第四章①
第四章:「感謝」
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やれやれ。
その場の空気を満たしているのは、そんな溜息交じりの倦怠感であった。
『……です。また今回の事件の容疑者であるマルチネス被告は、過去にコロンビアの反政府組織に属していたという情報もあり、国際指名手配されていた同容疑者が日本に入国できたことに対して、外務省の入国管理体制にも大きな疑問が残るのではないか、と言った批判が出ています』
テレビ画面から流れてくる情報に、その場にいる全員が失笑しているのだ。
「まさか失敗するだなんて思わなかったな」
ソファーに深く身を預け、マルコが見下すように画面をアゴでさす。面長の頭が少し揺れ、長めの髪の毛が首筋に触れていた。ラテン系特有の彫りの深い顔立ちに納められた端整な各パーツは、どこか楽しげに笑みを浮かべている。しかしその中身は嘲弄なのだ、と誰もが理解していた。
「所詮はゴロツキだったってことだ。俺たちプロに任せればこんな事にはならなかっただろうな」
シンプリシオがそう言うと、彼の連れが何人か、忍び笑いを漏らした。それは自信の表れなのだろうが、少々ばかり下品だっただろう。
「家族四人を殺したんだっけか? 娘一人を攫うだけでよかったのにな」
カタン、と椅子に腰掛けたサンチェスの確認の声。仲間だった者への同情は無い。あるのは心底から見下したような響きだけ。
つい先日から合流したばかりだというのに、この連中は溶け込みすぎているような気がする。同じ匂いを持つ男たちの集団が、怠惰な空気を発しながら、互いに探り合っている状況。異質なものだ。
皆が同じ画面を見つめながら、似たような表情をしているのは奇妙だった。ホセ・マルチネスの失敗を蔑視しながら、心底からそれを楽しむ下卑た習性。室内に漂う少しだけの緊張感に安心しているような素振りも気に食わない。
『外相は今回の事件を受けアルゼンチン大使を召喚し、事件の完全な解決と再発防止を要請したということです。なお本日、殺害された四人の告別式が行われ……』
画面が切り替わって、現場のリポーターが顔を出す。何事かを捲くし立てるその後ろに、チラリと喪服を纏った少女が見えた。小柄で短い髪の女の子が、俯きながらマイクロバスへと向かっている。焦点が合っていない背景の映像では確認しづらいが、彼女の可愛らしい顔は曇っているように見えた。寂しそうな姿だな、と思う。
可哀想に、という感想だ。だがそれ以上は考えてはいけないだろう。ターゲットであるこの娘に同情することはできない。
「あんたはどう思う?」
マルコの声に、フッと視線を外す。真正面を向くと、彼の視線とぶつかった。
「あんただよ、ベント」
ライアン・ウィルソンは、それが自分への質問だと気付いて、少しだけ考えを巡らせた。
「ホセのことか? ……余り死人を悪く言うのは好かんな」
「悪口を考えてたって事だろ。本人は地獄にいるんだ、言っちまえよ」
「なぜ四人を殺したのか、それだけは本人に聞いてみたい」
「へっ、つまんね。そんなのぁあいつの趣味だろ」
マルコは興味を失したようだ。大袈裟に視線を外して天を仰ぐと、周りの男たちの苦笑が響いた。
「じゃあ自殺もあいつの趣味なのか?」
ふざけたように訛りの強い英語が飛んだ。サンチェスの取り巻きの一人だ。
「ハッ、大方、任務失敗で下げる面がなかったんだろ。ま、あのまま帰ってきても俺らがぶっ殺してただろうがな」
「お前らホントにそう思ってんのか」
呆れたようにマルコが首を振ると、は? と言うようにその場の空気が固まる。その様子では、本当に自殺を信じ込んでいたのだな、とライアンも溜息を吐いていた。
「ありゃ殺しだよ。ホセは失敗したから自分で死ぬような殊勝な奴じゃねぇ。それにあんな離れたところで死んでたってんだ、誰かがホセを刺したんだろうぜ」
「な、……誰がそんな? あれでも一端の殺し屋だぜ?」
