第10話「藁にもすがる」

 夕刻。洸哉がいつもの時間になっても戻らないことに、女中たちがざわつき始めた。影が伸び、窓から差し込む西陽が強くなるほどに不穏な気配は大きく膨らみ、太陽が沈むのと同時に、それは閾値を超えた。

 もはや葵も怒りに震えている場合ではなかった。ミヨたちと共に洸哉の身を案じ、何かできることはないのかと相談する。


「坊ちゃんのお仕事は秘密の多いものですので、私たちも詳しいことは何も知らされていないのです」

「それでも、どこか連絡するところくらいはあるんじゃないの?」

「ただいま、冷泉の本家を通じて軍の方へと様子を……」


 あまりにも悠長なことに葵は思わず目眩を覚える。調伏師という職業の危険性を、彼女たちは何も知らないのかと驚いてしまう。

 昼間から大きく右へ左へと感情が揺れうごき、彼女の疲労は極限に達していた。脳裏に過ぎるのは、極端に悪い予想ばかり。しかし、そのどれもがないとは言い切れない。

 凶暴な妖怪を相手取る調伏師は命の危険すらあるのだ。


「――ごめんなさい。少し、一人にさせて頂戴」


 居ても立っても居られなくなった葵は、震える声を押さえつけて書庫へと向かう。ミヨたちはそんな彼女の背中を心配そうに見送ることしかできないでいた。


「急がなきゃっ」


 書庫の扉を閉めた葵は、すぐさま変化する。小さく美しい三毛猫の姿へと成り変わり、黄昏時の町へと飛び出す。一仕事終えて帰路に着く町人たちの足元をすり抜けるようにして走る。


「うおっ!?」

「なんだぁ、この猫!」


 猛然と猪のように駆ける猫に、人々が驚き仰け反る。だが、彼らに構っている暇はない。葵は一心不乱に、今日歩いた道を再び辿る。

 町屋の並ぶ区画から、未だ賑やかな喧騒の残る大通りへ。勢いよく飛び出した葵は直角に折れ曲がり、爪を地面に切り付けるようにして走る。走る。

 彼女の青く透き通った瞳に、暖簾を片付けようとする恵比寿顔の男の姿が映った。


「みゃううっ!」

「うわっ!? な、これは……葵さんですか?」


 大きな声を上げて茶店の中へと飛び込んできた三毛猫に、幽楽庵の主、二瓶は驚きの声を上げる。しかし、すぐに彼女の鬼気迫る表情を見てただごとではないと察したのか、奥の座敷へと促した。


「突然ごめんなさい。でも、助けて欲しいの!」


 奥座敷に通された葵は猫の姿のまま切実に訴える。店内に客は残っておらず、対面するのは二瓶ただ一人だ。本筋の見えない焦燥しきった葵を、彼はひとまず落ち着ける。


「まずは深呼吸を。何があったのか、教えてください」

「洸哉さんがまだ帰ってこないの。連絡もなくて、何があったのか分からなくて」

「洸哉さんは調伏師としてお仕事をなさっていますよね。それが遅くなったのでは?」

「それならミヨさんあたりに連絡がいくはず。何もないまま遅くなることなんてなかったし」


 話しながら、葵も少しずつ冷静さを取り戻す。

 二瓶の言う通りだ。洸哉の方で少し仕事に手間取っているだけかもしれない。むしろ、普通はそう考えるべきだろう。しかし、彼女は言いようのない不安、胸騒ぎが取りきれないでいた。


「本当は花街通いについて問い詰めるつもりだったのに、ぜんぜん帰ってこなくて……。怒ってたのに、不安になってきて」


 たどたどしく言葉を溢す葵を、二瓶は憐憫の目で見る。そして、自分にできることはないかと知恵を捻る。


「冷泉さんは、いつも同僚の方と二人で花街へ向かっておられたようです。昼過ぎのころから、夕刻まで。考えてみれば、花街の最も賑わう時間からは外れています」

「そういえば……」


 二瓶の言葉に葵もはっとする。

 洸哉は毎日、夕方には帰宅していた。花街で女と遊ぶなら、日も暮れた夜が本番になるだろう。それも、宴の席では酒なども供されるはずだが、彼が赤ら顔で戻ってきたことなど一度もない。


「それじゃあ、どうしてあの人は花街に?」


 わざわざ時間を外し、男二人で。ミヨは彼が花街へ行っていることは知っていたようだが、そこで何をしていたかまでは知らなかった。身内にも明かせぬような、重大な秘密の下で何かをしていたのか。


「迅は花街のどの辺りで洸哉さんを見たの?」

「そこまでは……。本人に聞きましょう」


 二瓶は眉を寄せ、一度店先へと出る。そして、屋根の方に向かってパンパンと手を叩いた。


「カァ!」


 軒下から黒い羽根が落ちてくる。バサバサという大きな音と共に現れたのは、黒々とした烏。それは器用に歩いて店内に入ると、二瓶をぎろりと睨んだ。


「なんだ、突然。騒がしいじゃねぇか」

「ヤタさん、迅を連れてきてくれませんか。少し聞きたいことがあると」

「随分と物々しいな。何かあったのか?」


 人の言葉を話す烏は間違いなく妖だ。だが、葵は何よりもそれが今まで軒下に潜んでいたことに驚いていた。かなり気配には敏感であると自負している彼女が、全くその存在に気付かなかったのだ。

 二瓶の口ぶりからも、その烏がかなり高位の妖であることが分かる。烏の妖と聞いて、思い至るのは――。


「や、八咫烏!? どうしてこんなところに」


 悲鳴をあげる葵に、烏は今更その存在に気が付いた様子で振り向いた。


「ほう、誰かと思ったら化け猫か。しかも随分と力もあるな……。もしかして、猫宮の娘か」

「そ、そうだけど……。貴方は」


 一瞬で身元を看破され、たじろぎながら葵も問い返す。烏は誇らしげに胸を張り、鳩のようにして鷹揚に答えた。


「オレはかの伝説の大妖、八咫烏様さ! 今はちぃとばかし力が落ちてるが、本当なら帝都をひっくり返すことだってできる――」

「ほ、本当に八咫烏なの!?」

「お、おう。……すんなり信じられたら、それはそれで調子が狂うな」


 詰め寄る葵にたじろぐヤタ。しかし三毛猫にはもう余裕などない。


「お願い、ヤタさん。洸哉さんがどうなってるかだけでも、早く知りたいの!」

「ええい、あんまりくっ付くな。食べられるかと思うだろ!」


 ヤタは必死な葵を翼で押し返し、ひとつ大きな息を吐く。


「今のオレにできるのは伝書鳩の真似事だけだ。とはいえ、顔見知りならすぐに連絡がつく。ちょっと待ってな」


 そう言って、烏は俯く。直後、彼を中心に一瞬だけ莫大な力が迸った。あまりにも大きすぎる波の広がりは、力を感じ取ることのできる妖にはまるで間近で雷鳴が轟いたかのようにすら思えた。


「ひぃ、ひぃ。まったく、この程度で疲れるとはなァ」


 刹那の爆発の直後、ヤタはぐったりとして土間に倒れる。不安がる葵に、彼はかるく翼を上げて大丈夫だと示した。


「ちょっと休んでりゃおさまるさ。それよりも、すぐに迅が来るぜ」


 八咫烏の言葉のちょうどその時、幽楽庵の表で突風が吹き荒んだ。

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