家族の風景

第79話 動き出す時間





 一年が経った。

 ぼくとっては四度目。愛花にとっても三度目の春が来た。

 大切な人をうしなってからである。


 ぼく自身は何の変化もないが、ぼくの周囲はいろいろと動いていた。


 愛花は大学三年生になり、そしてこの春から弟の隆二が、ぼく達と同じ国立大学に進学を決めていた。


 そして、峰山さんのアンビシャスである。

 峰山さんは、アンビシャスの入る五階建て本部ビルを、驚いた事に、所有者から直接買い取ったのだった。


「計算してみたら、月々の賃貸料と、買い取った時の月々のローンがほぼ同額だったんだよ。これは買うしかないでしょ?」

 峰山さんはそう言って笑った。


「峰山さんにしては思い切ったことするよな」

 ぼくが言うと、

「二号店の成功があったからだと思いますよ」

 と愛花が言った。


 一年前に尼崎で開校した二号店は、ネットレビュー評価に加え、大阪に近い事もあり、当初は四つのフロアーだけで開校したのだが、オープンしてみると、三倍以上の申し込みがあったため、急きょ近隣の空きオフィスを追加で借り、現在は十二の教室を開いているようだ。


 その辺の情報は、橘のメッセージで逐一ちくいち入ってくる。

『一ヶ月休みが取れないの』

 と言うわりに、橘から送られてくるメールには、生き生きしたものが窺えた。


 そのあおりは本部にまで及んだ。

 二号店に講師を取られた本部の方は、やや人員不足におちいっていた。

 それでもクオリティを落とさないよう講師陣は頑張っているようだ。

「大学とアンビシャスの行ったり来たりだわ」

 と愛花も大忙しだった。


 そして、峰山さんの経営理念である『貧しい人でも受けられる高等教育のサポート』はより具体的な体制が出来上がろうとしていた。


 他よりも安いと言っても、収入が少ない家計から見れば、塾はとんでもなく高額な出費だ。

 愛花の時は、特例と言う形で、峰山さんの一存いちぞんにより、人手が足りない事務のアルバイトの特典として、大学の進学講習を無料で受講できるメリットを付けてくれた。


 しかし、進学を目指す学生を、多く無償の対象にしてしまうと、当然のごとく経営は成り立たなくなってしまう。

 そこで限られた条件のもとでの特待生制度を導入する事にしたのだ。


 特待生制度の内容は、通常の入塾試験よりもハイレベルな入塾試験を行い、合格点を出した学生に限り、授業料無償の権利を与えた。

 だけど、まるっきり無償では、授業料を支払っている家庭との間に、不公平感が生じる。

 アンビシャスにもメリットのある条件が必要だった。

 それは、大学に合格した時、就職活動が始まるまでの三年間、アンビシャスでアルバイトをしてもらうというものだ。

 特待生制度利用者だからと言ってアルバイト報酬を値切る事はしない。

 報酬は規定に沿ったものが、ちゃんと支払われるのだ。


 特待生制度に志願できるのは、家庭の収入面に不安を抱えた学力優秀な学生に限られていた。

「ぼくはやる気のない学生の力になるつもりはないんだ」

 峰山さんはそう話していた。

真摯しんしに勉強に取り組み、成績も優秀なのに、お金が無いばかりに高等教育を受ける機会を得られない、そんな学生のためにぼくはこの制度を活用したいんだよ」


 その崇高すうこうな理想と、組織経営という現実のはざまま中で、ジレンマをかかえながら、それでも峰山さんは、職員たちの安定した生活と、特待生制度を守りながら、これからも自分の信じる道を突き進む事だろう。




 桃子さんにも転機が訪れていた。

 峰山さんの勧めもあって、物置きになっていたアンビシャス一階店舗に『ビストロ ペッシュ』というフランス料理店を、桃子さんがオープンさせたのだ。

 ビストロとはフランス語で小さなレストラン、あるいは田舎料理を表すもので、ペッシュとはフランス語の「桃」――― つまり、桃子さんは自分の名前を店名にしたのだ。

 桃子さんはようやく自分の店を持つ事が出来たのだ。



 時を同じくして、もう一つ空いている一階の店舗には、託児所が設立された。

 これは福利厚生のつもりで開設したアンビシャスの直営施設だ。

 だから職員の利用は無料だった。


 とは言え、子供を持った職員は、愛花も含めてまだ数人。

 広いフロアーに数人の子供ではもったいないので、それなら、という事で一般にも開放し、他の託児所よりも格安で預かるようにしたのだ。

 これに関して峰山さんはこう言っていた。

「託児所での儲けは一切考えてないよ。結婚や出産で退職してしまう、優秀な女性職員をつなぎとめるためにも必要なものなんだからね。託児所の経営は赤字になっても構わないけど、一般の利用者さんを受け入れることで赤字額を減らして、欲を言えば、保母さんたちの給料は、託児所の収入だけでまかなえたらいいなとは思っているよ」


