第56話 旅立ち






 界人と琴美の結婚式の二日後、ヒロシは夜の便でアメリカへと旅立った。

 空港のロビーで、目を真っ赤にする愛花に、

「春季キャンプだから、開幕直後には一度帰国するよ。四月になるけど、三・四日くらい滞在できるさ」

 ヒロシは愛花の頭に手を置いてそう言った。


「春木さん」

 とぼくを見た。

「留守の間、愛花のことよろしくお願いします」

「分かったよ。キミに誤解を招かない範囲でフォローするよ」

 先日の、愛花と両手を握り合って受け止めたブーケトスの一件で、ぼくはヒロシに対してちょっとした罪悪感を抱えていた。

「アハハハ。まだそんなこと言ってるんですか? おれ、そんなこと心配してませんよ。ちょっかい出す気があったら、今までに数え切れないくらいチャンスはあったじゃないですか」

 とにかく、とヒロシは相変わらずの爽やかな笑顔を見せた。

「おれがいない間、変なこと気にしないで、どうか愛花の力になってやってください。お願いします」

 ぼくにそう告げると、ヒロシは搭乗ゲートを通り、ボーディング・ブリッジを進んだ。

 搭乗扉を目の前にした所で、ヒロシは立ち止まった。そしてこちらをり返ると大きく手を振った。

「行ってきます」

 そう告げた後、ヒロシは搭乗扉をくぐって行った。


 その後ぼくと愛花は、空港ターミナルビルの屋上に出て、ヒロシを乗せた飛行機が、夜空の彼方に消えて行くまで、何も喋らずに見送っていた。



 帰りの電車は帰宅ラッシュだった。

 三号車のドア近くのわずかな空間で、ぼくと愛花は身を寄せ合っていた。

 ヒロシが飛び立ってからずっと寡黙だった愛花がポツリと口を開いた。

「申し訳ありませんでした。仕事帰りに付き合っていただいたのに、何のお構いも出来なくて……」

「そんな気づかいは不要だよ。それに、話したくなったら話せばいいんだ。ムリに喋らなくていいからな」

「ありがとうございます」

 満員電車にかこつけた愛花は、ぼくの肩に頬を押し当てて、肩を震わせていた。

「ヒロシ君は、四月に始まるマイナーリーグの開幕前に、一度帰って来るって言っていたじゃないか。一ヶ月なんてすぐだよ。すぐに会えるさ」

 愛花はぼくの肩でコクリと頷いて見せた。


 愛花が悲しんでいるのは、ヒロシとの遠距離恋愛になる事だけが原因ではなかった。

 ヒロシの渡米を彼の両親が歓迎していなかったのだ。

 アメリカなんて行かなくても日本で野球したらいいだろう、と言うのがヒロシの両親の考えだったらしい。

 反対されるのが分かっていたから、ヒロシは直前まで、両親に渡米を話す事が出来なかったようだ。

 ヒロシの両親としては、それがよけい気に入らなかったのだ。


 以上の会話の内容は、ヒロシの姉であり、アンビシャス時代のぼくの教え子でもあった榊原亜理紗ありさが、久しぶりのLINEメッセージで教えてくれた。

 強がってはいるがヒロシはまだ未成年だ。不安だらけでどうしようもないはずだ。それなのに彼の両親は見送りにも来なかった。

 おそらく愛花は、長距離恋愛になる自分の事よりも、家族に見送られないで旅立つヒロシの心を思い、それが悲しかったのだ。


 最寄りの駅に到着した時には、愛花も落ち着きを取り戻していた。

「今日はわたしに付き合っていただいて、本当にありがとうございます」

「いいよ、そんなことは。それよりだいじょうぶか? 送って行こうか?」

「いえ、だいじょうぶです。大輔さん、明日も仕事なんですから早く帰って体をやすめてくださいね」

「本当に、大丈夫なんだな」

 ぼくが念を押すと、愛花はクスッと笑った。

「大輔さん、わたしに対して優しくなりましたね。なんか、それがとても嬉しい」

「そうかな。おれは何も変えているつもりはないぞ」

「わかりました。そう言うことにしておきます。ウフフフ」

 と微笑んだ後、

「昨日、編集者さんと会って話をしたんです」

 と愛花は言った。


「どんな話をしたんだ?」

「取り合えず、彩香さんが残した二百二十ページに、わたしが書いた続きの五百ページを見せて、評価も含めたアドバイスをお願いしたんです」

「なんて言っていた?」

「書き直しを要求されると思っていたんですが、期待以上の出来栄えだと、むしろほめてくれました。原稿は前日に添付ファイルで送っていましたから、担当の編集者以外にも五人の方が目を通してくれたようなんです。わたしからしたらダメダメだと思っていた出来栄えなのに、六人の編集者の方から意外な高評価をいただいて、逆に戸惑ってしまいました」

