4-6
レイクが目を覚ましたのは、それから一時間ほど経ってからだった。
窓から差し込む朝日が微睡みの中から彼を連れ出す。結局明け方近くまで事に及んでいたようで、ほとんど寝た気がしなかった。それでも目は冴え冴えとしていて、憑き物が落ちたような感覚がある。
レイクはゆっくりと起き上がると、ワイシャツとスラックスを身につけてからカーテンと共に窓を少し開けた。光の中でミストヴィルの街は色を取り戻し、パステルカラーの丸屋根や行商人のテント、川縁の木々などが世界に彩りを添えている。光と共に音も戻ってきたのか、運河の優しいせせらぎや、商売の準備をする行商人の賑やかな声も聞こえてくる。
平穏なミストヴィル。この光の中でならば、悪夢がリビラを呑み込むこともないだろう。
それから数十分ほどしてリビラも起き出した。レイクがすでに着替えているのを見て、自分も脱ぎっぱなしにしていた衣類を身につけていった。彼女が普段の姿に戻っていくのを見ると、レイクは一夜の終わりを感じて無性に寂しい気分に駆られた。
悪夢から始まった夜ではあったが、その先に待っていたのは楽園のごとき至福の一時だった。三年前、やはり彼女と病院で一夜を過ごした時にも同じようなことを感じたが、今感じている幸福はあの時とは比べ物にならなかった。何しろあの時は幻に過ぎなかったものが、今は現実に手に入っているのだ。
そう思うと、レイクはこのままリビラを家に帰さず、いっそ今日一日診療所の中で夢の続きを見ていたくなった。もちろん悪夢ではなく、その後の甘美なる夢の方だ。だけど自分にもリビラにも生活があり、いつまでも夢の中にたゆたっていることはできない。
「……それじゃ、いろいろとありがとうね」
コートを着込んで髪を結い、玄関まで見送られたところでリビラが呟いた。陽光に照らされた顔からに憂いはなく、代わりに安心したような笑みが浮かんでいる。
「さっきのこと……よく考えてみるわ。無理強いする気はないけど……もしシリカにやってもいいって気持ちがあるなら勧めてみるつもり」
「ああ、それがいい。薬剤師は他の人間でもなれるが、
「ええ……。でもそうなったらあんたには申し訳ないわね。せっかく育てた弟子がいなくなっちゃうわけだし」
「確かに、シリカは素直で可愛らしい弟子だったからね。失うのは僕としても惜しいよ」
「あたしが代わりに弟子になってあげようか? レイク先生が手取り足取り教えてくれるなら、だけど」
「おや……君は欲張りだね、リビラ。患者の立場だけでは足りないと?」
「どうかしら。だってレイク先生ったら、受診するたびに病気を悪化させていくんだもの。本当は名医なんじゃなくて藪医者なんじゃない?」
「藪医者か……。何とも手厳しいね。では今度から受診先を変えるかい?」
「あら、ダメよ。先生には最後まで責任取って治療してもらわなくっちゃ。だって先生はあたしの主治医だもの。そうでしょ?」
リビラが含み笑いをしてレイクを見上げてくる。甘やかな軽口を叩き合う時間が何とも愛おしく、レイクはできることならずっとこのまま会話を続けていたかった。
だが、石畳を照らす太陽はどんどん高くなり、街は間もなく活動を始める。幻の一夜は終わり、自分達は現実に戻らねばならない。
「じゃ……またね。いろいろありがとう」
リビラがそっと微笑み、レイクに背を向けて歩き出す。
レイクはその背中をじっと見つめていたが、彼女が角を曲がろうとしたところで声をかけた。
「リビラ……。忘れ物だ」
リビラがきょとんとして振り返る。レイクは大股で彼女の傍まで歩いて行くと、彼女を軽く引き寄せて接吻した。唇が軽く触れ合う程度のものだったが、何しろ突然だったからか、リビラは目を白黒させた。
「え、な、何……?」
「藪医者からの処方箋だ」レイクがふっと微笑みながら囁く。
「昔話ではよく言うだろう? 眠り姫が悪夢から覚めるには、王子様のキスが必要だと。僕は王子ではなく医者だが、君の悪夢を払うくらいのことはできるかと思ってね」
普段なら気恥ずかしくて絶対に言えない、歯の浮くような台詞。だけど、夢から覚めたばかりの今なら、ためらいなく口にすることができた。
リビラは呆気に取られてレイクを見つめていたが、やがて真っ赤になって呟いた。
「……バカね。そんなことされたら……余計に起きれなくなくなっちゃうじゃない……」
そのまま倒れ込むようにレイクに身を預けてきたので、レイクも迷いなくその身体を抱き留めた。滾る熱情に身を任せ、服の上から接吻と愛撫を繰り返す。再び開かれた楽園への扉の前に抗う術があるはずもなく、リビラは時間も場所も忘れて終わることのない熱情に応えた。
(……シリカ、ごめん。今日、迎えに行くの遅くなるかもしれないわ)
心の内でそう侘びながら、リビラは夢の続きに意識を飛び込ませた。
[二年前 ―夢― 了]
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