常嗣と篁(7)

 遣唐使船が完成したという報告が木工もくりょうより、朝廷にもたらされたのは、初夏のことだった。

 その報告は左大臣である藤原ふじわらの緒嗣おつぐによって、帝の耳にも入れられた。


 遣唐大使である藤原ふじわらの常嗣つねつぐと遣唐副使である篁は、内裏だいりにある紫宸殿ししんでんへと呼び出され、帝よりはなむけを送られた。

 餞では、帝より酒が振舞われ、遣唐使に関わる者たちはその美酒に大いに酔った。

 中でも遣唐大使である藤原常嗣などは、帝から送られた酒がよほど嬉しかったのか上機嫌で普段以上に飲み、泥酔してしまったほどであった。


「しばらくの間、留守にするが頼んだぞ、藤」


 遣唐使出発の日、篁は妻の屋敷を訪ねて、そう告げた。

 藤は目に涙を溜めながら、黙って頷く。

 正直なところ、篁にもこの先がどうなるのかは、予測がつかなかった。

 当時の操船術は、運任せなところが大きかった。きちんとした航海図もなく、潮の流れに任せて唐へと向かうのだ。そのため、遣唐使船には、卜部うらべ(占い師)や陰陽師といった職種の人間も乗せており、困った時には彼らのお告げを頼りにすることも少なくは無かった。操船技術に関しては、国内ではある程度の技術を持った漁師や船乗りというものが存在していた。しかし、彼らはあくまで国内での操船技術に長けているだけであり、外洋に出る技術を持った人間はほとんどいないのが現状であった。

 それに、今回の遣唐使は三〇年ぶりに復活したものであり、その外洋航海技術もかなり衰退していた。前回の航海に関わっていた者は、ほとんど残っておらず、外洋を経験したことのある船乗りもほとんどいないのである。


 そんな不安をよそに、遣唐大使である藤原常嗣は、豪華な牛車数台で住吉津すみのえつへとやってきた。牛車に乗っているのは、常嗣と妻の伴右大、その他の家族や親族たちである。その様子を見た遣唐判官や留学生となる僧たちは驚きを隠せない様子だった。

 今回の遣唐使船は、全部で四隻である。第一船には、遣唐大使である藤原常嗣と准判官の長岑ながみねの高名たかな藤原ふじわらの貞敏さだとしなどが乗船し、第二船には遣唐副使である篁や判官の藤原豊並らが乗船した。

 遣唐使船は住吉津(現代の大阪湾)を出発し、瀬戸内海を西下し、筑紫つくしの大津浦おおつうら(現代の博多湾)に入り、ここから唐へ向けて出航するという海路を取る予定だと、事前に篁たちは説明を受けていた。

 遣唐使船の乗員数は、一隻に約一二〇人。それが四隻なので五〇〇人弱が唐に向けて出発するのである。乗員たちはそれぞれに役割があり、遣唐大使、副使をはじめとし、判官はんがん准判官じゅんはんがん録事ろくじ准録事じゅんろくじ、陰陽師(医師)、留学僧、絵師など様々な職種の人間が同乗していた。

 こうして、篁たちを乗せた四隻の遣唐使船は唐へ向けて出航したのであった。


 しかし、その船出はすぐに出鼻をくじかれた。

 遣唐使船が住吉津を出航して、三日目の朝。嵐が篁たちを襲ったのである。

 住吉津を出航したばかりの遣唐使船は、摂津せっつのくに輪田わだとまり(現代の神戸港辺り)に緊急停泊し、暴風雨に耐えながら、嵐が去るのを待っていた。

 この時の暴風雨は平安京たいらのみやこにも大きな影響をもたらしており、多くの家屋が全壊、もしくは半壊したという記録が残されているほどである。

 また、朝廷は輪田泊に遣唐使船が緊急停泊したとして、看督かどの近衛このえを派遣して遣唐使船の様子を見させようとしたが、川の水があふれており、看督近衛は輪田泊まで行くことが出来ないとして平安京へ引き返してきた。


 嵐が去り、四隻の遣唐使船は何とか無事であった。しかし、まだ波は高く、出航できるような状況ではなかった。仕方なく、遣唐使船四隻は輪田泊でしばらく滞在することとなったのだった。

 藤原常嗣は、すぐに飛駅ひえき(早馬の伝令ようなもの)を朝廷へ向かわせて遣唐使船の無事を告げるとともに、出航の遅れが生じていることを詫びた。


「これはどうしたものかのう、野狂殿」


 眉を八の字に下げ、いかにも困ったという表情をしながら藤原常嗣が篁の宿泊先を訪ねて来たのは、輪田泊で遣唐使船が停泊して四日目のことだった。

 輪田泊からであれば、馬を使えば一日で平安京みやこへは戻ることも出来るため、遣唐使船の乗船員の半数ほどは平安京へと戻ってしまっていた。


「船頭によれば、この波では船を出してもほとんど進むことは出来ないそうです」

「それは困ったのう。あれだけ盛大に見送ってもらって、輪田泊で引き返してきたとあっては申し開きも出来ぬ」

「もうしばらく待ちましょう、常嗣殿」

「うむ……」


 常嗣は扇子で自分の首筋をポンポンと叩きながら、気の無い返事をするだけだった。


 遣唐使船が輪田泊を出発できたのは、それから一週間後のことであった。

 四隻の遣唐使船は五〇〇人を乗せて瀬戸内海を西下し、筑紫大津浦へと入った。

 筑紫大津浦は大きな港町であり、大勢の人で賑わっていた。

 遣唐使船に乗っていた人々も、ここで一旦船を降り、唐に向けた出航の準備をはじめる。

 ここから先は、外洋である。唐につくまでの間、対馬つしまとう値嘉島ちかのしま(五島列島の当時の呼び名)といった小さな島はあるが、その先は唐に到着するまでは広大な海が広がっているだけであった。


「篁殿、食事でもしませんか」


 同じ第二船に乗っていた判官の藤原ふじわらの豊並とよなみが声を掛けて来た。豊並は例の一件以来、篁を見つけては「篁殿、篁殿」と寄ってくるようになっていた。

 ふたりは飯屋に入り、かゆを啜った。おかずとして出てきたのは、魚の干物である。ただ平安京みやこで食べるような魚とは違っており、味も格段にこちらの方が上だった。

 よほど干物が美味かったのか、豊並は三杯もおかわりをし、ただでさえ出ている腹をさらに膨らまして、帯を緩めていた。

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