第6話「奥様は千里眼?」

 天窓からするりと身を入れて、音もなく床に立つ。葵は慌てて本棚の影に隠していた着物を掴み、焦りながらも慎重に身に纏っていく。帯や襟元が乱れでもしていたら、書庫でいったい何をやっていたのかと勘繰られてしまう。


「書庫に鏡でも置いといてほしいわね」


 自分の装いが元通りになっていることを信じて、彼女は意を決して戸を開ける。するとすぐに監視役の女中がさっと頭を下げてきた。


「何かご用でしょうか?」

「洸哉さんが式札を忘れたとかで――。あっ」


 葵は言いかけて口を手で押さえる。

 もうすぐ洸哉たちがやって来ると思ってつい書庫の外に出てしまったが、葵はそんなことを知らないはずである。女中たちの認識では、彼女は書庫の奥で静かに読書に耽っていたのだから。

 実際、若い女中は怪訝な顔をしている。葵がどう取り繕おうかと急いで考えていたその時、表の方で物音がする。言うまでもなく、洸哉が忘れ物を撮りに来たのだ。


「あれ!? だ、旦那様? え、忘れ物ですか?」


 玄関の方から困惑する声がする。それを聞いた葵付きの女中が、驚きの表情を浮かべた。


「まあ、奥様すごいです!」

「た、たまたまよ! たまたま!」


 キラキラと目を輝かせる少女から逃げるように、葵は玄関へと向かう。そこにはやはり、先ほど見た軍服姿の洸哉と、ニコニコと笑みを浮かべる金橋の姿があった。


「あ、あらー、お早いお戻りですわねー」

「……少し物を取りに戻っただけだ」


 焦りから妙な口調の棒読みになってしまう葵だったが、洸哉はいつもの仏頂面で応じる。その冷徹とした姿には、三毛猫を撫で回して相好を崩す青年の愛らしさは一切ない。姿形は全く同じなのに、他人と言われた方がまだ納得できそうなほどの仮面っぷりである。

 洸哉はじっと眉間に皺を寄せて、落ち着きのない葵を見つめる。まさか正体を看破されたか、と葵は内心で冷や汗を吹き流しながら、努めて平然と背を伸ばす。


「書庫に行ったのか?」

「えっ? ああ、うん。面白い本がたくさんあって、とても興味深かったわ。一日じゃあ読みきれないほどだし」


 実際はまだ一頁も目を通していません、などとは口が裂けても言えない。緊迫する葵の胸中を知る由もない洸哉は「そうか」と浅く頷いた。


「気に入ったものがあれば言え。それに似たものを用意させる」

「あ、ありがとう」


 屋敷から出さない代わりに、本なら用意してやる。そんな洸哉の言葉に、葵は少しだけ落ち着きを取り戻す。いくらでも本が入って来るなら彼女としても好都合だ。あの書庫に長時間引き篭もる口実ができるのだから。それでも多少の寂寥を抱いてしまうのは、やはり不自由な人質の身であることが実感させられるからだ。


「その、後ろの方は……?」


 心の変化を悟られまいと、葵は視線を洸哉の背後へと向ける。ようやく気づいてもらえた金橋がぱっと表情を明るくし、洸哉が反対に顔を険しくさせた。


「ただの同僚だ。葵は知らなくていい」

「ちょ、それはないでしょう先輩! ――初めまして、お噂はかねがね伺っています。猫宮家のご令嬢、葵様でよろしかったでしょうか」


 人好きのする笑みのまま、金橋が恭しい礼をする。こういう態度も取れるのか、と葵は少し驚きながらもそれに応じる。


「俺――私は金橋健吾と申します。洸哉さんとは同じ職場の同僚で、私は後輩になります」

「ということは、金橋さんも……」

「ええ、調伏師として軍属の身ですよ」


 さらりと語られた紹介で、葵は自分が洸哉の仕事について何も知らないことに気が付いた。調伏師であることは知っていたが、軍に属するような立場であるとは。

 祓魔の術を扱う調伏師は人の身でありながら強い力を持つ。であれば、政府も在野の者として手放しにするはずがない。少し考えれば分かることであり、葵はそこに至らなかった自分が少し恥ずかしくなった。


「実は、今は先輩と一緒に――」

「金橋」


 そのまま勢い余って余計なことまで話しかけた金橋を、洸哉が怒気を含んだ一言で黙らせる。葵としては洸哉がどんな仕事をしているのか興味があったのだが、洸哉の厳しい表情を見れば追及する気も起きない。


「すみません。奥方に聞かせるものでもなかったですね」

「…………まだ妻じゃない」


 ぎろり、と睨む洸哉に、金橋も降参とばかりに両手を上げる。そうこうしているうちに、ミヨが小さな木の箱を持ってやって来た。


「坊ちゃん、お持ちしました」

「ありがとう」


 洸哉は木箱の蓋を開き、中にある札を確認する。その際に葵もちらりとそれを目視し、札から嫌な気配を感じとる。あれは、妖が苦手とする力を宿す呪符のようだ。

 木箱が洸哉の手に渡り、これで要件は終わる。洸哉は再び外へと向かい、金橋も軽く会釈をしてからその後に続き、葵たちも二人が門の向こうへと消えるまで見送った。


「葵様、さすがですね!」


 彼らの姿が見えなくなり、葵がほっと一息ついたその時、若い女中の嬉しそうな声があがった。驚いて振り返る葵に向かって、彼女は頬を上気させながら詰め寄る。


「書庫に篭られていても旦那様がお戻りになるのを察知されるなんて。しかも、忘れ物のこともピタリと言い当てていらっしゃいましたよね!」

「まあまあ、それはすごい!」

「え、いや、あの……」


 おしゃべりな少女の口から語られることに、周囲の女中たち、さらにはミヨまでもが驚きを露わにする。どさくさに紛れて曖昧にしようと思っていた葵は狼狽えて目を泳がせる。

 いったいどうやったんですか、と当然の問いが差し向けられる。だが抜け出して本人に揉みくちゃにされてました、などとは言えない。


「まあ、妖ならこれくらいは、ね」

「す、すごいです!」


 結局、あまりにも苦しすぎる言い訳を搾り出す。にもかかわらず女中たちは素直にそれを信じ込み、再び彼女を称え始める。


(妖のことって、実はあんまり知られてないのかしら……)


 いくら由緒正しい家とはいえ、化け猫は化ける以外に能はない。千里眼など、天狗か妖狐のような強力なものでなければ。しかし、女中たちにとっては葵も天狗も妖狐も、全て同じ妖とひとくくりにされるのだろう。

 これで良かったのか悪かったのか。いまいち釈然としない気持ちを抱えながら、葵は再び書庫へと向かうのだった。

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