 それくらいのつもりで始めた託児所だったが、意外にも思っていた以上の収益が上がっているようで、近々尼崎校にも二号店を開設する運びとなっていた。

 以上が峰山さんがらみの近況だ。

 



 梶山家にも変化があった。

 界人はと言うと、この春から主任に昇進していた。

 嫡男の信一郎は一歳五ヶ月になり、琴美を男の子にした感じでとても愛らしい。

「おまえに似なくてよかったな」

 ぼくが言うと界人は素直に同意して見せた。


 琴美は、信一郎が乳離れしたので、パートタイムで仕事に出るようになっていた。

 パート先はビストロ ペッシュ。

 琴美に声を掛けたのは愛花だ。

 桃子さんがオープニングスタッフを捜していた事も理由だが、ビストロ ペッシュは、アンビシャスの協力グループなので、託児所の無料利用の特典が付いていた。


「行くに決まってるじゃない。信一郎が近くにいるだけで安心だよ」

 と琴美は二つ返事で引き受けた。

「専業主婦だけじゃつまらないもん。それに、界人さんにただ食べさせられているだけなんて申しわけないしね」

 ビストロ ペッシュのオープニングに顔を出した時、琴美はいつもの笑顔でそう話した。

 社交的な琴美にはレストランの接客業は天職かもしれない。




 ぼくにも変化があった。

 趣味もなく生きる目標も持たないぼくだけど、今は園宮家を訪れるのが楽しみで仕方なかった。

 愛花ではない。

 お目当ては美宙みそらだ。


 ぼくが玄関口に姿を見せると、

「ダイスケしゃーん」

 と駆け寄り飛び付いて来るのだ。

(かわいい!)

 ぼくは思わず美宙の頬にスリスリしてしまう。


「美宙、元気でしたかぁ」

「うん。ミソラげんきで、おりこうさんよ」

「だよね。美宙はいい子だもんね」

「そうよ。ミソラ、いいこ」

 ヒロシを思わせる爽やかな笑顔を見せてくれる。

 ぼくのいやしの時間だった。


「大輔さん、いらっしゃい」

 少し遅れて愛花が姿を見せたが、ぼくの目は美宙に釘付けだった。

 愛花を見ないで、

「おはよう、愛花。今日アンビシャスは?」

 と言ったが返事がない。

 気になって愛花を見ると、彼女は頬をふくらませていた。

「美宙を可愛がってくれるのは嬉しいけど、話す時くらい、わたしの目を見てしゃべって欲しいわ」

「ああ、ごめん」

「もういいわ。ウフフフ」

 と愛花は笑った。

 美宙がぼくの肩に顔を押し付けて甘えてくる。

「ところで、合格したの?」

「ああ。取れたよ」

「おめでとう、大輔さん」

 半年がかりで挑んでいだ自動車免許を、先週ようやく習得したのだ。

 ついでだか、いつの間にか愛花は、ぼくにため口で話すようになっていた。


「教習所にも通わないで良く取れたわね。すごいね、大輔さんは」

「ほめられることなのかな? 単純に教習所の費用が惜しかっただけだからね。――― ペーパーテストは問題なかったけど、実技では三回も落ちたからね」

 実技は県庁の施設を借り、先輩たちの指導を受けながらおこなっていた。

「でも、教習所に通うこと考えれば、ずいぶん安上がりだったんでしょ?」

「まあね、なんとか当初の目的は果たせたよ」

「大輔さんらしいわ」


 ぼくと愛花は顔を見合って笑った。

 ぼくに抱かれる美宙が愛花の服をまんだ。

「おかあしゃん、こっち」

「はい、はい」

 ぼくと愛花の距離が近くなった。

「もっと、もっと」

「もう、美宙ったら……」

 言いながら愛花はぼくに詰め寄り、美宙をサンドイッチした。

「わ~い。ミソラとぉ、おかあしゃんとぉ、ダイスケしゃんがいっしょ。やったぁ」

 無邪気に笑って見せた。

 ちょっぴりだが、悲しい気持ちになった。

 美宙はきっと、ぼくと愛花で、三人家族をイメージしたのだろう。


 美宙は一歳四ヶ月だ。

 一般的な乳幼児に比べて、美宙は成長が早かった。

『お父さんがいない』

 そんなことを自覚し始めたのかもしれない。

 愛花もそれは感じたようだ。

 瞳が潤んでいた。

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