勿忘峠
すぎモン/ 詩田門 文
勿忘峠
煙草の煙の向こうに、街が見える。
その後方に沈みゆく、赤い夕日。
俺が立っているここは、山の上。
市内を一望できる展望所だ
忘れたくない思い出。
忘れたくても、忘れられない思い出。
そんな数々の思い出が、この峠には刻み込まれている。
ただっ
俺はゆっくりと煙草を味わいながら、物思いにふけっていた。
……いや、誰もいないわけじゃないな。
振り返り、相方へと視線を向ける。
そこには夕日を反射して輝く、赤いスポーツカーが
RX-7。
長年連れ添った、俺の相棒。
かなり古い車だ。
最新のFD型でも、生産が終了してからかなり長いこと経つ。
俺の相方は、それよりさらに古いFC型と呼ばれるモデル。
直線的なデザインのボディだ。
滑らかな曲面を多用しているFD型や、現代の最新スポーツカーと比べるとやや古臭いといえるのかもしれない。
だが、俺にとっては――
「何年経っても、お前が世界で1番カッコイイぜ」
車に話しかける中年なんて、他人から見たら痛い奴なんだろう。
だが、構うことはない。
このパーキングエリアには、俺とお前だけだからな。
せっかく賛辞の言葉を送ってやったのに、俺の
いや、「当然でしょう?」とでも言っている気がする。
あの日――
中古車屋の店頭で出会った時も、同じ顔をしていたな。
あれは大学を出たての頃。
社会人1年目だったか。
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学生時代からスポーツカーが好きだった俺は、当然セブンにも興味はあった。
世界で唯一のロータリーエンジンを積むスポーツカーと聞いて、印象は強かった。
好きな漫画のキャラクターが乗っていたしな。
ただ車好きの先輩達から、「ロータリーは整備に手がかかる」と言われていた。
ならば買うのは、他のスポーツカーにしようかと思っていたところだ。
だけど店頭でその姿を見た瞬間、先輩達の忠告は頭から吹っ飛んだ。
気が付いた時には中古車屋の店内に駆け込み、売買契約書にサインをしていた。
出会いからゴールインまで、5分もかかっていないスピード婚だ。
家に帰って経緯を家族に話したら、両親からは叱られた。
「社会人になったからって、そんな大きい買い物をホイホイするんじゃない!」と。
いま思えば、両親の怒りはもっともだ。
2つ年下の弟、
何がそんなにおかしいのか。
「あっはっはっはっ!
「うるせえよ! 惚れっぽいのは、お前もだろうが。熱を上げてるっていう、同じゼミの子はどうなった?」
「ふっふ~ん、よくぞ聞いてくれました。実は俺達、付き合うことになっちゃったもんね~」
浮かれまくっている弟に、少々の苛立ちは感じた。
だがセブンと過ごすこれからの楽しい時間を思えば、そんな苛立ちなど
俺は車、陽二は彼女と楽しく過ごす。
それでみんながハッピーだ。
「ふーん、反応薄くてつまんないな。俺は一夜兄がセブンに取られたような気がして寂しいのに、一夜兄は俺の彼女に嫉妬したりしないの?」
「いい加減兄離れしろ! ブラコン弟が! そんな調子だと、彼女からもすぐに振られるぞ?」
「え~!
陽二は昔から、俺の後ばかりついてくる。
慕われるのは嬉しいが、そろそろ少しは離れた方がいいと思う。
それに俺が弟に抱く思いは、少々複雑だ。
陽二は要領が良く、勉強もスポーツも俺なんかよりずっとできる。
顔も爽やかなイケメンだし、服装もおしゃれで女の子にモテる。
高校の時に好きだったコが、陽二目当てで俺に接近してきたと知った日には泣いたなぁ……。
「なんだか羨ましい。俺も車、買おうかなぁ……」
彼女ができたことを
陽二は庭に停めてあるセブンの赤いボディを見つめながら、寂しそうに
■□■□■□■□■□■□■□■□■
スポーツカーを買えば、誰だって飛ばしたくなるもんだ。
数年後。
俺は峠の走り屋になっていた。
夜な夜なワインディングロードをかっとばすなんて、褒められたことじゃない。
言い訳するなら、それなりのポリシーは持っていた。
コーナーを攻める時も、
一般車は絶対に
だが、違法行為には違いないな。
熱に浮かされていたんだ。
走るのが楽しすぎて、他のことは何も見えちゃいなかった。
そうやって峠を攻めているうちに、仲間が増えていった。
週末の夜は
最高の時間だった。
