広嗣の怨霊(8)
日が沈むと、完全な闇が訪れた。
本来であれば届くはずの月明かりも、今宵は存在しない。
風に乗って笛の
奏者はおそらく、
「浜主殿か」
「ああ。良い
「あの音色は魔除けにもなっておる。
「そうなのか」
「ああ。本人が知っているのかどうかは知らぬがな」
浄浜は少しだけ笑った。
闇の中にいるのは、篁と浄浜だけだった。花は羅城門の屋根に上っており、
夜空には月の明かりがない代わりに、星々の輝きを良く見ることができた。陰陽師というのは、星々を見て物事の吉凶を占ったりすることも出来るそうで、二階から浄浜は星空を眺めて、なにやら筆を動かしていた。
「そろそろだな、篁」
浄浜は夜空から視線を戻し、篁の方を見た。
「ああ。準備はいいか、浄浜」
弓の弦を再度確かめながら、篁は答えた。
ふたりは自然にお互いを呼び捨てで呼ぶようになっていた。共に戦うものとして、
「来ます」
屋根の上から花の声が聞こえた。
闇の中、遠く離れたところに青白い光が、ポツ、ポツと浮かび上がってくる。蒼い炎。鬼火と呼ばれるものだった。鬼火はあやかしと共に現れるものとされていた。
「来るぞ、篁」
「わかっておる、浄浜」
鬼火が近づいてくるにつれて、そこにいるあやかしたちの姿も明らかになってきた。百鬼夜行。それはあやかしと呼ばれる魑魅魍魎どもの行列である。百鬼夜行を見た者は魂を奪われてしまうとされている。その百鬼夜行の先頭には、
広嗣の目は黄色く濁っており、口からは蒼い炎が溢れ出てきていた。広嗣は人ではない。鬼と化した怨霊なのだ。
広嗣の存在を確認した篁は、弓に矢を
篁は弓を引き絞り、狙いを広嗣に定める。本来、蟇目矢は人を射るためのものではない。その音に意味があるのだ。しかし、篁はしっかりと狙いを広嗣に定めていた。
呼吸を整え、自分自身の気配を消す。目に見えるのは、的となる広嗣だけである。篁はじっと広嗣のことを見据えると、蟇目矢を放った。
しんと静まり返った闇夜の中を蟇目矢が発する甲高い不思議な音が鳴り響く。
その音に百鬼夜行の魑魅魍魎たちは足を止める。
力の弱い小鬼などは、この蟇目矢の音だけで逃げ出そうとしていた。
蟇目矢はまっすぐに闇夜を駆け抜け、広嗣の怨霊を目掛けて飛んでいく。
にやりと笑った。
広嗣が笑ったのだ。それが篁の目にはしっかりと見えていた。
持っていた剣を振ると、飛んで来た蟇目矢を広嗣は斬り落とす。
「面白い。この宣戦布告、確かに受け取ったぞ」
広嗣の声が闇の中で響いた。
蟇目矢を斬り落とした剣を広嗣は振りかざす。それは、突撃の合図のような動きだった。
足を止めていた百鬼夜行の魑魅魍魎たちが、一斉に動き出す。
それを見た浄浜が、持っていた筆を宙にかざした。
次の瞬間、地が大きく揺れた。
百鬼夜行の魑魅魍魎たちが立っている地面が光り輝き、文字が現れる。
その文字が何と書かれているのかは、篁には読めなかったが、魑魅魍魎たちはその文字の光に包み込まれるようにして消え去っていく。
「陰陽道の力を侮らないことだ」
浄浜はそう言って、宙に指で九字を切り始める。
魑魅魍魎たちが飲み込まれたもの。それは浄浜が仕掛けた陰陽道の術であった。
「小癪な真似を」
広嗣が怒りの声を上げた。すると、広嗣の口からは蒼い炎が吐き出され、顔つきも憎悪の塊となっていく。顔の皮膚が剥げ、蒼い炎がそこから噴き出す。もはや広嗣の顔は人のものではなくなっていた。鬼である。まさに広嗣の怨霊は鬼と化していた。
その広嗣の変化に、百鬼夜行の魑魅魍魎たちも呼応するかのように姿を変えていった。人と同じくらいの大きさだった鬼たちの姿が見る見るうちに大きくなっていく。その姿はまさに鬼神であった。見るからに屈強な化け物と姿を変えた百鬼夜行は、禍々しい気をまといながら羅城門へと押し寄せてこようとする。
羅城門の屋根にいた花が剣を抜き放つと、その鬼神たちの中へと飛び込んでいく。
「篁様、百鬼夜行はこの花と浄浜様で請け負います。篁様は広嗣の怨霊を」
「頼んだぞ、篁」
花に遅れを取らんと浄浜も陰陽の術を唱えながら、鬼神たちの待つところへと飛び込んでいった。
羅城門に残された篁は、先ほどまで花がいた屋根に上り、広嗣のことを見下ろした。
「藤原広嗣よ、ここにお前の手があるぞ。取りにきたらどうだ」
閻魔は、広嗣の手を餌にせよと言った。かならず、広嗣はその餌に食いつくと。その言葉通り、広嗣は目の色を変えて篁の誘いに乗ってきた。
「おのれ、小僧。我が手を返せ」
「小僧とな……。私には小野篁というちゃんとした名前がある」
「篁よ。その名、しかと覚えたぞ。
屋根の上にいるのは篁と広嗣だけである。他に邪魔する者はいない。
篁は腰に佩いていた鬼切羅城の太刀を抜き放つと、ゆっくりと構えた。
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