常嗣と篁(14)
「この話は、他の誰かに伝えたのか?」
「いえ、副使殿に話すのがはじめてです」
青い顔をした長松が答える。
「わかった。余計な騒ぎになると面倒だ。この話は黙っていてくれ。私の方でなんとかしよう」
「あやかしを退治なさるのですか、篁殿」
善主はそれであれば自分もと言わんばかりに、腰の剣を確認した。
「とりあえずは調べてみよう。善主殿は各部屋の見回りをしてみてくれ。私も別の方向から見回りを行う」
「わかりました」
善主は頷くと、早足で篁のいた部屋から出ていった。
「あ、あの私は……」
「長松殿は耳が良い。私の耳となり、そのあやかしとやらの言葉を聞いてはくれぬだろうか」
「わ、わかりました」
「では、参ろう」
篁はそう言って、長松と共に部屋を出た。
鴻臚館の中は静寂を保っていた。
どこにも異常は無さそうだ。
篁がそう長松に伝えようとした時、どこかからか声のようなものが聞こえてきた。
「妙じゃ、妙じゃ」
篁と長松は顔を見合わせる。
「あの声でございます」
「なるほど」
闇の中で篁は、あやかしの気配を感じ取っていた。
篁は腰に佩いている鬼切羅城の太刀に手を伸ばすと、いつでも抜けるようにしておいた。
「妙じゃ、妙じゃ」
その声はだんだん近づいてくる。
長松が篁の袖を引っ張り、天井を指差した。
篁が顔を上に向けると、そこには襤褸を着た痩せ細った老婆の姿があった。
「妙じゃ、妙じゃ、妙じゃな、野狂の臭いがするわ」
老婆と篁の目が合った。
にやりと老婆が笑う。
その刹那、老婆は天井から篁を目掛けて飛び降りてきた。
長松が耳にしたのは、鍔鳴りの音だった。
篁が太刀を抜いた姿を長松は見ていない。だが、聞こえたのは、太刀を収める時に聞こえる鍔鳴りの音だったのだ。
「どこで私のことを知ったのだ」
床の上にうつ伏せで倒れている老婆に対して、篁は自分の膝を老婆の背に当てるようにして問いかけた。
言葉は優しいものであるが、篁の膝が老婆の背に食い込んでおり、老婆は息苦しそうにしている。
そして、その近くには枯れ枝のような、元は老婆の腕であったものが落ちていた。
おそらく、その腕は先程の鍔鳴りの時に、篁が斬り落としたのだろう。長松は見てはいなかったが、音でそう判断していた。
「答えぬのか。答えたくなければ、答えなくとも良い。ただ、その分、苦しんでもらうぞ」
低く妙な響きのある篁の声は、普段とは違い、とても恐ろしい声であった。
「黙れ、野狂。お前の指図は受けぬ」
老婆は足掻きながら、声を絞り出す。
「そうか。ならば苦しむがよい」
篁はさらに膝へ体重を乗せる。
ミシミシともギシギシとも聞こえる音がした。骨の軋む音。あと少し篁が体重を掛ければ、老婆の骨は砕けてしまうだろう。
「話す、話すから、ゆるめてくだされ」
老婆は命乞いでもするかのように篁に言う。
「駄目だ」
篁はそう言って、さらに体重を掛けた。
そこには長松の知る、心優しき小野篁という人物の姿はどこにもなかった。人々から野狂などと呼ばれてはいるが、どこか好かれており、人当たりの良い人物こそが、長松の知る小野篁であり、野狂である。しかし、いま目の前にいるのは、あやかしに対して憎悪にも近い感情を抱いた鬼のような男であった。
「た、篁殿」
長松は篁に声をかけたが、その声は篁には届かなかった。
そして、老婆のあやかしは、篁の膝によって潰されてしまった。
あやかしというものは、息が絶えると水が蒸発していくかのように、姿かたちを消してしまう。そもそも、あやかしに死という概念があるのかもわからない。ただ、篁が老婆のあやかしを消し去ったということだけは事実だった。
「怪我はありませんか、長松殿」
あやかしが消えた後の篁は、いつもと同じ篁であった。
「だ、大丈夫です。それにしても、あれは何だったのでしょうか」
「あやかし……ですかね。この話は、他言無用にしてくだされ。話を聞いた遣唐使たちが不安になってしまっては困りますので」
「わ、わかりました」
そして、この夜の出来事は、篁、長松、善主の三人だけが知る話となった。
この時、篁の中で何かが変化しはじめていた。そのことには、誰も気づいてはいなかった。
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