自分を俯瞰する
ピチャ
自分を俯瞰する
ゲームには「できる」がある。
初心者は初心者のやり方で、玄人は玄人のやり方で楽しめる。それは、ゲームの開発者がそう意図して作り上げたからだ。
大衆が手を出す、ある程度盛り上がれば話題として広がる。
好奇心旺盛な子どもたちから、様子を見る親へ。親から仕事場の同僚へ。そうして「話題にしない人」のところへ行き、スッと止まる。
それまでに膨大なネットワークが広がって、幾度となく「噂」を聞くことになる。
ところで、ゲームにはその内部に「自分の分身」がいる。それこそが主人公であり、世界を疑似体験できるのだが・・・。
ゲームには「できない」がある。
難易度の話ではない。
分身はどこまでも分身であり、本人ではない。本人の視点とゲームのプレイヤー(ここでは主人公の意味とする)の視点は何かしらの「ズレ」がある。
この「ズレ」をゼロとすることは、できない。
なぜプレイヤーはそこにいるのだろう。プレイヤーからは、どう見えているのだろう。
RPGのプレイヤーは、なぜ上方あるいは半歩後ろ上方から見られているのだろう。
プレイヤーを俯瞰する「私」は、ゲーム内では何者だろうか。
「私」を俯瞰する誰かは、いるのだろうか。
それに答えようとすると、少なからず哲学的な情報が混じるだろう。
しかしここではそうではなく、あくまで「そうなっている」ものとする。
なぜ「そうなっているか」ならば、考えても良いだろう。
つまり、開発者たちは自分を俯瞰的に見ることに長けているのではないか、ということだ。
高層階から住民たちを見下ろすときの感覚、それを身に着けているのではないか。
その人たちと同じ視点をもつためには、どうすれば良いか。
この予想では、自分を斜め後ろ上方から動画撮影するのが効果的ではないだろうか。
いや、位置などこだわらずに、とにかく自分を撮影してみよう。俯瞰的な視点へのきっかけが掴めるかもしれない。
動画を観て強い違和感をもつ人ほど、効果的ということだろう。
俯瞰は意外と大切である。
自分と他者の区切り、客観的な視点、これら幼少期に形成されるはずのものを、取りこぼしていることもよくあるからだ。
そして自分を撮影する以外に、他者から見た自分を見ることはできない。
過去に自分が書いた文を見直すことならできるだろうが、それはあくまで自分が表現したことをなぞるだけである。
自分の動作を、癖を、観察するのは、ありのままの自分を見るということだ。
鏡だけでは見えないものが、たくさん見えてくることだろう。
自分を俯瞰する ピチャ @yuhanagiya
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