「知らねぇよ。んなことまで分かるか、俺が」
投げやりに答えるマルコだが、そんな彼に反して、部屋の雰囲気は固まっていた。先程までの倦怠感ではなく、明らかに緊張感が充満している。
その様子を見てライアンは口を開いた。
「何者かは分からんが、ホセを殺せるだけの力量を持った人間が邪魔をしたと考えるのが妥当だろうな」
「そんな事があるのかよ? ここは日本だぞ?」
「日本人でも優秀な傭兵や殺し屋だっているさ。それにお前が言ったとおり、ホセは一端の殺し屋だった。偶然で殺されるとは思えん」
彼の言葉が終わると、ゴクリと生唾を飲む音がそこかしこで聞こえた。唖然としている男たちに呆れながらも、これくらいの緊張感があるほうが良いな、とも思っていた。
そんな沈黙を破るように、階段の方から怒鳴り声が聞こえてくる。
「チェーザレ、ウィルソン! シェーファーが呼んでるぞ!」
ライアンは一つ頷き、立ち上がる。その後でマルコに、行くぞ、と促した。面倒くさそうに動き出す彼と共に部屋を出ると、残った男たちは未だに言葉を発せずに考え込んでいるようだった。
再び沈黙の降りた室内で、他の話題に変わったテレビが、能天気なニュースを流しているのが印象に残った。
1
プシュー。
ガタ、ン。
車体が小さく揺れて、ゆっくりと静止する。プラット・ホームに特急電車が収まって、一瞬の沈黙の後に、スッとドアが開いた。そうしたら、先程までゆったり寛いでいた人々が、今度は我先にと急ぐように車内から降り始めるのだ。まるで突進するかのような勢いで出て行く人をやり過ごすようにして、聖杜たちは一番最後に駅へと降り立った。
「大丈夫?」
自分たちが降りたその瞬間に、今度は我先にと車内へ入り込んでいく乗客に少しだけ気圧されながら、由梨花が聖杜に聞いてくる。ただその質問の趣旨が分からずに、聖杜は、え? と聞き返していた。
「荷物。重くない?」
「ああ、大丈夫。平気だよ。むしろ軽いくらいだ」
笑って、聖杜は、よっ、と身体を揺らした。その背中には、安らかな寝息を立てる杏子の姿があるのだ。電車での移動中に寝入ってしまった杏子は、結局、駅に到着しても起きなかったのである。
聖杜は杏子の荷物も手に持っているので、両手がいっぱいの状態だった。そのせいで体勢がずれて、頻繁に身体を揺する様にして杏子を抱え直している。その様子を見て由梨花が、大丈夫かと尋ねたのだ。
そっか、と由梨花は一つ、頷いた。その後で杏子の可愛らしい寝顔に笑みを浮かべて、そっ、と撫でてあげる。
「よく寝てるね」
んぅ、と杏子が身じろぎした。
「疲れてるんだよ。……色々あったんだから、ね」
聖杜は言ってから、そうだよな、と改めて気付かされた。この小さな身体は、押し潰されそうな多忙の中で、一人で苦渋に耐えてきたのだ。それを考えると心が痛む。
「行こう。まだ少し時間あるけど、早めに席とっとかないと」
気を取り直したように前を向いて、聖杜は階段へと歩を進めた。うん、と由梨花が頷いたのを感じながら。
ふと周りを見回すと、何本もホームがある広大な駅の姿に気付いて、少し不思議な感じがした。
重成たち杏子の家族が殺されてしまってから、もう一週間近くの時間が経過していた。
その期間、杏子は本当に頑張ったのだ。一人きりの寂しさに耐えながら、四人の御通夜や葬式に出席し、その度に世間の容赦ない視線へとその身を曝してきたのだ。好奇と同情がマスコミを通して日本中へと配信され、悲劇はまるでエンターテイメントのように人々を熱狂させ、興奮は鋭い矢のように杏子の姿に集中した。小さな少女は、絶望のような悲哀の中で、多くの一般人が持つ狂気のような力に心を引き裂かれてきたのだ。
マス・メディアの仕事は徹底していた。日がな一日、家の前を取り囲み、その周囲の家々をも巻き込んでいく。それどころか子供の通っていた学校、親の勤め先の企業、良く行く店の店員や友人関係まで、何も漏らすまいとプライバシーを食い荒らし、また本人の哀愁を映しながらも、スキャンダル性を追い求めて嗅ぎ回り続ける。近しい人の死を悲しむ者たちにも容赦なくマイクを向ける姿は、さながらハイエナを思い起こさせるものであった。
