第28話 あるべき姿





 愛花に支えられながら、少しは前に進んめているのだろうか。

 それは自分では分からない所だ。

 時には電気の消えた部屋の片隅でうずくまる事もある。

 そんな時、不思議なくらいのタイミングで愛花からメールが来るのだ。


 ――― 今、何していますか? ―――


 数文字の飾り気のないシンプルなメッセージだ。

 たったそれだけの事だが、闇に閉じ籠っていたぼくの心に、わずかだが火がともるのだ。


 ――― だいじょうぶだよ。園宮の作ったシチュー美味しかった。ありがとう ―――


 ――― でしょ? わたし料理だけは得意なんですよ ―――


 ――― そうみたいだな。だけど無理するなよ。受験生なんだから ―――


 ――― だいじょうぶです。わたしには強い味方がいますから。アンビシャスと春木先生 ―――


 ぼくは晩御飯のお礼と言うわけではないが、愛花の勉強も見ていた。

 だけど大学受験は高校受験と比べ難易度が段違いだ。

 受験から四年も過ぎているぼくでは、全ての教科にける受験対策は、かなり難しい。

 それでも、数少ない愛花の苦手分野を克服する手助けくらいにはなっていたと思う。


 ぼくの愛花に対する態度は以前よりもかなり軟化していた。

 正確には好意的になっていると言うべきだろう。

 だけど、愛花に恋愛感情が芽生えたわけではない。

 ぼくの恋心は今でも100%彩香のものだ。


 それじゃぼくは、愛花にどういった感情を抱いているのだろう。

 相良琴美のような女友達的な思い………とも違う。

 いもうと的なもの? ――― 兄弟のいないぼくにはあまりイメージがわかないが、それとも違う気がする。

 愛花の弟達の様な、教え子的感覚も当てはまらない。


(おれと園宮ってどういう関係なのかな?)

 愛花は今もまだ、将来の結婚相手というスタンスをちらつかせているが、積極的にアプローチするというよりも、ぼくの事を本当に心配しているといった感じだ。

(父親そっくりのぼくを放っておけないのだろうな)

 

 今のぼくに愛花に対する嫌悪感はもうなかった。

 ぼくは、彩香の事があってから、今まで見えなかったものが分かるようになっていた。


 愛花がぼくに近付いたのは、もちろん父親にそっくりなことは大きかっただろう。だけど、すべては愛しいヒロシのためだっだ。

 以前ヒロシはこんな事を話していた。


『おれは愛花のことが好き過ぎて、野球なんてどうでもいいって感じになっていたんです』

 愛花と交際を始めた頃から、愛花の都合に合わせて、あれだけ好きだった野球をおろそかにする様になっていたと話した。

『野球の練習よりも愛花との時間を優先していました。愛花はそんなオレに愛想を尽かしたんだと思います。口では将来はNPB選手になって稼いでやるなんて言いながら、愛花との時間の合間に野球をしているって感じでしたから』


 その話を聞いた時は軽く聞き流していたが、今思えば、愛花の行動は彩香に通じるものがあったのだと、今はそう感じている。

 愛花はきっと、自分の存在が野球人としてのヒロシを駄目にすると考えたのだと思う。

『わたしがヒロシのそばにいてはダメ』

 愛花は涙ながら別れる決意をしたのだ。


 ヒロシと別れるにはそれなりの理由が必要だった。

 そこへ自分の父親にそっくりなぼくという男が現れた。

 しかも愛花の条件に合う、時勢に左右されない安定した収入を得られる公務員だ。

 ヒロシに別れを告げるいい口実にもなり得ると考えただろう。


 それは彩香にも通じる思いだったに違いない。

 病気を知った彩香も散々さんざん悩んだ挙句、ぼくの事を思って別れる決断をしたのだ。


 そして彩香は、一気に別れを告げるのでなく、一ヶ月に一度から、二ヶ月に一度といった風に距離を取り、ヘタレのぼくを気遣って、会えない時間に慣れさせてから別れを切り出そうと考えたのだ。 

 立場は違うかもしれないが、愛する者のために別れようとする彩香と愛花の想いは同じ物だと感じた。


 彩香と愛花との間に一つだけ違う物があるとしたら、愛花の恋心はヒロシにあるけど、それとは別にぼくに対する愛情も否定出来ないでいる事だ。

 それはきっと、今ぼくが愛花に抱いている、表現できない愛情と同種の物ではないのだろうか。


 ともあれ、ぼくの心の中はまだまだ彩香を失った悲しみから解放されないでいる。

 だけど愛花を始めとし、界人や相良、そして峰山さんやアンビシャスの教え子たちが、登り坂で立ち止まろうとしているぼくの背中を、無理に押すのではなく、倒れないように支えてくれいた。


