第47話 橘の想い
「出会った頃の春木君は、わたしにとっての安全地帯だったの」
食事に一段落つきデザートと紅茶を目の前にした時、橘は言った。
橘の言っている意味は分からなかった。黙って聞く事にした。
「わたしね、入庁当初から須藤君に言い寄られていたのよ」
須藤成世は、研修期間の三か月間、ぼくと橘を含む六人グループの一人として行動を共にしていたが、そんな気配は
「そんなことがあったのか。知らなかった」
「そうでしょうね」
と橘は苦笑した。
「春木君って人に対して淡白だったからね。いい意味でも悪い意味でも」
「……そうかもしれないな」
「ごめんなさい。責めているわけじゃないのよ。わたしにとってはいい意味でってことよ」
橘は慌ててそう付け加えた。
「わたしグイグイ来る人は苦手なのよ」
「ああ、分かる分かる」
オレ様体質の須藤は、まさにそんなタイプの典型だった。
「須藤はあまり人の話しも聞かずに突っ走るタイプだからな」
「須藤君だけならまだよかったんだけどね、入庁して二週間くらい経った頃から、顔もよく知らない先輩なんかが近寄って来ては『今度飲みに行きませんか』なんて誘いがちょくちょくあってね……。変だなと思っていたら、同じ大学の同期の子から、わたしが今年の新人女子職員のランキング№1に選ばれたと聞いて驚いたわ」
と
「県庁に入ってまだ
「美人ランキングってことだろ? おれも橘が一番美人だと思うよ」
「それ春木君が言う? わたしに一番興味を示さなかった人なのに。でも、春木君がそういう人だから、わたしは安心して近づいたのよ」
「どういうこと?」
「わたしには好きな人がいるって、周囲に示したかったの」
「つまり、おれを防波堤にしたわけか」
「そういうことなの。最初はわたしには好きな人がいるって、感じだけで良かったんだけど、中にはしつこい人もいてね、それで苦しまぐれで春木大輔君の名前を使っちゃったの。これについては、謝りたいの。ごめんなさい」
橘はぼくに頭を下げた。
「いや、それは謝るところじゃないだろう。橘が身の危険を感じて
ぼくは苦笑いをした。
(橘はおれに好意を持っているのかな)
そう自惚れていた自分が少しだけ恥ずかしかった。
だけど……。
(おれの思い過ごしで良かった)
と安堵する思いの方が強かった。
(橘なら相良や園宮のようないい関係が作れる)
「ごめんなさいね。迷惑かけちゃって」
と橘はもう一度頭を下げた。
「別にいいって」
とぼくはニコリとした。
「付き合ってると言ったのなら、ちょっと迷惑なこともあったかもしれないけどね。今の話聞く限り、橘の片思い的な感じだから、まったく問題ないよ。なんの実害もないし」
「やっぱり迷惑なんだね」
橘は寂しそうな顔を見せた。
「確かに最初はね、形だけの片思いを装っていたわ。でもね、春木君と立花彩香さんとのことを知った頃から、気持ちが変わって来たの」
ぼくは黙ったまま橘を見据えた。
橘は話を続けた。
「県立病院で立花彩香さんの病室を見つけた時、春木君とても驚いていたでしょ? 後で恋人だと聞いたけど、それにしても自分の彼女が入院しているのも知らなかったなんて、変な話だと思ったわ」
ぼくは彩香とのこれまでを界人以外の人間に話していなかった。
愛花は彩香から直接聞いただろうし、相良は恋人になった界人から聞いたと思うが、直接彼らに彩香との関係を話した事はなかった。
だから周囲の者は、ぼくと彩香は途切れる事なく交際していたと認識していただろうし、それはそれで構わなかった
だけど、あの日あの病室で、立花彩香のネームプレートの前で、
「確かに、おかしな話だよな。職場の仲間には『恋人』とか『婚約者』とか話して置きながら、たまたま訪れた病院で、入院している彼女を偶然といった形で見つけたなんてこと」
(橘なら話してもいいだろう)
ぼくは今更だけど、橘に彩香とのこれまでを話した。
中学でぼくから告白して付き合いが始まり、高校・大学と共に進み、作家デビューを果たした後、有名作家の愛人になったと別れを告げられ、その
「なんとなく、そんな感じはしてた」
