常嗣と篁(12)
大内裏を出た篁は、妻である藤の屋敷へと足を運んだ。
藤と会っていなかったのは、たった数か月であったにも関わらず、藤は涙を流して篁と再会できたことを喜んでくれた。
藤の屋敷で酒を飲み、藤が寝床についたところを見届けた後、篁は藤の屋敷を後にした。
月は分厚い雲によって隠れていた。
まとわりつくような湿気を含んだ空気が着物を肌に貼りつかせる。
辻をいくつか越えたところで、篁は足を止めた。
三人。
篁は自分の後をつけてきている人間がいることに気づいていた。
「なに用かな?」
辻の真ん中で立ち止まった篁は闇の中へと声を掛けた。
腰に佩いている鬼切羅城の太刀はいつでも抜ける状態にある。
「悪いことは言わねえ、金を少しばかり置いていってくれないか」
闇の中から声だけが聞こえてきた。
どうやら、物取りのようだ。
「金さえ置いて行ってくれれば、命までは取る真似はしねえからよ」
違う方向から別の声がする。
もうひとりいるはずだが、その者の声は聞こえなかった。おそらく、背後で息をひそめている。一番腕が立つのは、その者だろう。声を発することで自分の居場所を察知されることを避けているのだ。
「私を小野篁と知っての狼藉かな」
篁は闇の中に向けて声を放った。
その言葉に、闇の中にいる相手が息を呑むのがわかった。
最初に気配が消えたのは、背後にいた声を発さなかった者だった。自分が襲おうとしていた相手が何者なのかを知り、狼藉を諦めたようだ。
それに続くように、声を発していた二人の気配も消えた。ただ、こちらは静かに消えるのではなく、何やら言い争うような声をあげながら二人同時に消えていった。
しばらく
ふっと息を吐くと、篁は再び歩き出した。
向かっている方向は、自分の屋敷とは違う方角だった。朱雀門を南下し、羅城門から
鳥辺野には、冥界と繋がる場所がある。
そこに篁の目的地がある。
六道辻の井戸。そこは冥府へと繋がる入口でもあった。
篁は井桁に足を掛けると、中を覗き込むような素振りを見せながら井戸の中へと飛び込んだ。
冥府では、閻魔大王とその
「唐には行けなかったのか、篁」
赤ら顔に黄色く濁った大きな目玉をぎょろりと動かしながら、閻魔大王が言う。
閻魔大王は身体も大きければ、顔も目玉も、口も、すべてが大きかった。
「今回は失敗に終わった。また来年の夏に出航する」
「なるほど。しかし、なぜ一年後なのだ」
「簡単なことよ。唐の
「朝賀とな……。面倒なことよのう」
「そういうな、閻魔。私だって本音を申せば、それほど唐へ行きたいとも思ってはおらぬんのだ」
篁はそう言うと、盃を手にして、その中身を喉の奥へと流し込んだ。
「副使殿も大変よのう」
閻魔は笑いながら言うと、空になった篁の盃に酒を継ぎ足した。
篁が本音を漏らしたのは閻魔が相手だったからだ。現世では、誰にも言ったことは無い。
今更、唐に出向いたところで何があるというのだ。すでに我が国は唐に頼らずとも、独自の文化を育み、国家として成立している。もはや、唐に何かを頼る必要はないのだ。篁は頭の中でずっとそう考えていた。
「して、篁よ。吉備真備のことは何かわかったか」
「いや、わからぬ。だが、私のことを唐で待つという人物がいるのだ」
「ほう。何者だ」
「阿部仲麻呂だそうだ」
「仲麻呂か……そう来たか。あやつは成仏することも出来ずに、唐で鬼神となった。その仲麻呂が、お主を待っているというのか」
そこまで言って、閻魔は豪快に笑った。
「笑いごとではない。吉備真備を倒すには仲麻呂の力が必要なんだ」
「……。その話、誰から聞いた」
急に閻魔が真面目な顔になった。
「藤原広嗣だ」
「広嗣だと。あやつは、まだお前の周りをうろついているのか」
「ああ。しかし、以前のような広嗣ではない」
「広嗣を信じる……というわけか」
閻魔がぎょろりとした目でじっと篁の目をみつめる。
「いまは信じても良いと思っている。それに、仲麻呂とも一度会っている」
「ほう」
「神泉苑の裏にある地蔵。そこに仲麻呂は
「地蔵だと」
「ああ。仲麻呂は、閻魔と私の関係もよく存じているようだ」
閻魔大王は、地蔵菩薩という二つ名を持っていた。
地蔵菩薩は、仏教では六道である地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道に現れて衆生を救う菩薩とされている。
「そうか。それで、篁は唐へ渡ったら仲麻呂と会うのだな」
「ああ。真備を倒すには仲麻呂の力が必要だ」
「そうか」
閻魔はそれだけ言うと、自分の盃を空にした。
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