 そこには、如月陽菜きさらぎひなさんの『三歩進んで 二歩下がる』の助言があったのかもしれない。


 そんな感じでぼくは周囲に支えられていた。

 裏切るわけにはいかない。

 ぼくは無理せずに足掻あがいていた。

 三歩進んで二歩下がりながら、未来に目標を持てないまでも、生きて行く事だけは止めないように心がけていた。


 今は、成したい事が見えなくなっているぼくだけど、一つだけ叶えたいと思うものがあった。

 それは愛花とヒロシの恋の成就だ。

 かれ合う二人の想いをこのままにしては置けなかった。

 ぼくと彩香は結ばれる事が出来なかった。

 だからこそ愛花とヒロシにはあるべき姿に戻してやりたいと思ったのだ。

(おれが二人の架け橋になっていやる)

 それが今を生きるぼくのやるべき事だった。



 七月付でぼくの配属先が決まった。

 総務部・総務課だ。

「最近、少しだけど落ち着いてきているみたいね」

 昼休みに、同僚の橘美幸が声を掛けて来た。

 橘は企画部・総合政策課に配属となった。

「まあ、そうかもしれないな。みんなが―――橘たちの助けがあるからだろうね」

「そう言ってくれたら、嬉しいわ」

 と橘は言った後、上目遣いにぼくを見た。

「ねぇ、一度飲み飲みに行かない」

「ああ、そうだな。配属が決まってみんなとバラバラになったけど、須藤たちとの飲み会にも久しぶりに…」

「違うの」

 と橘がぼくの言葉をさえぎった。

「二人だけで、行きたいの」


 ぼくは何も答えられなかった。

 橘はばつが悪そうに笑った。

「ごめんね」

 と視線を逸らした。

「まだ、ダメだよね」


 ぼくはどう答えていいのか分からなかった。

 だけど返事を返さないわけにもいかなかった。

「ゴメン。せっかく誘ってくれたのに」

 そう答えるしか出来なかった。

 橘がどういうつもりで誘って来たのかは分からない。

 同期として軽い気持ちで誘っただけかもしれない。

 だとしても、女性と二人きりで楽しい時間を過ごす気持ちにはなれなかった。



 帰宅すると愛花が部屋で待っていた。

 これからは何時に帰れるか分からないから、アパートには来ないように言ってあるのだが、愛花は聞いてくれそうになかったから、合鍵を渡していた。

「やっぱり来ていたか」

 壁掛け時計が七時を少し回っていた。

「だって春木さんが心配なんです」

「それはこっちの台詞だ。この辺りは夜になると人通りが少なく物騒だから、日が暮れてからは来ちゃダメだぞ」

 事件などの事例は聞かないが、ぼくは少し大げさに言った。

「分かりました」

 と愛花は素直に頷いて見せた。

「日が暮れてからは来ないようにします」

 愛花はニヤリとした。

「春木さん、わたしのこと心配なんですね」

「誰が心配なんかするもんか、アホ」

 ぼくは軽く睨んだが、愛花は意に返さず、夕ご飯の支度を始めた。


 そして愛花と向かい合わせに夕飯を食べ始めた時、ぼくはふと思った。

 橘の誘いがあった時、彩香に対する罪悪感でそれには応じられなかったが、愛花とは月の半分はこうして食事を共にしていたが、罪悪感はなかった。

(不思議だ)

 そう思い理由を考えてみるも、明確な答えは出せなかった。

 その中で一つ言えるのは、彩香が愛花を好きだったと言う事だ。

 だから、ぼくが愛花と仲良くしている事は、彩香も望む所じゃないかと、どこかでそう思っていたからかもしれない。


 それはともかくとして、ぼくは愛花に話があった。

「園宮。次の土曜日、空いているか?」

 ぼくがそう言うと、愛花は驚いた顔をした。

「えっ? もちろん空いてます…よ」

 と少し歯切れが悪かった。

 だがぼくはその理由を知っていた。

「おれと一緒に付いて来て欲しいところがあるんだ」

「はい……喜んで」

 もう一つ乗り気でなかった。

 だけど、

「風見鶏スタジアム前に十時に来て欲しいんだ」

 とぼくが言うと、再び愛花は驚いた顔をした。

 それは全国高校野球地区予選大会が行われる野球場だった。

 そう、いよいよ始まるのだ。

 夏の甲子園に向けたヒロシの戦いが。

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