と橘は言った。
「春木君を近くで見ていて、女性職員には必要最小限の会話しかしないし、自分から話題を振ることもなかった。女性と距離を置いている感じがしたわ。そんな様子からして、過去に何かあって女性不信になっているんじゃないかと感じたの。だからこの人なら変に絡んでこないと思ったのよ」
「おおむねそんな感じだな。でも今は少し違う。女性に対する嫌悪はそんなにないけど、彩香を忘れて新しい相手を見つけるなんてことは全然出来なくてね……。結果的に女性と距離を置いていることに変わりはないんだけど……」
彩香の話を人に伝えるのは嫌いだ。
その名を口にするだけで涙が溢れ出た時期は、もうピークを過ぎていたが、彩香を振り返ると、今でも目頭が熱くなり言葉がつかえてしまうのだ。
「ダメだな、おれ。みっともないや」
同情や慰めはみじめになるし、悲劇のヒーローを気取っていると思われるのも嫌だった。
「ともかく、だ。橘がおれに近付いてきた謎が解けてスッキリしたよ」
ぼくの言葉に橘はクスッと笑った。
「謎って、何よそれ」
「いや、だっておれのような陰キャが新人職員№1の橘に好意を
「その新人職員№1は置いといて、わたしが春木君に好意を持つなんて、本当にあり得ない話だと思う?」
「だって、おれなんか……」
気の利いたジョークで何か返そうと思ったが、そんな雰囲気ではなかった。
橘の目は笑っていなかった。
しばらく間があった。
緊張した面持ちの橘が熱い目をぼくに向けた。
「わたしね、春木君が好きなの」
ぼくは反応できなかった。
「わたしね、学生時代に二股掛けられとても傷心していたのよ。それも立て続けに二度もね」
「……そ、そうなのか」
こんな時、気の利いたセリフの一つや二つは、頼れる男として、用意して置くべきなのだろう。
だけど恋愛スキル底辺なぼくのキャパは空っぽだった。
「ごめん。どう返していいのかおれには分からない」
ぼくがそう言うと橘は軽く笑った。
「気にしないで。そこが春木君の良いところだから」
橘は、大学デビューした時、同じゼミの男に声を掛けられ付き合うことになったと話した。
だけど間もなく、高校から付き合っていたという、女子大に通う同い年の学生が、橘のアパートに突撃して来て修羅場となった。
彼氏を呼んで事の真意を詰問すると、その男はその女学生の方が本命だとアッサリ認めたのだ。
橘は遊び相手だったのだ。
それに傷ついた橘は、しばらく男性とは距離を置いていたのだが、三年生に上がったばかりの春、彼女に浮気されて別れたと話す意気消沈した男に、つい心を許してしまったのだ。
お喋りが上手で、話題に事欠かない。
傍にいて楽しい彼に、橘はもう一度男を信じて見ようと思ったのだった。
だが、その男もまた、別に付き合っている女子がいる事を知った。
今度は相手の方が遊び相手だった。まだ高校生だった。
涙に暮れる女子高生に、○○は本気じゃなかったと残酷な言葉を浴びせる男を見て、橘の心は一気に冷めたという。
「男なんて、サイテーって思ったわ」
静かに喋る橘だが、その語気には怒りがこもっていた。
「最初は春木君のことも冴えない陰キャだと思ったわ。でも、男である以上、彼らと何ら変わらないとも思っていた」
「彼らの方がまだましかもしれない。おれは好きな女の本心に気付けない愚か者だし、悲しんでいる女性に気の利いたセリフの一つも言えないポンコツだからな。ハハハ……」
ぼくが自嘲気味にそう言うと、橘は腕を伸ばしてぼくの手を掴んだ。
「そんな春木君だから信用できるの。春木君はとても不器用だけど誠実な人よ。立花彩香さんが亡くなった後の春木君を見てわたしはそう確信したわ。あなたの一途な思いをわたしは自分のものにしたい。わたしが望む本物の愛はきっとあなたのところにあるわ。だから、わたしはあなたを愛する。そしてわたしはあなたに愛されたい」
これまで経験したことのない強烈で強い思いが、ぼくの心に弾丸のように撃ち込まれた。
橘の
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