第69話 王子は寝る前の寂しさを知った

 午後にはカティアも書庫にやってきて、産まれてから一度も入ったことがないという書庫の中を興味深そうに見てまわった。


「あの、お役には立てないと思うのですが、私も、一緒に資料を見てもいいでしょうか」

「伯爵が許可するなら、構わないけど……。もう椅子がないよ」


 椅子とベッドは、同行者が必要な依頼を受けた時に備えて一つずつ予備を持っていたが、それ以上の予備はない。すると、


「持ってきます」


 カティアは急いで書庫を出て行き、慌てる使用人たちを振り切って椅子を運び込み、ノクスたちが調べている棚とは逆側から資料を読みはじめた。時たまわからない言葉を訊ねる程度で邪魔はしないので、ノクスは好きにさせておくことにした。ナーナは、必ずノクスに質問するカティアを、ジトッと見ていた。




 結局午後も収穫はないまま夕方になり、朝から町の女性が集まる会合に出ていたというシシー伯爵夫人が挨拶に来た。伯爵が帰宅した後は、共に夕食を食べる。やはり海鮮を使った料理が多く、サースロッソ内とは少し味付けが違った。


「何かわかりそうですか?」

「いえ、残念ながら、今のところは何も」


 あまり迷惑は掛けたくない。やはり持ち出しの許可を貰うべきかと考えていると、


「気の済むまでいてくださって構いませんから」


シシー伯爵は、穏やかに目を細めて微笑んだ。


「でも……」


 ちらりと夫人のほうを見た。伯爵は自身の兄の件があるが、夫人のほうはやはり、気味が悪いのではないかと心配する。ところが、


「私も構いませんよ。カティアが楽しそうですし」


 夫人はあっさりと頷いた。浮かれていることに気付かれたカティアが頬を染め、顔を背けた。


「私はこの町の出身で、元は平民なんです。貴族の噂は気にしません。お義兄さんにも会ったことがありますし」


 そう言う夫人は、元は裕福な商家の娘で、伯爵とは幼馴染なのだという。シシー家は商家からのサポートが受けられ、商家は貴族とのコネができるということで、利害が一致しての結婚だったが、それなりに気も合って楽しくやっている、と、何でもないことのように話した。

 伯爵自身も、


「実は、私は少し嬉しいのです。兄が帰ってきてくれたような気分で」


 親子ほども離れた相手から言われても複雑でしょうが、と照れくさそうにしながら笑った。


「ええ、色だけじゃなくて、雰囲気も少し似てる気がします。ノクス様のほうがかっこいいですけどね!」


 あはは! と商人らしい明るい気遣いと共に笑う夫人に釣られて、伯爵とカティアが笑い、ノクスも笑った。


***


 ノクスが用意された部屋は、当たり前だがナーナとは別だった。上等なベッドに横になったものの、見知らぬ部屋が妙に広く感じて、寝返りを打つ。いつもならここで、こちらを見ているナーナと目が合うのだ。

 と、狭い冒険者用の宿で、寝ても起きてもずっとナーナと一緒にいる日々が、当たり前になっていたことに気付いた。


「……うーん」


 気付いてしまった途端、妙な寂しさに襲われる。もちろんサースロッソの屋敷でも同じ部屋で寝ることはなかったが、特に何も思わなかったのに、と、変なところでデリケートな自身の感情に混乱し、ノクスの眠気は更に飛んだ。


 ナーナはまだ起きているだろうか。――会いに行ってもいいだろうか。


 別にやましいことをしにいくわけではない。ちょっと声が聞きたいだけだ。ドア越しでもいいし、もう寝ているなら諦める。何かに向かってそんな言い訳をしながら、ノクスはそろりとドアを開け、廊下に出た。と、


「あっ」


 廊下の奥の暗がりに小さな灯りが見え、よく知っている声と共に、びくりと揺れて止まった。


「ナーナ?」

「……ノクス様」


 何やら、少しばつが悪そうな声だった。それから、なんでもない顔で近寄ってくる。


「もしかして、俺の部屋に来ようとしてたの?」

「ノクス様の寝顔を見ないと、落ち着かなくて」

「寝顔って」


 とナーナの冗談に小さく笑った後、


「……本当に俺が寝るまで見てたの? 旅の間、ずっと?」

「はい」


冗談ではないことが判明して、ノクスは変な顔で寝ていなかっただろうかと不安になった。


「声が響くかもしれない。中に入って」


 気を取り直して、ナーナを部屋に入れる。扉を閉めると、ナーナは灯りを消して、テーブルの上に置いた。


「ノクス様は、どちらに? お手洗いですか?」


 邪魔したのではと訊ねるナーナに、ノクスは少し躊躇ってから、正直に答えた。


「……俺もナーナの部屋に行こうとしてた」

「……」


 きょとんと、黒い目でノクスを見つめるナーナ。しばし無言の時間が訪れ、気まずくなったノクスは慌てて弁明する。


「いやっ、あの、寝る前にナーナと話すのが当たり前になってたから、何か落ち着かなくて」


 決して寝顔を覗こうとか、そんなことを考えていたわけではないと、必死に言い訳しようとする姿は余計怪しかった。すると、


「……嬉しいです」


 ナーナが、少しだけ目を細め、口角をほんの少しだけ上げた。ノクスは知っている。これは「照れ」よりも珍しい、ナーナの笑顔だ。

 見蕩れている間に、ナーナはベッドの縁に座り、さあ、と隣に座るよう示した。ぎこちなく拳一つ分空けて座ったノクスとの間をナーナは即座に詰め、肩に頭を預けた。驚いて少し顔を動かしたら想定外に顔が近く、柔らかい香りまで漂ってきて、ノクスは前を向いて視線を彷徨わせながら硬直した。


「ノクス様がノクス様で、安心しました」

「え?」


 距離を詰められた時に膝の上に避難したノクスの手に、ナーナは自分の手を重ねる。


「カティアが、ノクス様に好意を持っているようでしたので、少し心配になったのです」

「カティアが? ……そうかなあ」


 確かに好意的な意思は感じるが、伯爵や夫人と変わらないような、とノクスは首を傾げた。が、鈍いと言われたばかりなので、ナーナが言うならそうなのかもしれないと思い直した。


「……これ以上近づかないようにしようか」

「いえ、ノクス様の交友関係を制限する権利は私にはありません。それに」


 と、不意に、ナーナは頭を肩から浮かせた。思わず頭を向けたノクスと、息が掛かるほどの距離で見つめ合う形になる。


「たとえノクス様が別の方にうつつを抜かしても、振り向かせます」


 吸い込まれそうな黒曜石の瞳に真っ直ぐ射抜かれ、ノクスは慌てて距離を取った。


「……満足しました。おやすみなさい、ノクス様」


 ナーナは、耳まで真っ赤なノクスの姿を得意げに眺めてから、立ち上がって美しくお辞儀をして、机に置いた灯りを再び手に取り、去っていった。

 残されたノクスは、


「……寝よう」


ため息をついて、よろよろと布団に潜った。


「……そんなことしなくても、見てるのはずっと、ナーナだけだよ……」


 頭まで被った布団の中で、小さく呻いた。

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