第8話「幽楽庵の一つ目小僧」

 三毛猫姿の葵が鎌鼬三兄弟の後に続いておっかなびっくり長椅子の下から這い出ると、男がひとり立っていた。恵比寿顔で腹回りも丸いその男は、鎌鼬たちを見ても平然としている。そして、葵もまた彼を一目見ただけで、人間ではないことを看破した。


「あなたがこの店の主人?」

「ええ。ようこそ、幽楽庵へ。私は二瓶と申します」


 穏やかな声で三毛猫を歓迎する男。二瓶は通りから覗けない店の奥へと葵を誘う。


「あなたも妖なのよね。ずいぶん化け慣れてる感じはするけど」

「私は随分長いことこの町で暮らしてますからね。元の姿は――ほら、こんな感じ」


 そう言って振り向いた二瓶の顔を見て、葵は思わずぎょっとする。和かな表情はそのままだが、二つあった目が拳ほどの大きな一つに変わっている。


「一つ目小僧だったの」

「あっはっは。もう小僧という歳ではありませんがね」


 妖茶屋、幽楽庵を営む主人、二瓶は一つ目小僧という妖だった。彼は葵を、妖用の部屋だという奥の座敷へと案内した。そこには既に鎌鼬の三匹が器用に座布団を敷いて座っている。


「あちらは鎌鼬の迅、吹、薫です」


 二瓶はお茶をテーブルに置きながら、鎌鼬兄弟の名前を挙げる。長兄の迅、次男の吹、末妹の薫はそれぞれ、改めて葵に会釈した。彼らはそもそも変化を得意とするような妖ではないが、座布団の上に落ち着いた姿はイタチながらも妙な人間味を感じさせる。


「あの、ここは……」


 自分の前にも茶を出され、さりとて猫の姿のままでは飲めないことに気付いた葵は、ひとまずこの茶屋について二瓶に尋ねる。


「幽楽庵は、帝都に住む妖たちの溜まり場のようなものですよ。普段は人の姿に化けていたり、人目を避けて物陰に潜んでいたりする者が、ここならゆっくりと寛げるようにと」

「そんな場所があったなんて、知らなかったわ」

「町の外の妖に積極的に喧伝するものでもありませんからね。あまり広まりすぎて、タチの悪い妖怪まで引き寄せては面倒ですから」


 そう言って二瓶は太い眉を寄せる。

 妖怪と妖は人の目からは十把一絡げに同じと見做されるものだが、当人たちにとっては明確な違いがある。それは気性の荒さや、人を喰うかどうか、そして、妖をも喰うかどうか。妖とは善良な人外というだけでなく、妖怪とも敵対しているのだ。

 町の妖たちの密かな憩い場となっている幽楽庵の存在が妖怪にまで知られれば、無用な厄介ごとを生みかねない。ここで問題が起これば、それこそ人の注目を集め、調伏師が出張ることとなるのだ。


「ですので、葵さんもできれば内密に」

「分かったわ。……って、あれ? あなたに名乗ったっけ?」


 当たり前のように名を呼ばれ、葵は困惑する。この幽楽庵を訪れたことなどないし、二瓶とも初対面だ。迅たち鎌鼬兄弟には名乗ったが、長椅子の下では聞こえないだろう。一つ目小僧が地獄耳だという話も聞いたことがない。

 二瓶は尻尾を揺らす葵を見て、毛のない頭をぺたんと叩く。


「ああ、すみませんね。ウチは町の妖が集まって日がな一日噂話に花を咲かせているもので。私の耳にも町の色々なことが入ってくるのですよ」

「てことは、私のことはみんな知ってるの?」

「みんな、というわけではありませんがね。それでも、新しい妖がやって来たという噂はもう広がっているでしょうね」


 妖たちが集まる幽楽庵は、安穏の場としてだけではなく、情報交換の起点ともなっているらしい。ここで茶を飲むだけで、帝都に出回る新聞よりも素早く詳細な情報が集まってくるのだ、と二瓶は少し自慢げに言った。


「それじゃあ、もしかして……。私の夫――になる人のことも?」


 少しの抵抗を残しながら葵が言うと、二瓶は頷く。鎌鼬たちは詳しいことを知らないようで、湯呑みを抱えたまま二人に目と耳をむけている。


「冷泉家といえば、帝都でも指折りの家門です。そこが他ならぬ猫宮のご令嬢と縁を結ぶとなれば、人と妖との関係もより良くなると、皆期待しておりますよ」

「何っ!?」


 和やかな口調の二瓶の言葉に葵が胸を撫で下ろした直後、それを掻き消すような鋭い声がする。発したのは、鎌鼬兄弟の長兄、迅である。彼は眉尻をきっと吊り上げ、険しい顔を葵に向けている。


「お前が冷泉家に行った化け猫だったのか!」

「お兄ちゃん!」


 咄嗟に薫が兄の尻尾を掴むが、その勢いは留まらない。ずいと葵に詰め寄り、鋭い爪先を彼女に突きつけた。


「妖が調伏師と手を組むなんてな。やっぱり助けるんじゃなかった。あの見張り鳥だって、冷泉のところの式なんじゃないのか!」

「し、知らないわよ! 私、あの人が何をやってるかなんて……。今日だってたまたまこの辺りまで歩いてただけで……」


 人と妖が婚姻を結ぶ。その重大さは言わずもがな。妖においても賛否両論分かれる話だ。二瓶のように両者の融和の証と喜ぶものもいれば、迅のように裏切り者と謗るものもいる。

 分かっていたことではあったが、葵は胸に鋭い痛みを感じる。


(私だって、望んだ縁談ではないのに)


 妖と調伏師、両者の間に引かれた溝はまだ深い。

 迅もまた、過去に調伏師との確執があるのだろう。葵がそれを尋ねることはできないが、彼の憤懣やるかたないという態度が何よりも雄弁にそれを示している。


「妖との婚姻だって、どこまで本気なんだか」


 吐き捨てるように言う迅。


「随分前から花街に通ってるみたいだが。本当に仲良くする気があるのか?」


 その後に続く言葉は、葵に強い衝撃を与えた。


「か、花街……?」

「そうだよ。そこの通りの先からは夜も眠らねぇ花の街さ。おたくのひょろ長は随分前から、熱心に通ってるみたいだぜ」


 迅の得意げな語りも、途中から全く耳に入らなくなる。

 あれほど覚悟していたというのに、心臓を直接掴まれたような苦しみが襲った。


「お兄ちゃん!」


 吹と薫の怒る声。下の二人から諌められた迅がたじろぐ。


「ッ!」


 だが、葵は居ても立っても居られず、脱兎の如く奥座敷から飛び出した。

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