イノセント・レボリューション
西木 景
とある歴史書の一節
時はさかのぼること、約500年前。
世に点在する国々の間で様々な規模の戦乱が相次いで勃発していた。
主な火種は『格差』だ。
持つ者は富み、持たざる者は貧する。その隔たりは埋めるには、持つ者から持たざる者が奪いとるほかにない。
それゆえ、恵まれた気候がもたらす肥沃な農地や、大量の天然資源が眠る鉱山など、経済的な要衝地の獲得を巡った侵略戦争が各地で横行したのである。
小さな摩擦が大きな闘争を招くその時代、民衆が住まう町村はしばしば火の海に飲まれ、豊かな土地も痩せた土地も等しく焦土と化していた。同時に、多くの血涙が流れ、累々とした命の灯火が常闇に葬り去られたことは言うまでもない。
そんな暗黒の時勢にひとり、立ち上がった英雄がいた。
その名は〝グラビウス・イニシエール〟――元は教会が運営する私有軍に籍を置いていた彼の勇者こそ、現代の安寧秩序の世を創り上げたその人である。
イニシエールは1本の聖剣と少数の兵士を携えて戦乱渦巻く各所に赴き、その圧倒的な武力と如才なき明をもって争いを鎮めて回った。
そうして幾多の戦乱の歴史に立ち会う中で、国や民族といった目に見えない繋がりがいさかいの温床になっているという思想を強めるに至り、やがて『国家統一論』を唱えて国境線を取り払う活動に心血を注ぐようになる。
時に伝統や既得権益に固執する衆の抵抗に遭いながらも、平和な世を希う民やその超人的な推進力に心酔したシンパからの支援もあり、100余りあった国々の統一はたった15年の歳月で成し遂げられた。
国家という概念の消滅により一時的に混迷を極めた世を統治する機関としてイニシエールは世界政府を樹立し、自らその王座に就いて為政を司った。
まず執り行ったのは、私有財産の解体だった。
国境を取り払っただけでは個人間の貧富の差は埋まらない。この格差がいずれ不和を呼び起こし、流血すら厭わない紛争にまで発展することとなる。
そう予見したイニシエールは、積極的に経済に介入する策を講じた。具体的にいうと、個人が所有していた富の一部を没収して、清貧な民衆に再配分したのだ。
持つ者から持たざる者への私財の移動。大胆かつ暴力的な逆搾取に債権者からは当然不満の声が上がらないはずもなく、また、かつての強引な国家統一の手法に反感を抱いていた者たちをも巻き込んだ反政府勢力による暴動が各地で立て続けに勃発した。
しかし、それらの暴動は、世界政府樹立後に治安維持を目的として設立された国軍に当たる聖騎士団が迅速に鎮圧し、その圧倒的な軍事力が明るみに出るや大半のレジスタンス活動はなりを潜めるようになる。
そうした状況が続く次第に、政府に対する不満や怨恨の情もいつしか風化の一途を辿っていった。
数年が経ち、すっかり穏やかになった新世界を王座から見渡して、イニシエールは次なる野望を胸にした。
――かつての世にありふれていた貧富の差は軒並み縮まりつつある。民衆は飢えに苦しむことも、無用な血を流すことも無くなった。
しかしこれを『平和な世』と呼ぶにはまだ早い。市井を見渡せば、まだそこかしこに争いの火種が燻っている。
人が他人を害する動機は差別だけではない。ちょっとした欲の張り合いや裏切りが他人の命を軽く見せてしまうこともある。そのような心の不完全性が無用ないさかいを生み出し、人々を闘争へと駆り立てるのだ。
人間の心の不完全性を完璧に正すことは不可能に近い。だが、完全から程遠い人間を駆逐していけば、理論上、世界の安寧秩序は保たれるはずだ――
そうした理念から端を発して誕生したのが社会不適合者強制収容島、通称『監獄島』だ。
地図にも載っていないこの島を、イニシエールは世界の外側と定義した。ゆえにこの島ではあらゆる法の効力が失われ、医療福祉や社会保障の恩恵も享受することはできない。
人権無視の無法地帯。そこは力のある者しか生き残ることが許されない、暴力だけが絶対的正義のディストピアだ。
制度の導入に前後して、凶悪なテロリズムや強盗・強姦に類する犯罪は幾ばかりか件数を減らした。これは死刑よりも厳罰とされた島流しを民衆がこの上なく恐れていたことを表した例といえよう。
そして、時は現代に戻る。
イニシエールが没してから幾星霜と月日が流れた。
英雄なき後の世においても、500年前に横行していた戦乱の類は一度として発生した記録はない。
それは近現代のめざましい技術革新がもたらした幸福度向上の成果だという見方もあるが、イニシエールが敢行した幾多の策がその礎となっているとの声も依然として根強い。
今でもイニシエールは平和の象徴として民たちから崇拝され、その生涯にまつわる伝説の数々が各地方で、数世代に渡って連綿と語り継がれている。
グラビウス・イニシエール――古今東西の世において、その名を知らぬ者は存在しない。
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