ブラックホール
鳩鳥九
第1話
人間というものは体積が大きすぎるから食べきれなかった。
鎖骨か鼠径部のどちらかにしようとしたんだけど、いざ刃物を突きつけるとやっぱり気が引けたから、食欲が無くなってしまった。
いいや食欲が無くなってしまったという言い方はよろしくない。
別に僕だって四六時中思考回路に蛆がたかってるというわけでもなく、
ただただ留めておきたかったというのが本音であって、
だからつまりえっと本当にその子に対して唾液が沸くような気分になったわけじゃない。
いいや、実際にその子は僕の幼馴染で、肉付きのいい四肢と、
すらりと伸びたしなやかな体躯を持っていたというのは事実だったんだ。
バドミントンの大会か何かで賞を取っていたことを思い出している。
頭が可愛かった。胸の少し上にあった小さいホクロも可愛かった。
一緒に遊んでいた時は、お互いに幼かったから、彼女の人となりというか、
性格形成が未熟だったから、コレと断定するような性格では無かったのだけれど、
でもまぁ好きだったんだろうね。キミはきっと拒むだろうし、
僕だって瘴気の沙汰と言うような経験を不運にも積んでしまっていたから、
だからもう会えなくなってしまうことが分かっていたあの日の夜、
いつだっけ、確か中学一年生の冬だったような。
ダメだったから、精神的に追い詰められたから、
その子の短くて暖かくて、小麦畑にいるときのような、
穏やかな気持ちになるその腕に、果物ナイフを押し付けたのだ。
そこからの展開はもう記憶の向こう側に閉じ込めてしまっているのだから、
詳細なことは話すこともできないし、だから、忘れてしまったのだけれど、
この時に僕は胃の中に入れた。ひとまずそうするしかなかった。
両親がこの後に駆け寄ってくる前に、弁解の言葉を考える前に、
ええその時の僕はカニバリズムなんて世間慣れした言葉は知らなかったし、
食人族だなんて教養を身に着けてはいなかったんだけど、
どうだろう。どういえばいいのだろうか、
脳天をつんざくような奇声を荒げつつ、
でもそれでもその子は、彼女は、その女性は、
僕のことを責め立てて晒上げるようなことはしなかった。
救急車の音が遅れて聞こえて来て、足元に積もった雪が赤色だったことは覚えている。
端的に言えば食べ切れなかった。食べ切るつもりだったかどうかは知らない。
もう10年も前のことだもの。知る由も無いし、辿る手がかりも無い。
こうして独白として書き連ねているということもあるのだけれど、
いいや、もう文章そのものさえまとまった形をしていなさそうだね。
その果物ナイフは今も母親が台所で使っている。
道具のせいにしちゃいけないから、
兎にも角にも僕は少年院には行かなかった。
どうしてだかわからないけど、大人の力が働いたというわけでもないんだけど、
その日は冬休みの最中だったから、長期休みの真ん中であったことが功を奏して、
僕は何事も無かったかのようにまた日常に戻っていった。
好意だったとは言いたくない。安っぽくなるから、
依存だったというには一方通行だった気がするけど、
でも彼女は僕の意図を汲み取ってくれたのかなとも思う。
僕が自分の意思で回り道をしながら、それらを繋ぎとめて、胃液で消化して、
魂の中にキミの一部を、フレームの中にそっと挿入するかのように、
保管しておきたかったんだと思う。
でも人間の身体は残酷で、人間の身体というものは、数年もあれば全ての細胞が入れ替わるのだという。
その時の雑学というか豆知識を知った時は世界が終了したかと思った。
いいやもう終了はしている。でも、彼女は終了していない。
僕は食べ切れなかったというのはそういう意味だった。
僕は彼女を結局食べることが出来なかった。というわけではない。
咀嚼した。鵜呑みにした。喰らった。けど、彼女は死んでいない。
今も東京で生活をしている。五体満足で男と同棲をしている。
結婚と子育てに向けて綿密に打ち合わせをしているころだろう。
ただでも、彼女には多分今も〝右手の小指〟は無いのだ。
どれだけ医療が発達し、彼女の細胞から培養して接着しても、
彼女の元々そこにあるべきだった小指という概念は、事象は、
もう因果の彼方に消滅した。喰らっても数年で細胞が入れ替わり、
喰らった事実こそが過去のものになってしまうのであれば、
胃というものは案外本当にブラックホールなのかもしれない。
強いてこの一人語りに捕捉のようなものを付け加えるのならば、
もう一つだけ話しておかなければならないことがあるのだ。
僕はもう一つだけ悔やんでいることがある。
それは、右手の小指ではなく、左手の薬指にしておくべきだったことだ。
まぁそんなことを悔やんでいたとしても、しようの無いことなのだけれど、
ブラックホール 鳩鳥九 @hattotorikku
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます