今日はきっと逢える日
逆塔ボマー
今日がきっと最後の日
「なに、この暑いのに虫取りぃ? 今日でなくてもいいでしょうが」
ユータはお母さんの言葉に応えずに靴を履きます。手には虫捕り網、肩からは虫籠を下げて、頭には麦わら帽子。ずいぶん久しぶりに引っ張り出したそれらは、少しだけかび臭い匂いを纏っていました。
眉を寄せるお母さんには言えませんが、ユータにとっては今日でなければならないことなのです。
「夕方には戻ってくるから」
「ほんと忘れないでよ。できればシンゴさんと一緒に準備やって欲しかったんだけど」
お母さんは最近になって皺の増えた顔を緩めて苦笑します。なんだかんだでユータに甘いお母さん。少しだけ罪悪感を抱きつつも、ユータの読み通りに止められることはありませんでした。
灼熱の屋外にユータはひとり飛び出します。青い空には白い雲が浮かんでいます。
平成の大合併で、県庁所在地の隣町の一部ということになった、ユータの町。元は小さな田舎町だったと聞いています。
けれどユータが幼稚園生だった頃に新しいバイパス道路が近くに通って、田んぼだった所が小さな一戸建ての群れになったり、広く新しいお店になったりしています。今でもあちこちで工事が進められています。ユータの学校でも毎年新しい生徒がちらほら入ってきます。今の時代にはかなり珍しいことなのだと聞きました。
あちこちバラバラに建物が建っていく中、それでも神社の裏手の鎮守の森は手付かずで残されています。
このあたりで虫取りのできる数少ない場所であり、最近になって越してきた子供たちが寄り付かない場所であり、ユータの今日の目的地でもあります。
最初の鳥居で一礼すると、ちょっとした山のようになっている石段を駆け上がります。
本殿の前でまた無言で一礼すると、そのまま脇にそれて森に入ります。
去年や一昨年までと違い、今年のユータは本気で虫を探すつもりはありませんでした。一時期ハマっていた虫探しの熱も、去年あたりに冷めていました。
それでも、今日だけはきっと、虫捕りをすることに意味があるのです。
確証はなかったのですが、過去二回と同じ日付、同じ場所。揃えられるなら同じ状況の方がいいに決まっています。
そしてたぶん、今年が最後の機会になる。そんな予感がありました。
耳鳴りのように鳴き続けるセミたちの下、ユータはひとり、虫ではないものを探して森を歩きます。虫を探す素振りを続けながら、探します。森の中では日差しが遮られて、少しだけひんやりした空気が感じられます。
一時間ほど経ったあたりでしょうか。果たして視界の隅に、鮮やかな白い何かが揺れました。ユータはさっと振り返ります。
「おや、少年、邪魔してしまったかな」
足音ひとつ立てることなく、いつの間にか、森の中にひとりの女性が立っていました。
綺麗な人です。歳の頃としては二十歳前後といったところでしょうか。真っ白なワンピースに、そっけないサンダル。長い黒髪に、ユータと同じような麦わら帽子。
泣きたくなるのをこらえて、ユータは笑って見せました。少し歪な笑顔になってしまったかもしれません。
「こんにちわ」
「こんにちわ、久しぶり。見ないうちにだいぶ背が伸びたねぇ」
「来年は、中学に上がるんです」
「もうそんな歳か。いやはや時が流れるのは早いものだ」
お姉さんはニコニコしながらそんなことを言います。お母さんと違って、一昨年からまったく変わる気配のない、皺ひとつない笑顔。少し緊張しつつ、ユータは一歩お姉さんに近づきます。
一昨年は、まったく分からないまま、綺麗なお姉さんだな、とだけ思って、少しだけ言葉を交わして別れました。
去年は、同じ人と二回も会うなんて珍しいな、といぶかしみつつ、それでもひとつふたつくだらない話をして、何も考えずに別れました。
色々と知って、考えて、その可能性に思い至ったのは、前の冬の頃です。
ユータは少しだけ恐れていました。気づいていることに気付かれたら、きっとこれで終わりになる。
その一方で、妙な確信もありました。こうして会えるのは、きっと今年で最後なのだと。
言葉に詰まるユータの姿に、お姉さんは少し不思議そうに首を傾げて、そして、「あっ」と声を上げて、それから、ゆっくりと、微笑みました。少し寂しそうな笑顔でした。
ユータが分かることくらい、お姉さんにも分かる。当たり前のことでした。
「……そうか。君は……気づいてしまったんだね」
「まだたぶん、そうなのかな、ってだけ、なんですけど」
「賢い子だ。そして優しい子だ」
「やっぱり……そうなんですね」
ユータは自分の麦わら帽子を手に取って、改めて確認します。
家の蔵の片隅に仕舞われていた麦わら帽子。大掃除の時にユータが見つけて、お母さんが少し驚いたような顔をして、そして、ユータが「欲しい」と言ったらくれた、麦わら帽子。
白いリボンが一筋巻かれた、麦わら帽子。
お姉さんが被っているものと、まったく同じデザインでした。
ぽん、とお姉さんの手がユータの頭の上に置かれます。
暖かい手でした。その暖かさに少しだけ驚いて、でも、ユータは思わず泣きそうになりました。
そのまま抱きしめられます。少し気恥しい、でも、優しくて柔らかい感触に、とうとうこらえきれずに涙が零れます。
「その……ユータ。色々と、ごめんね」
「いいんです。色々あったんだろうな、って思いますし」
「ごはん、ちゃんと食べてる?」
「食べてます」
「友達はいる?」
「います。今日は声をかけなかったけど」
「みんなともうまくやれてる?」
「大丈夫です」
「そっか。良かった」
お姉さんも少しだけ湿った声でした。
耳鳴りのようなセミの鳴き声だけがずっと響いています。
たぶんこれがきっと最後の機会。ユータとお姉さんは、静かに寄り添い続けました。
陽がだいぶ傾いて、けれど夕暮れにはまだ早い頃合い。
家に戻ったユータは、お母さんと一緒に出掛けました。
さっき行った神社の山の裏手側。大きなお寺の方です。昔は神社とお寺は一緒だったと聞いています。今はお寺の方だけが立派で、地元のお祭りも全てこちらで仕切っていて、神社の方は初詣の時に人が来る程度です。
「おう、チカ、ユータ、こっちこっち」
「あっシンゴさん。ごめんなさいねぇ、ひとりでやらせちゃって」
お母さんとお父さんは互いのことを下の名前で呼び合います。他所の家のように「お母さん」「お父さん」ではありません。ユータは昔から、それが少し不思議だなと思っていました。今ならなんとなくその理由も分かります。
「ほら、ユータもお線香あげて」
お母さんから束で渡されて、教えられた作法の通りに石皿の上に置き、手を合わせます。
お祈りを済ませてから、ちらりと横の方を見ます。
大きな墓石の隣に建てられた、大きな石の板。半ば空白のまま残されているそこには、いくつもの名前が刻まれています。
ユータが生まれた時にはもう居なかったおじいちゃんの隣には、一番新しい名前が刻まれています。
「ねえ、お父さん、お母さん」
「なんだい、ユータ」
「この……『ちゆ』って人のこと、教えて」
ユータの呼びかけに、二人の顔が一瞬強張ります。
もちろんユータもその人のことについては多少は聞かされています。
お母さんの歳の離れた妹だったということ。賢い人だったけれど少し身体が弱かったということ。東京の大学に行って、でも最後はこっちに戻ってきていて、体調を崩してそのまま亡くなったということ。
逆に言うと、ユータはその程度までしか聞かされていません。
お母さんは少し諦めたように溜息をつきました。どこか観念したような表情でした。何か重荷を下ろしたような表情でした。
「……誰から聞いたんだい?」
「聞いたんじゃないよ。ごめん、前に書きかけの書類を置いてたのを見ちゃった。家族の欄のとこ」
「ああ……そっか。そいつは悪かった」
「騙す気はなくってな。チカも俺も、ユータが中学生になったら話そう、って決めてたんだけどな」
「うん。たぶんそんな所かなって思ってた」
ゆっくりと赤く染まる空の下。何もかもが許されそうな、そんな境界の時間帯。
「僕にはお父さんとお母さんが二人ずついる。ってことで、いいんだよね」
「ああ……私もお母さん、でいいのかい」
「お母さんはお母さんだよ」
「優しい子だ。優しい子に育ってくれた」
ぎゅっ、と、感極まったお母さんがユータのことを抱き締めます。
昼間のお姉さんよりも少し筋張った、老いを感じさせる、けれども同じくらいほっとする抱擁。
ユータも優しく抱きしめ返します。
「何から話したもんかねぇ……そうだね、あの子はちょっと、変わった喋り方をする子でね。男っぽいというか……」
今日は
亡くなった人が帰ってくるとされる日です。
今日はきっと逢える日 逆塔ボマー @bomber_bookworm
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