やがてその最高の集まりに、弟の
車は生意気にも、俺のFC型RX-7の後継であるFD型RX-7。
雪のように白く流線型の優雅なボディは、暗い夜の峠に
「陽二、こんな集まりに
「いやいや、
パーキングエリアで休憩中。
陽二の車に寄りかかっている頼子に視線を向けると、にっこり微笑みを返してくる。
長い
「そうか……。退屈してないんなら、いいんだけどな」
「でも、捕まったら不味いっていう一夜兄の意見には賛成だね。俺さ、違法な峠じゃなくてサーキットで走ってみようかと思うんだ」
「サーキットか……」
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そうして俺ら兄弟と仲間達は、走る場所をサーキットへと移す。
本格的なカーレースは敷居が高くて無理だったが、カー用品店やレースショップが主催する走行会に出るようになっていた。
その頃にはもう、
車の性能差もあったが、それ以上にドライビングセンスの差を感じた。
ある走行会の帰り道。
ファミレスで夕食がてら、仲間達と反省会という名の雑談で盛り上がっていた。
すると陽二が、遠慮がちにぼそぼそと話しかけてきた。
「
俺はさほど驚きはしなかった。
弟の白いFD型セブンは、それほど金をかけて
なのに走行会では、あり得ないくらい速いタイムをマークする。
仲間内で陽二の次に速いのは俺だったが、弟には全くついていけない。
走り屋として、周りの奴らとはものが違うんだ。
そんな弟だから、レースに誘われているという話を聞いても驚きはしない。
「ああ、ついに来たか」ぐらいにしか、思わなかった。
「会社はどうするんだ?」
「いきなりプロのレーサーにって話じゃないよ。今まで通り働きながら、休日はレースをする」
「そうか。それならば、峠からは完全に足を洗わないとな」
「そうだね。免停にでもなったら、ライセンス停止でレースに出れなくなるから大変だもんね。だからさ、一夜兄……。最後の思い出として、俺と一緒に
「卒業式ってわけか……。いいぞ」
なんでだかわからないが、俺と陽二はその場でガッチリと握手を交わした。
なんとなく、そうしたい気分だったんだ。
■□■□■□■□■□■□■□■□■
1週間後の夜。
なぜか別人のように険しい顔つきをして、俺を
「
陽二が俺を呼び捨てにするなんて、初めてのことだ。
「馬鹿野郎! 公道を100%の力で攻め込むのは、ご
俺に怒鳴られた陽二は、顔をくしゃくしゃにしながら
「頼むよ……、お願いだ。本気の走りを、俺に見せてくれ。諦めさせてくれ。でないと俺は……」
「陽二……。一体何があった?」
そう問われた弟は、一瞬頼子の方へと視線を向けた。
弟の
酷い罪悪感を抱えているように見えた。
「一夜さん! 私が全て悪いの! 私が自分の気持ちを……。最後まで、隠し通せなかったから……」
「頼子、そこまでだよ」
陽二は頼子の台詞を、手振りで
そして視線を、再び俺へと戻す。
「……続きは、勝負が終ったら話すよ」
あまり納得できないまま、勝負はスタートした。
わかり切っていたことだが、俺より陽二の方が圧倒的に速い。
だがFD型は、旋回性能もFC型とは比べ物にならない。
ドライバーの腕だって、向こうが上だ。
優位な勝負だというのに、陽二は狂ったようにコーナーを攻めた。
サーキットと違い、ここは
安全マージンを残すのが常識なのに、全く余力を感じない。
全てがギリギリの走りだ。
「ダメだ! 危険すぎる!」
俺はアクセルを緩めた。
それまでは何とか視界内に入っていた陽二の丸いテールランプが、闇の中に消えていく。
そうだ、これでいい。
俺が勝負を諦めたことに気付けば、陽二だってアクセルを緩めるだろう。
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崖下から見つかった
ドライバーの遺体も。
両親は、俺を激しく責めた。
「お前があんな世界に引きずり込んでいなければ……」と。
そのことが、逆に苦しかった。
俺は陽二を失った頼子が心配だったし、向こうも俺を心配してくれていたんだろう。
何度も会って、陽二の思い出を話した。
何年かそうしている内に、俺達は一緒に住むようになっていた。
お互いが陽二の居ない寂しさを、代わりのもので埋めようとしたのか?
今でも理由はよく分からない。
だがもう、理由は重要じゃないと思っている。
頼子は大切な妻になったし、俺達の間には息子の
子供が産まれると、サーキットから足が遠のく。
当然陽二が死んだ夜の峠なんて、全く行く気にならなかった。
そうしているうちに仲間達は、スポーツカーからファミリーカーへと乗り換えていった。
1人、また1人と走りをやめていく。
俺はそんな中でも、セブンに乗り続けた。
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「だけど今日で、それも終わりだ。輝が産まれて、もう3年か……。あっという間だったな」
思い出を
これからは、子育てにますます金がかかる。
メンテナンス費用と燃料代、保険料が高いクセに、チャイルドシートを着けるのすら難しい。
頼子は何も言わないが、俺は手放す決意を固めていた。
今日
思えば俺は、酷い夫だったと思う。
型式違いとはいえ、死んだ恋人が乗っていたのと同じ車に乗り続けたのだから。
モーターみたいなロータリーのエンジン音を聞いていると、陽二が
それだけの理由で……。
「さあセブン、そろそろ帰ろうか。……お? あれは……?」
陽が沈み、暗くなった峠道。
そこを何台もの車が上がって来る。
そのほとんどが、スポーツカーだ。
やがてパーキングエリアまで辿り着いたその集団は、俺とセブンを取り囲むようにして駐車した。
正面に停まった32型のスカイラインGT-Rから、よく知った男が降りてくる。
「
「お前……。GT-Rは売って、引退したんじゃなかったのか?」
そいつは俺が峠を走り始めた頃、最初にできた走り屋仲間の男だった。
「売っちまったよ。この車はもう、後輩のものだ。今日は特別に乗せて来てもらった。お前がセブンと、お別れする日だって聞いてな」
「は? なんだって? 俺はセブンを手放すことを、まだ誰にも話していないぞ?」
「ん? 頼子ちゃんから、SNSでメッセージが来たぞ? 走り屋仲間だった奴ら、全員にな。お前、話してなくても嫁さんにはバレバレだったんじゃねえか?」
俺はなんだか恥ずかしくなって、顔を両手で覆った。
「ところでよ、
「いや、まだだが……」
「このGT-Rを買った後輩の友達に、どうしてもお前のセブンが欲しいって奴がいるんだよ。……ホレ、出て来て挨拶しな」
GT-Rの後部座席から出てきたのは、まだ
なんとなく雰囲気が、
「初めまして! 僕……ずっと憧れてました! 『赤い流星』って呼ばれている、一夜さんに!」
「なんだ? その恥ずかしい通り名は……。誰がつけやがった? 3倍のスピードは出ねえぞ?」
冗談の意味が分からなかったらしく、青年は首を傾げてきょとんとしている。
ジェネレーションギャップを感じるぜ。
「あの……。まだお金は貯めている途中なんですけど、一生懸命仕事しています。お願いです。ぜひセブンを、僕に売ってください!」
「
「いえ! 僕はFCがいいんです!」
結局俺は、青年の熱意に負けた。
その瞬間、周囲に群がっていた連中から拍手と
まったく、そうぞうしい中年共だぜ。
いや、若いのも混じっているな。
俺の仲間達から、車を譲り受けた後輩達だろう。
「よっしゃー!
GT-R男の音頭で、全員が車に乗り込んだ。
マフラーから元気な
黄昏時のワインディングロードで、ヘッドライトとテールランプが蛍火のように踊っていた。
やがて麓に辿り着いた。
蛍達はひとつ、またひとつと群れを離れ、夜に消えてゆく。
そして俺とセブン、2人っきりの帰り道になった。
「俺は幸せ者だな。仲間に、相棒に恵まれた走り屋人生だったよ。……ありがとう、RX-7」
不意に、ヘッドライトが開閉した。
この車のヘッドライトはリトラクタブル式という。
普段は閉じているが、点灯時はモーターの力で上に開く方式だ。
開閉したのは片側だけ。
まるでセブンが俺に、「どういたしまして」とウインクしているように思えた。
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俺は今、コンパクトカーのハンドルを握り
当然、峠を攻めているわけじゃない。
助手席には、妻の
ようやくチャイルドシートを卒業した息子の
この峠は、桜の木が多い。
シーズンである今は、吹雪のように花びらが舞っている。
道路の両側にずらりと桜が生え揃う、並木道へと差し掛かった時だ。
対向車線を、赤いスポーツカーが駆け上がって来るのが見えた。
すれ違い様に、運転席を覗き込む。
間違いない。
ドライバーはあの時の青年。
あれは俺が乗っていたセブンだ。
古い車だとは思えないほど、ボディは綺麗に磨き上げられていた。
エンジン音も、生き生きとしている。
どうやら大事に乗ってくれているようだ。
「お父さん! あの車カッコイイ! なんていう車?」
俺が答えるより前に、助手席の頼子が答える。
その表情は俺よりも、
「あの車はね、RX-7っていうのよ」
「あーるえっくすせぶん……かぁ……」
バックミラーで後部座席の様子を見ると、
桜の花びらを巻き上げながら、勿忘峠を駆け上って行く赤いスポーツカー。
そのテールランプをずっと……。
いつまでもずっと……。
勿忘峠 すぎモン/ 詩田門 文 @sugimon_cedargate
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