ。心臓は動くのをやめる。肺は呼吸をやめる。胃は消化をやめる。みんな勝手に生きて勝手に死ぬ。オレたちを構成することをやめる。オレたちの意思は関係ない」
彼女は黙ってオレの話を聞いていた。
「勝手に生きて勝手に死ぬんだ。それが生物だ。殺される必要はねえだろ?殺す必要もねえだろ?生きて死ぬだけだ。それを、なんでわざわざ殺す必要があった?」
彼女はしばらく手元を見つめて黙っていた。涙だけがポタポタと落ちていた。立つのも疲れてきた。そろそろ切り上げて帰ろうか。そう思い始めていた。
「嫌だったんですよ」
彼女がゆっくりと話し始める。
「幸せな人生を歩んでるはずだったのに。夫は素敵な人でした。カッコよくて身長も高くて良い企業に勤めていました。結婚だって色々な人から羨ましがられました。マンションも便利なところでした。友達に自慢したりして。幸せに溢れてた。妊娠だって嬉しかったのに。全部全部上手く行っていたのに。それが一気に崩れちゃった」
自分語りが始まったようだ。オレの気分はすっかり冷めていた。
「普通の子供を産んで普通に育てて普通に生きていけると思ってたのに。出生前診断なんてしたのがいけなかったのかな?障害をもって生まれてくる可能性が高いことが分かって、それで全部おかしくなった。夫も友達も何もかも。世界が私に冷たくなった」
いい表現だ。オレは感心した。
「私の都合で殺したんです。私が幸せに生きていくためにはこの子を殺さないといけなかった」
彼女はお腹に手を当てた。
「私が殺したんです」
私が殺した、私が殺した、そう言い続ける彼女。涙が溢れて止まらない様子だった。流石に言い過ぎた気もしたのでフォローをしてやることにした。
「まあ終わったことをいつまでも後悔してもしゃあないやん」
オレは彼女の背中をポンポンと叩く。もちろんそんなことでは泣き止まない。嗚咽を漏らして泣いている。
「気にすんな。オレかっておんなじやで」
そう言うと彼女がオレの方を見た。
「同じって?誰かを殺したんですか?」
「ああ。昔な、友達んちのハムスターをな、手にもって走り回っとったんやけど。躓いてこけて転んでもてな。ハムスター潰れて死んだ」
「ハムスターと一緒にしないでください!」
そう言うと彼女はわんわん泣き始めた。
ごめんなさい。ごめんなさい。彼女はうわ言のようにずっと許しをこうていた。でもオレに言われても困る。人を許すのは神様だけだ。オレは神様なんかじゃない。
いつのまにか彼女は眠った。オレはそっと音を立てないように部屋を出た。
夜の3時。街は不思議な静寂に包まれていた。夜明けを待つ空間。横断歩道を歩いているとおっちゃんにタバコを持ってないかと声をかけられた。オレは言ってやった。
「おっちゃん。男は中身やで。中身を汚すようなもん、吸ったらあかんよ」
おっちゃんは、はあ?という顔をしていた。
終わり
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