そこに、個人的人権などという概念は、存在しない。
あるのはただ、自分勝手な正義感と、好奇心と言う名の本性だけである。
彼らは常に大勢になる。そうなると、配慮という言葉自体が、無くなってしまうのだ。エキサイトした干渉は、傷付いた人間を一蹴するほどの破壊力を持つ。
杏子は、その小さな身体で、幼い心で、熱狂した暴力に耐え続けた。
目の前にある四つの遺体が火葬され、もはや元の姿さえ亡くなってしまった家族を見て、それでも少女は耐え続けたのだ。
家族の死と、それに群がる世間の態度。二つの呪縛に挟まれながら、杏子は現実に目を背けることなく、埋葬までを全て見届けた。
それは、とても凄いことなのだ。
事件の翌日に杏子に対して暴言を吐いていた親族たちも、負い目は感じているらしい。
彼らは一度、冷静になった時には、とても堅実に全ての過程を遂行してくれた。それに自分たちが酷い事を口にしたことも分かっていたのだろう、彼らは別々にではあるが、杏子に対しての謝罪もしてはいるのだ。
だが、やはり積極的に杏子を引き取ろうという者は、いなかった。結局、彼らは聖杜たちの説得に応じて、杏子を中村家に預けることにしたのだ。
聖杜は両親にその事を伝えた。電話越しになってしまったのは残念だったが、正孝は話を聞き終えるとすぐにこう言ってくれた。
『お前の思ったとおりにすればいい』
お前は正しいんだ、と言われた気がして、聖杜は凄く嬉しかったのだ。
役所への申請やら手続きやらは、いつの間にか完了していた。外国にいるはずの両親がどのようにしてそれらを済ませたのかは判らないが、聖杜は本当に、頭の下がる思いだったのだ。
その後は、遺品の片付けや土地の権利の譲渡、杏子の引越しなど、様々なことをせねばならなかった。休む暇も無いほど忙しかったのである。色々とあって疲れただろうに、それでも杏子は弱音を吐かなかった。
聖杜たちは、学校側に事情を説明して、休みを取ることにした。杏子の疲れを取ってあげたかったし、家族を失った悲しみを紛らす手助けになれば、とも思ったのだ。それに、これから新しい家族となるのだから、しばらく一緒に過ごしても良いだろうと考えたのである。
その為には、田舎の祖父を訪ねるのが一番だった。家族として、宗家の祖父に紹介することも重要だし、それに地元から離れた場所の方が落ち着くだろう。そう思って、電車でここまで来たのである。
特急で二時間ほど揺られたら、山に囲まれた中部地方の都市に出る。大きな駅からさらに電車を乗り継いで二駅ほど外縁に行った新興住宅地に、その家はあるはずだ。
2
田舎、と一口に言っても、そこはもう随分と開発された土地にあった。
流石に人口が減少している地方都市ではあるが、そこの自治体行政はコンパクト・シティ構想を掲げ、駅前や都市周辺への住民の移住を促してきたのである。その場所は活気に溢れ、人々が互いに支えあって暮らしあう、明るい街であった。
聖杜の祖父・寿重(とししげ)は、二年前に伴侶の和子を亡くしてから一人暮らしを続けている。山の中にある広い屋敷で余生を寂しく過ごすのに耐えられなくなって、市の政策に促されて中心部へと移り住んできたのだ。ただし、老人介護システムを備えた最新設備のマンションに入るのだけはプライドが許さないと駄々をこねて、比較的新しい住宅地の家を買うことになったのは、聖杜には些か予想外のことではあった。よもやあの歳になって家を買うとは、と驚いたのである。
その、少しこじんまりとはしているものの、一人暮らしには大きすぎるであろう一軒家を目の前にして。長旅の軽い疲労感を自覚しつつ、聖杜は呼び鈴を押し込んだ。
ピンポーン。
標準的な呼び出し音が小さく聴こえてくる。それから程なくして。
ドタドタドタ。ガチャリ。
なんだか老人には似合わない喧騒と共にドアが開き、そこには生え際が大きく後退した白髪頭の、ひょろりと痩せたお爺さんが姿を現した。寿重その人である。
