流人、篁(3)
新たに篁の住居となる家は、お世辞にも立派なものとは言えなかった。
最初の作業として、篁は従者と共に住まいの修繕を行うことにした。篁は自ら屋根にのぼり板を張り替えたり、新しい材木を探すために従者とともに山の中へ入っていったりした。
従者のひとりである
もうひとりの従者は
村人たちとの交流を篁は積極的におこなっていた。篁は村人の子どもたちに書や剣術、体術といったものを教えたりし、そのお礼に米や
ただ、夜中になると、篁はひとりになりたがった。
村全体が寝静まった頃、篁はひとり何処かへと出掛けていくのである。
従者である三平と源は最初の頃、篁のひとり行動を心配していた。どこか心に病むところがあるのではないか。そう考えていたのだ。
そのため、篁が夜中に家を出ようとしたところ、供をすると申し出たのだが、それを篁はやんわりと断った。
「私もひとりになりたい時もあるのだ。どこかへ逃げたりするということはない」
篁は笑いながらふたりにいうと、ひとりで家を出た。
空には、大きな月が出ていた。今宵は半月である。
時おり雲の中に姿を隠してしまう月の姿を眺めながら、篁は山の方に向かって歩きはじめた。
従者のふたりは篁の後をつけたりはしなかった。
きっと、
そう勝手に解釈をして、篁の行動には目をつむることにしたのだ。
山の中は静かだった。聞こえるのは風が木々を揺らす音と、川の流れる音だけである。
この島に
川を遡るように進んでいくと、小さな滝にたどり着くことができた。ここが篁の目的地である。
篁は着物を脱ぎ捨てると、冷たい水で身を清めながら滝壺へと向かっていく。
毎晩、篁はここで滝行を行っていた。
滝に打たれている間、篁は心の中で
その経は以前、空海より教わったものである。
夜になると、篁の中に鍾鬼が現れて様々なことをささやくのだが、篁が経を唱えはじめると、鍾鬼は篁に話しかけて来なくなった。
滝行はある意味、篁が自我を保つために行っていることでもあった。
朝日が海の向こう側に姿を現すまで篁は滝に打たれ、太陽の姿を拝んだ後、山を降りて、家で少しだけ眠る。それが篁の日課となっていた。
隠岐政庁より使者が来たのは、そんな生活が定着してきた一年後のことであった。
使者は隠岐国司の
島後へ行くのは篁だけであり、従者である三平と源を連れて行くことは許されなかった。ひとりで行けということなのだ。ただ、島後にも多くの人が暮らしており、篁はその中の
その夜、篁との別れを惜しむ村人たちが篁のもとを訪れ、小さな宴が開かれた。
村人たちと酒を飲み交わし、従者である三平と源に世話になった礼を述べる。その姿はもはや
皆が酔い潰れ、寝静まった頃、篁はそっと寝床を抜け出した。
「何かの決心でもついたのかな、篁」
夜空を見上げていると、耳元で鍾鬼が囁いた。
「随分と村人たちに慕われていたようだな。だが、お前のことを快く思わぬ者もおるぞ。もしかしたら、今宵、お前を殺しにくるかもしれん」
笑いながら鍾鬼はいう。
「お前を亡き者にしたいと考える者は少なくはない。思い出してみろ、この島に来た日のことを」
この島に来た日、隠岐までの護送を担当していた検非違使のひとりに篁は襲われた。
「まだ、お前の命を狙っている者はおるぞ」
鍾鬼はくすくすと笑うようにいった。
闇の中に気配があった。
篁は落ちていた小石を拾い上げると、手の中に収めた。
「篁様……」
闇の中から姿を現したのは源であった。少し酔っているのか、声が上ずっている。
「おお、源か。どうした」
「篁様がこの島に来て、篁様には良くしていただきました。本当に感謝しきれません」
「そうか」
鍾鬼の言葉のせいで余計な疑いを源に掛けようとしていた。そんな自分を篁は恥じていた。
篁はそっと手を開くと、小石を地面へと捨てた。
「愚か者め」
鍾鬼がつぶやいた。
その刹那、源が背に隠していた
完全に油断をしていた篁は、その銛を避けきれなかった。
源の突き出した銛の先は、篁の心の臓を突き刺すというほどではなかったものの、胸には当たっており、篁の着物は血で汚れた。
「何の真似だ、源……」
そう言いながら、篁は膝を地面についた。深手ではなかった。それにも関わらず、体から力が抜けていくような感覚があった。どうやら、銛の先に毒が塗られていたようだ。
「許してください、篁様。わしもやらねば、生きては行けぬのです」
「誰かに命令されたか……」
源はその篁の問いには応えず、銛を構えなおして、篁の首に向けて突き出そうとした。
「愚か者め」
鍾鬼がつぶやいた。
いや、つぶやいたのは篁であった。
はっきりと篁は口を動かして、源に対して言ったのである。
体当たりをされた源はよろけて、その場に尻もちをつく。
そこへ篁の強烈な前蹴りが見舞われた。
篁の前蹴りは、源の顎を捕らえており、源はそのまま後ろに仰け反るようにして倒れ込んだ。
「愚か者め」
また篁はつぶやく。
口から血を流しながら源は起き上がろうとしたが、それよりも先に篁が源の首に足を乗せて起き上がることを阻止した。
「誰の
声こそは篁であったものの、その口調は源が聞いたこともない別人のような喋り方であった。
「ほれ、
そう言って篁は、源の首に置いた足に体重を乗せる。
「国司かな。それとも
「い、いえ……それは……」
「もう良い。誰でも良いわ。ただ、お前は死ね」
篁は渾身の力を込めて源の首を踏み抜いた。
その力は、篁自身の力よりも遥かに強いものであり、人間とは思えぬほどの力であった。
その一撃で、源は絶命した。
篁は源の死体をひょいと担ぎ上げると、闇の中へと消えていった。
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