とある夏の一日

和音

散歩


 私は歩いていた。散歩と言われればそれまでだが、何か他の言葉を当てはめたい。現実からの逃避、自由の咀嚼、健康のための運動、どれもしっくりこない。そんなことを考えながら足を進め、突然に知らない道へと吸い込まれる。ただそれの繰り返し。私は強い日差しを木々の陰で遮りながら、直感に従って目的もなく進む。微かに子供達のはしゃぐ声が聞こえ、陽が高く高く昇る。とある一日。


 途中、自動販売機を見つけた。私は小銭が数枚入っただけの財布と気怠く火照った身体に相談し、迷う事なくジュースのボタンに手を伸ばした。まぁ、あれだ、身体は正直ってやつ。私を囲う熱に刺さるような感触。冷やされた缶を手のひらでくるくると弄ぶ。その冷たさを十分に堪能した私は小気味よい音を鳴らし、缶を開ける。中身は甘く爽やかで、でも喉に引っ掛かるわざとらしいリンゴの味。自然と科学の融合体が私の中身を満たしていく。暑さも和らいだところで、命を削りながら鳴く蝉の声と遠くに聞こえる踏切の音を背に歩き出す。

 

 何かを考えている様な、何も考えていない様な感覚に身を任せ、何十分、何時間と歩いた。街の中心から外れ、歩く人とすれ違う事が段々と減ってきた頃、私の瞳にある建物が飛び込んできた。それは立派な作りではなかったけれど周りの建物とは違う、どこか不思議な空気を纏っていた。コンクリートやモルタルの森の中に、こじんまりと在る木組みの柔らかく、落ち着いた色合い。


 私は気になって、周囲の目を気にしながらふらりと立ち寄る。私に、この店に意識を向けている人は誰も居ない。わかっているけど、気にはなる。一段、木のステップを踏み締めて体全体を押し上げる。小さな出窓からは不思議と中の様子が見えない。私は、『OPEN』と流暢に描かれた小さな看板を信じ、店の扉に手を掛ける。


 手に伝わる冷たい感触と共に、身体中を駆け巡る強制力と警告。歓迎と拒絶を同時にされたようで扉に伸びた手が緩む。好奇心と不安の混ざり合う胸に少し注がれた勇気によって、店と私を隔てる扉が開かれた。


 視界に広がるのは、外観にそぐわない広さと数多の商品。淡く不安定な光を放つ色とりどりの石に、底が丸く平らなフラスコに詰められた蛍光色の液体、刻々と流れるように形を変えていく白銀のブレスレット。店には見たことのない様な物が窮屈にひしめき合い、小さな世界を創り出していた。


 私がその世界に惹かれていたところで小さく紙をめくる音が聴こえ、意識が元の世界に戻ってくる。音の方へと視線をやると、背表紙の厚い古そうな本を魔女が読んでいた。黒く大きな三角帽子から流れ出す金色の髪、紫のアクセントを効かせた真っ黒なローブ。


 私は邪魔にならないように、足音を殺しながら店を回る。呼吸ひとつでさえ響き渡るようなこの店では不可能だと気づいたが。一つ、心惹かれるような商品ものを見つけた。当たり前のように下から上へサラサラと流れていく空色の砂と、それを封じ込める複雑な模様が入ったねじれたガラス。重力に、この世のことわりに精一杯反逆している砂時計。しかし、値段が分からない。私はその砂時計の裏に何か貼られていないか確認しようと、手を伸ばした。刹那。


『———、———!』


 何か聴こえたが、言葉として頭に入らない。それどころか身体が何かに押さえつけられたように重たく、不自由になる。呼吸一つ、瞬き一つできない中、コロンコロンと軽快に鳴る入り口のドアのベルの音。それに反するように、濁って重苦しい空気が店に淀む。


 ぞるり


と私の背後を通り抜けるのは何よりも黒く、何処までも闇に近い影。


「ほらよ、いつものだ。対価を払ったらさっさと出ていきな」


 机の上に静かに置かれたガラスの音と、乱雑に散らされた石と金属の混ざった音が耳に残る。


「———」


 黒い何かはまた私の後ろを通り、出口へと向かう。私がそこで少し安堵し、気を緩めかけた時、視界一杯に広がるのは私を覗き込む無数の目と距離感を狂わせる様な黒。私は喉の奥から込み上げる嗚咽と身体中から湧き出る涙と震えを抑え込み、必死に倒れそうな体をなんとか支える。何度も何度も死の感覚が脳裏をよぎり、その度に吐きそうになった。


「あー、。悪いがそいつは非売品だ。今日のところは諦めてくれ」


 サラサラと上に流れる砂がいくつ墜ちただろうか。ゆっくりと視界から黒が消えていき、コロンコロンと鈴の音がする。私は思い出したように呼吸を繰り返し、身体中に酸素を巡らしていく。狭窄した視界が広がり、喉の渇きがおさまった頃、黒い帽子を被った店員さんが立ち上がる。


「悪かったね、まさかこんなタイミングで来るとは思わなかった。あー、お詫びと言ってはなんだが、何か一つ好きに持っていくといい」


 私は正常に回りきっていない頭をなんとか動かして、空色の砂時計を差し出した。


「…ふむ、それならまあ問題ないだろう、持っていけ。もうこんな店に来るんじゃないぞ」


 私は急かされるように背中を押され店を出て、木のステップを一つ降りたところでふと振り返る。そこには古びた一軒家がぽつんと建っていて、魔女の店員さんは何処にも見当たらない。迷惑そうに私の後ろを通る人の足音に始まり、車の音や室外機の音といった街の喧騒が私の耳に入ってくる。思い出した様に意識に入り込んでくる蝉の鳴き声とじりじりと照りつける陽射しの暑さに囲われて、私は呆然と立ち尽くす。手に握られた砂時計を見ると、涼しげな淡い水色の砂が重力に従って流れていた。私は小さく息を吐いて、足を進める。まだまだ散歩は終わらない。

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