第40話 姫はペンを走らせ王子は新たな問題に直面した

「嫌です」


 ほとんど反射のように、ナーナは首を振った。滅多に動かさない表情筋に、強情な拒否の意思が浮かんでいた。

 ところが、


「……確かに。それはアリかもしれない」

「お父様!?」

「あなた!?」


 ケヴィンが相変わらず大変控えめな音量で頷き、妻と娘から同時に睨まれた。ノクスは慌てて二人を宥め、説明を加えた。


「落ち着いてください。……多分、それが一番正当にこの契約を白紙にする方法です。だって、内容として書いてあるんだから」


 はっきりと、「ナーナが婚約相手を見極め、サースロッソに相応しくないと判断すれば白紙になる」と書いてあるのだ。


「……私もそう思う。不正をすれば、バレた時にそこを突かれてこちらに不利な契約を新たに結ばされる可能性もある。正面から突破できるなら、それに越したことはない」

「ですが……」


 たとえ嘘でも、ナーナにはノクスを悪し様に言うのは憚られた。今まで散々周囲から傷つけられてきた分、できる限り褒めて甘やかしていこうと決めたのだ。

 すると、ケヴィンは娘を穏やかな緑の目で見つめ、ゆっくりと瞬きしながら言った。


「……ナーナ、考えてごらん。結婚は本人たちだけの意思や事情で決まるものじゃない。裏を返せば、本人には一切非がなくても成立しないことだってある」

「……あっ」


 聡い娘は、父の言わんとすることにすぐに気付いた。それから、ノクスをじっと見つめる。

 何のことだ、と首を傾げるノクスに、ナーナは言い放った。


「ノクス様に付属するガラクシア公爵が嫌だから、相応しくないと言えばいいのです」


 *****


 後半の食事は、エドウィンに叩きつける手紙の内容を検討しながらだった。ノクスの口出しする部分は少なく、大人しく料理に集中していた。ゼーピアの文化が混ざったサースロッソの食事は新鮮で、会話の端々にエドウィンがちらつくこと以外は、それなりに楽しんだ。


「それでは、早速手紙を書こうと思います。失礼します」


 食事が終わると、ナーナはいそいそと自室に引き上げていった。


「ごめんなさいね。変な食事会で、驚いたでしょう」

「よくあることなんですか?」

「ええ、わたくしはゼーピアとの交易、夫はアコール内部の調整を担当していて、三人が揃う機会が食事の時くらいしかなくって」


 故に、しばしば夕飯が家族会議の場になるという。


「明日からは、殿下のお話も聞かせていただけたら幸いです」

「あまり面白い話はできませんが」

「魔術学院を出ずに魔術を習得なさったのでしょ? 今からでもお話を伺いたいところですが、わたくしも手紙に添えたいことがありますので、失礼いたします」


 最後に優雅に礼をして、アルニリカも去った。

 残ったのは、


「……」


 物静かなケヴィン。


「殿下。お疲れでなければ、ご案内したいところがあるのですが」

「? どこですか?」

「……お風呂です」



 ゼーピアには、大衆浴場という文化があるという。アコールには湯船に浸かる文化自体があまり浸透していないので、風呂がある家は珍しかった。


「……ゼーピアに留学して以来、やみつきになってしまって。帰国後に、増築したのです」


 ナーナ同様に表情は薄いがほくほくとした雰囲気で、ケヴィンはノクスを風呂に案内した。


「大きい湯船ですね」


 複数人で入ることを想定した円形の湯船から、程よく湯気が上がっていた。

 ケヴィンに倣ってタオルを腰に巻いただけの姿になり、先に身体を洗ってから湯船に浸かる。


「……」

「……」


 どちらからともなく、ゆっくりと息を吐いた。

 不思議と居心地の良い、静かな空気が流れた。天井付近には湿気を逃がすための通気孔があった。くるくると回っているプロペラも術具のようだ。


「……我が家は女性が強くて、圧倒されたのではありませんか」


 ぽつりと、ケヴィンが言った。


「少しだけ」


 ノクスは正直に頷いて笑った。話には聞いていたが、アルニリカはナーナ以上に強い。さすが王女だ。


「……私がもう少し、前に出てものを言えればいいのですが」


 一つ一つの動作に最低限の音量しか出さないケヴィンは、申し訳なさそうに言った。


「いえ、ナーナを説得してくださって、助かりました」

「……殿下は、サースロッソ家の一員になることを望まれませんか?」


 婚約が白紙に戻る可能性に安堵した様子が見受けられるノクスに、ケヴィンは訊ねた。


「今日、ほんの少し触れただけで、ナーナがすごく温かい環境で育ったんだとわかりました。だからこそ、俺が壊してしまうかもしれないのが怖いというか」


 この家の一員になれたらどれだけ幸せだろうか。何も考えずに、一家の厚意に甘えてしまいたい気持ちに駆られた。しかし呪いだけでも解決しないことには、ナーナの隣に胸を張って立てない。

 するとケヴィンは、波打つ水面を眺めながらぼそりと言った。


「……娘は今、十八です。ガラクシアとの契約は非公開なので、この四年の間にも、たくさん縁談の申し出がありました」

「えっ」

「――表向きの筆頭候補は、第二王子です」


 それを聞いて、ノクスは思わず大きな水音を立てて振り向いた。


「……あれは大きな騒ぎになりましたからね。たとえ第一王子の身に何かあったとしても、第二王子は国王にはなれません」


 第二王子派がノクスに対して行った暗殺未遂。当時八歳だった第二王子本人の意思ではないが、純粋な分、傀儡にしようとする輩は多く、今も完全に排除しきれていない。


「王家としては、そこそこの地位に置いたまま、王宮から離したい。家格の釣り合いが取れて、年の近い娘がいて、地理的に頻繁な往復が難しいサースロッソは、うってつけです」

「それじゃあ……」

「……第二王子が成人するまで、あと二年です。ゼーピアに留学していることになっていたナーナが戻ってきたと分かれば、もっと早く婚約を取り付けに来るかもしれません」


 結婚こそ十六歳以上と決まっているものの、婚約についての決まりはない。貴族の子の中には、生まれた時から許嫁が決まっている者も少なくない。


「……結婚は、本人たちだけの意思では決まらないのですよ」


 静かな声が、広い風呂に妙に響いた。

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