「あ、やあ祖父ちゃん」
息せき切った感じの寿重に、軽く手を挙げる聖杜。
ニッコリ。老人はヘニャリと相好を崩した。
「おお、おぉ。よく来たのぉ。待っとったんじゃぞえ~」
だらしない――と言ったら失礼だが、それぐらいクシャリとした笑顔を浮かべて、寿重は聖杜たちに相対する。普段は厳格な頑固ジジイで知られるこの人物も、可愛い孫の前では、ただの翁だ。
「こんにちは、お祖父ちゃん。お久しぶりです」
「こ、こんにちわ……」
由梨花の挨拶に促されるように、杏子がオドオドと頭を下げる。
「おお、そっちの子が、杏子ちゃんかの。ええのぉええのぉ、可愛いのぉ。ささ、早く上がるんじゃ」
思いっきり眼を細めて、もう待ちきれないって感じでソワソワしながら招き入れる寿重。そんな祖父に促されながら、お邪魔しまーす、と一声かけて三人は家の中に上がり込んだ。
普通に玄関から靴を脱いで上がって、寿重に先導されてリビングに入ろうとする。そこで何とはなしに後ろを振り向いて、ポケー、としながら玄関に立っている杏子に気付いた。
「どうしたの?」
杏子に声をかけたのは由梨花だ。スッ、と近づいて顔を覗き込んだら、杏子は気付いたように靴を脱いだ。
「は、始めて来たお家だから……」
そう言って、杏子は眼を伏せるように家の中に入る。まだ由梨花に慣れていないのだろう。それを由梨花も分かっているから、視線を外されたことを気にもせずに、少女の背中にそっ、と手を添える。
「そうだね。初めての家って、少し珍しい気分になるもんね」
まだぎこちない感じはある。でもこの様子を見ていると、二人はすぐに姉妹になれるだろう。杏子が少し恥ずかしがりながら目を細めたのを認めて、聖杜はそう思った。
「さ、二人とも。早く入って、皆で一緒にお茶を飲もう」
聖杜はテーブルの上に置いてある急須や茶菓子を認めて、笑いながらそう言った。
その日は、何だか時が少し慌しく進んだような気がした。荷物を置いてからお茶を飲んで、ちょっとまったりしたら夕飯の準備。お祖父ちゃんがはりきってヤケに豪勢な食材を買い込んでいたので、皆で楽しく(たまに大変な事になりながら)料理を作って、四人では多すぎるくらいのご飯をゆっくりと食べた。その後でまた、まったりとお茶を飲んで、お風呂に入って、テレビなんかを見たりして、一日を終えることにしたのだ。
いつもと余り変わらないようなことでも、場所が違うだけで随分と新鮮な気分になる。
ただ、それが杏子にとっていい方向にばかり働いたかは、判断しかねることであった。忙しさの続いた後で、いきなり慣れない環境に放り込んでおいて、リラックスしろと言うのは無理な話である。お茶の時も夕食の席でも、彼女は会話に加わって、ときおり笑顔も見せるほど積極的ではあった。しかしそれが虚勢を張っている状態であることは、見ていれば分かってしまうのだ。疲れたような溜息や、一瞬見せる暗い表情、笑顔にちらつく陰も、所々で気付いてしまう。それでも杏子は、辛い気持ちを見せまいと、精一杯に明るく振舞っている。
これは彼女の強さだ。杏子は今、必死に悲しい気持ちと戦っているのだ。その事を意識してしまって、少しぎこちない雰囲気が自分の中にあるのを、情けなく思ってしまう。
せめて杏子に無理だけはさせたくない。寂しくは無いんだよ、て。それだけは伝えてあげたい。
そう思いながらも、聖杜は何もできない自分に歯痒い気持ちだった。
時刻はすでに深夜の域に達している。聖杜は二階の部屋の一つで、暗がりの中、ベットに寝転んでいた。普段は使っていない部屋だから、少し空気が埃っぽい。カーテンから僅かに透ける街灯が、闇に慣れた目と相俟って、自分の部屋とは異なる天井を視認させる。
半ば、寝ることは諦めているのだ。目を閉じても眠気が無い。だから開いたままにしている。
ふうっ、と。知らず知らずのうちに溜息が零れた。
このとき聖杜は、自分の判断が正しかったのかどうか、分からなくなっていたのだ。
