化け猫婚姻譚〜鉄面皮な調伏師は嫁とは知らずに猫を撫でる〜

ベニサンゴ

第1話「三毛猫令嬢と鉄面皮の調伏師」

「葵よ。おい、どこにおるのだ!」


 人里離れた山の奥、雪溶けと共に芽吹く柔らかな緑の中に埋もれる古い邸宅に、枯れた男の声が響いた。それに続くように、若い女性たちも「姫様、どちらに」「また木の枝に登っておられるのかしら」と心配の言葉を漏らす。

 久々の陽気に身を丸めていた三毛猫は、まどろみの中で遠くから響く聞き覚えのある声にくるりと耳を揺らした。気怠げに少しだけ開いた目は、爽やかな葵の色そのものだ。


「旦那様、いらっしゃいましたよ!」


 彼女がくわりと大きく口を開けて欠伸をした丁度その時、小柄な女中がひょっこりと屋根の上に顔を出し、大きな声を上げた。古式ゆかしい邸宅の瓦屋根に梯子を立てかけ、家の中でも身軽な彼女が探しにきたのだ。

 その声を聞いて、梯子のそばに人が駆け寄ってくる慌ただしい足音が聞こえる。

 瓦の上でだらりと寝転んでいた三毛猫は、観念したように「みゃぁ」と小さく鳴くと、緩慢に伸びをしてから地上を覗き見た。


「これ、葵! 昼には客人がいらっしゃるから部屋に居れと言っただろう!」


 皺のない羽織りを装う恰幅の良い男が声を荒げる。しかし、三毛猫は涼しい顔をしている。まったく焦りを感じさせないその様子は火に油を注ぐかたちになり、男が目尻を釣り上げた。


「葵!」

「――はぁ。分かったわよ」


 葵――美しい毛並みの三毛猫が嘆息し、確かに人の言葉を放った。


「姫様、こちらへ!」


 屋根の上に顔を出した女中が、更に腕を伸ばす。だが、葵はそんな彼女の横から軽やかに瓦を蹴り、高い屋根の上から地上へと飛び降りた。女中たちの悲鳴が上がるなか、三毛猫は空中でくるりくるりと三回転。その後、不可思議に形を変え、可憐な萌黄色の着物を着た年若い少女の姿となって庭先に立った。


「さすが姫様!」

「見事な変化術ですわ!」


 その見事な身のこなしに、女中たちは思わず手を叩く。ふんす、と得意げに胸を張る葵を見て、猫宮家当主の藍楼だけが頭を抱えていた。


「――この方が葵殿か」


 得意げだった葵の耳に、聞き慣れぬ男の声が届く。父のものではない、若い青年のものだ。ぎょっとして声のするほうに顔を向けた葵は、そこに見慣れない人の姿を見つけた。

 線の細い長身の男だった。烏のようだ、と葵は率直な印象を胸に抱く。

 彼の纏う薄墨色の着物も理由のひとつだが、何よりも目を引くのは肩のあたりまで伸びた長い黒髪である。烏羽色と言うのにぴったりな、美しい艶と深みのある髪だ。

 その黒髪が縁取るのは目が覚めるような端正な顔。だが、二つの黒い瞳は冷たく、眉間には墨を引いたような深い皺が刻まれている。せっかく素地はよいというのに、その氷のように固まって微動だにしない顔が全てを台無しにしていた。あまりにも無愛想な男の表情に、葵は思わず眉を寄せる。


「おお、冷泉殿! お早いご到着ですな」


 娘の怪訝な顔に気がつかないまま、藍楼は物腰柔らかな声で見知らぬ男を歓迎する。


「父さん、この人は?」


 山奥の我が家に突然やって来た謎の男。なぜ父はこんな怪しげな風貌の者を歓待しているのか。

 葵は父親の袖を掴み、眉を寄せながら問いかける。ギョッとしたのは父親の方だった。彼は心底呆れたような顔をして、客人の名を告げた。


「お前は何も聞いておらんかったのか……。この方が冷泉洸哉殿だ」


 レイゼイ、コウヤ。その名前に葵はわずかだが聞き覚えがあった。たしか、数日前に父がそのような名前を口にしていたような。まだ冬の気配が消えきらず、森深いこの辺りも寒かったころだ。火鉢の近くでうつらうつらとしながら聞いていた、ような気がする。あれはいったい何の話だったか……。


「葵、お前はこの方の妻となるのだぞ」

「…………は? はぁああああっ!?」


 当然のこと、とばかりに口にした父親に、葵は思わず大きな声を上げる。人里離れた森の中に声は響き渡り、鳥たちが驚いて羽ばたく。

 だが葵はそんなことに構う余裕もなく、父と突然現れた男の顔を交互に見る。


「私が?」

「うむ」

「この男と!?」

「うむ。だからそう言っておるだろ」


 少しうんざりした様子の藍楼。この説明、実のところすでに五回全く同じように繰り返していた。周囲の女中なども誦じられるほどであり、知らぬはただ一人、毎回居眠りに興じていた葵だけである。


「つ、つつつ、妻って。私が結婚するってこと!?」


 寝耳に水といった態度を崩さない葵が、自分の鼻先を指で示す。


「そうだ。お前ももう十八になる。もはや遅いくらいなのだぞ」

「だからって、こんなどこの馬の骨とも分からないような……」


 言いかけて、葵はかっと目を見開く。彼女の嗅覚が、洸哉の身の内からほのかに滲む匂いを感じ取った。それが何なのか、分からぬほど彼女は幼くも無知でもない。


「こいつ、人間――。それも、調伏師じゃない!」


 妖の本能が告げている、強い違和感。眠気に浸かっていた頭が氷室に入ったかのように冴えていく。冷泉洸哉の着物からぷんと香るのは、妖を祓う香のそれだ。丹念に隠しているようだが、葵の鼻は誤魔化せない。

 敵意をあらわにする葵の目が吊り上がった。突如、彼女の体がぐにゃりと歪む。


「葵、やめなさい!」


 慌てた父親の声も遠くなる。気がつけば、葵は頭に獣の耳を乗せ、爪を鋭く尖らせた、半人半獣の姿へと変化していた。


「――なるほど、見事な変化だ。さすがは由緒正しき化け猫の一族というだけはある」

「シャーーーッ!」


 人ならざる姿へと変化した葵を見ても、洸哉は眉の一つも揺らさない。その鉄面皮に葵自身のみならず、彼女を羽交締めにしていた藍楼や女中たちまでもが驚いた。


「猫宮葵。君を我が妻とする。これからは共に暮らすのだ」


 由緒正しき化け猫の一族を取り纏める猫宮家と、妖を滅し人を守る調伏師として活躍してきた冷泉家。妖と人、対立する両者が歩み寄った、記念すべき日のことであった。

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