「良かったじゃないか。それより、なんで愛花はダメダメだと思ったんだ?」

「わたし自身も、何がいけないと感じていたのか、よく分からなかったんです。だけど、担当の編集者が、的確に指摘してくれました」


『園宮さんは立花先生の文体をよく把握していらっしゃる。だから、時々顔を覗かせる園宮さんの文体が、あなたには目障りと感じたんじゃないでしょうか。―――冒頭は立花先生だけど、文末は園宮さんで締めくくっていたり、その逆も所々にありました。それを園宮さんは、立花先生の作品を書いているのに立花先生になり切れてない、と悩まれているのでしょうね。でもね、この作品はそれがあるがゆえに、とても味のある文体になっているんですよ。立花先生の文体でありながらどこか異質なニュアンスを感じるそれは、ユニークであって決してマイナスにはなりません。それがあるからこの作品を更に引き立てていると言っても過言ではないでしょう』

 と愛花は編集者の言葉を伝えてくれた。


「ベタ褒めじゃないか。それじゃ今の調子で続きを書いていいと言うことなんだな」

 愛花は頷いた後、

「編集者さんから、ひとつ提案があったんです」

 と言った。

「キミの未来は、前編と後編の二部作の予定でした」

「ああ」

「三部作にしようと言われたんです」

「それって、前編と後編の間に中編を差し込む、と言うことか?」

「その通りです。間に中編を入れて、一度区切くぎりを付けたらどうかと言われたんです」

「区切りをつけるって、どう言うこと?」

「だって、今書いているこの作品は、出だしの二百二十ページは彩香さんが書いたものです。その後をわたしが引き継いだ形になっているので、どうしても彩香さんの作風を意識せざるを得ないと言うのが正直なところです」

「それってつまり、彩香の作風に寄せていることが愛花の負担になっていると言うことなのか?」

「負担と言うほど大げさなことではないんですけど『ここの表現は彩香さんだったらどう描写するんだろうか』とか考えながらの文章作成ですから、効率は悪いし、常に『こんなの彩香さんじゃない』のダメダメ感を抱えながらの執筆となるので、そこが少し苦しいです」

「なるほどな」


 三部作に変更する編集者の意図が、何となく分かりかけた。

「つまりこういうことか。前編は彩香単独の作品で、中編は彩香と愛花による合作。そして後編は、彩香の文体を意識しない愛花がえがく『君の未来』で締めくくろうと言うことなんだな」

「はい」

 と愛花は頷いた後、表情を曇らせた。

「中編までは、彩香さんのプロットにある程度寄せることが出来ますが、中編を差し込んだことで、後編からはかなりプロットを変更する必要があるかと思います。――― 最悪の場合、彩香さんの描いたプロットを破棄して、構想を一から練り直さないといけないかも知りません。そんなことしたら、彩香さんが描こうとしていた『君の未来』の世界観そのものを破壊することになるんです……。わたしにそんな権利あると思いますか?」

「確かに、難しい問題だな。てもな、彩香はそれも含めて、弟子にした愛花に『君の未来』を託したんじゃないのかな」

「本当にそうでしょうか?」

「おれはそう思う。いや、絶対そうだ。なんなら次の休みに彩香の実家に行ってみないか? アイツの遺したものから何か答えが見つかるかもしれない」

「そうですね。お願いしていいですか?」

「分かった。立花さんには連絡しておくよ。――― さあ、遅くなるから今日のところはこれくらいにして帰ろうか」

 ぼくは愛花の隣りを歩いた。

 愛花は一人で帰れると言ったが、このまま愛花に背中を向けて帰る気にはなれなかった。

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