(杏子を悲しませたくないって思ったのに……預かっておいて、その杏子に無理をさせてる。本当はそっとして置いてあげるべきだったのかもしれない。他人のボクが出しゃばる事で、皆に迷惑をかけたんじゃないかって、そんなことばかり考えてる)
そんな自分に、嫌気がさしているのだ。杏子のためだと言って置きながら、結局は杏子のために何もできていない。
チクショウ、と思う。
(もしかして……ボクはあの時、自惚れてたのかな。杏子が泣いてたのを見て、泣かせている人たちを見て、それを軽蔑した。俺なら大丈夫だって、ボクが杏子を預かることで重成を安心させてやれるって、――その考え自体が的外れだったのかもしれない)
考えれば考えるほど、良い方向には行かない。結論が全く見えない堂々巡りの思考に、聖杜自身が追い詰められている。
「なぁ、重成。ホントにこれで良かったのかな……」
宙に向かって、ポツリと一言、呟いた。どうやっても答えの聞けない問いに、聖杜は情けなくなって、眉根を寄せる。
思い出してしまう、あの瞬間を。
それは、聖杜自身が、未だに吹っ切れていないことを意味した。
(もしかして……ボクはあの時の贖罪がしたかっただけなんじゃ、無いのか?)
なるべく避けてきた考えだった。何もできずに親友を失った悲しみを忘れたかったから、あの時の償いに置き換えたかったから、だから杏子を引き取ったんだ、と。そんな自分本意な行動ではなかったか。聖杜がもっとも恐れていた帰結が、これだったのだ。
違う、と思いたい。自分はそんな身勝手な気持ちで杏子の人生を弄んでるんじゃない、そう言い聞かせたい。
でも聖杜には、もうその考えを明確に否定できる自信が無かった。
コロ、と寝返りを打つ。壁の方に視線を向けて、頭を抱えるように身体を丸めた。
もう止めよう、考えるのは。今はただ眠るだけ。それだけを優先するべきなんだ。聖杜はゆっくりと目を閉じた。一番辛いのは杏子なんだ、その結論だけを頭の中に残して。
朝になって、自分が疲れていてはどうしようもない。杏子を安心させるためにも、今は眠って精神を休めるべきなんだ。
聖杜はただただ、それだけを言い聞かせた。だがそれは、自分が考えたくないだけなのだ。
でも、今はそれが、もっとも必要なことなのかもしれない。
由梨花もまた、眠れない自分に苛立っている所だった。
ここは一階の客間、比較的広い畳部屋であった。そこに杏子と二人、布団を並べて寝ているのだ。
杏子はもう、寝てしまっただろうか。時計が針を動かす規則的な音だけが響く室内で、まるで寝ていない自分を隠すかのように息を潜める由梨花は、目を閉じたまま周囲を気にする。
罪悪感、とは違うだろう。とにかく考えていたのは、余所余所しいような感じになってしまう自分の態度のことだった。
由梨花もまた、自分自身に苛立ちを募らせているのだ。杏子に対して、未だに戸惑いがあることを、自覚している。だがその戸惑いの正体が分からない。
何かは分からないが、違和感があるのだ。
杏子の健気さには胸が打たれる。それに、お通夜で泣いていた姿を見て、聖杜に縋るように抱きついた姿を見て、由梨花は決心したのだ。この子を家族に迎え入れよう、その涙を拭ってあげたいんだ、と。それは決して、同情だけではない。
だがいざとなると、どう接すればいいのか分からなくなってしまう。混乱する、という表現がいいのだろうか。距離感が見えなくなって、逡巡してしまう。
断っておくが、杏子のことが嫌いなのではない。まだ良く知らないが、むしろ好きだと言える。嫌いになる要素が無い、と言ってもいい。
きっと、これからお互いを知ることで、もっと好きになっていく。そういう確信はある。でも、そこに行くまでの道のりが、まだ掴めない。そんなもどかしい思いである。
(どうすれば良いのかな、私……)
自己嫌悪にも似た思いが、心の中に広がってくる。小さく息を吐き出して、そっと隣を覗き見た。
――ウ、……クッ……
(………………!)
杏子はこちらに背中を見せていた。その丸まった背が微かに震え、頭が不規則に揺れているのが分かった。
――ウウッ……グスッ、スン……
泣いて、いた。
杏子は由梨花に背を向けて、必死に、何かに耐えるように、涙を拭っているのだ。
その姿はとても小さくて、震える肩は何よりも儚く映る。
(あ、……そうか)
由梨花は理解した。
自分はこの子とどういう関係になるのか、それが分からなかったのだ。立ち位置が分からなくなったから、どう接していいのか、戸惑っていたのだ。
それと同時に、自分が今まで、どれほど独り善がりな悩み事を考えていたのだろう、と思った。
由梨花は、そっ、と布団の中から出る。
「杏子ちゃん」
静かに声をかける。杏子の肩が、びくり、と揺れた。
「一緒に、寝よ」
そっと杏子の布団の中に入る。そして、そっ、と杏子の身体を抱き締める。
小さな背中を抱き寄せて、静かに、フワフワした髪の毛に頬を寄せた。
「あっ……」
涙混じりの吐息が、杏子の口から空気へと、拡散していく。
キュッ、と背中が密着する。
「辛いよね……。頑張れば頑張るほど、悲しくなっちゃうんだよね」
ゆっくりと、由梨花は少女の頭を撫でてあげる。うあっ、とまた、杏子が嗚咽の声を上げた。
「偉いよ。だって皆のことを、あんなに気遣ってるんだもん。辛くても、悲しくても、苦しくても、全部を自分で抑え込んでたんだもん。杏子ちゃんは凄く偉い」
「お、おねぇ、ちゃん……?」
グスッ、と啜り上げる音がする。杏子の涙は、まだ止まらない。
由梨花は、自分の心に温かいものが広がっていくのを感じた。慈しみが溢れてくる。
「大丈夫だよ。杏子ちゃん、今は恐いけど、苦しいけど、でも寂しくは無いからね。私たちが一緒にいるもの。だから、大丈夫だよ」
ふる、と杏子の身体が大きく震えた。ふえ……、と呟いて、ギュッ、と縮こまる。
「ふ、、うわーん!」
杏子の体が反転した。顔を由梨花の胸に押し付けて、背中に手を廻してギュッ、と抱きついてくる。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん!」
由梨花を呼ぶ声が胸に染み渡る。より一層、杏子のことが愛おしくなり、少女の頭を抱え込んだ。
杏子の嗚咽が大きくなる。辛い悲しみを解き放とうと、慟哭が溢れて、吐き出される。由梨花の胸に杏子の涙が吸い込まれて、それは溶けて行くような温かさで透き通っていった。
「杏子ちゃん……私ね、杏子ちゃんのこと、大好きだよ」
心から、その言葉が自然に出てきた。サァ、と溢れて、その響きは包み込むように二人の身体に入っていく。時間なんか関係ない、いま二人は、確かに家族なのだ。
「お姉ちゃん……お姉ちゃん、お姉ちゃん!」
泣きじゃくる杏子を抱き締めて。
由梨花は自分が、杏子にとってどんな存在なのかを、噛み締めた。
(ああ、私、この子のお姉ちゃんなんだなぁ……)
それはとても、温かい気持ちだ。
由梨花は杏子を大切にする。
杏子もまた、由梨花を大切にする。
家族、なのだ。二人は家族であり、姉妹である。
それが、その絆がどれほど素晴らしいものか。どれほど大切なものなのか。由梨花は小さな女の子を抱き締めて、その事をゆっくりと確認した。
だって今は、杏子の全てが愛しく、儚い。
この大切な存在を大事にしなければならない。震える杏子を胸に抱きながら、由梨花はとても優しい気持ちの中にいる。
きっとこうして、私たちは家族になっていくんだ。その思いは確信だった。
夜の静寂が心地よく染み込むこの日、二人は静かに、眠りへと落ちていく。
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