第9話 呪い


 沈黙を先に破ったのは靖菜の方だった。


「よく一緒にいられるね。自分を殴った女と」


 スマホの画面を眺めたまま浮かべた靖菜の笑みが、嘲笑なのか自嘲なのか、ぼくには見分けがつかない。


「というか、早く殺してよ。もう待ってるの面倒くさくなってきたから」


 スマホから目を離して、半笑いでぼくを見る靖菜。窓から差す逆光で、彼女のシルエットがくっきり見える。靖菜の首元は細い。ぼくが両手で力をいれたら、あっという間に息を詰まらせて死んでしまいそうだ。

 ふいに手に冷たい感触が走る。靖菜の白い両手が、ぼくの手首を掴んでいる。


「いま、見てたでしょ。首のとこ」


 靖菜は掴んだぼくの手を自分の首にあてがった。


「ほら、今ならヤれちゃうよ」


 ぼくに笑いかけながら命を差し出す靖菜は、蠱惑的で、煽情的で、妖艶で、美しかった。


「ヤってよ」


 美しいものを美しいままに終わらせたい、と書いたのはどの作家だったっけ。そんな考えがぼくの中を渦巻いたとき、


「でさー! そんときしぃがー!」

「ねーやめてってば、それ言うのー!」


 少し離れたところから聞こえた、史音と彼女の友達の笑い声でぼくは我に返れた。慌てて靖菜から手を引き戻す。


「やっぱ、そうなるんだ」


 そうなる? そうなるってなんだ? 彼女の言ってる意味が分からない。靖菜は組んだ腕をテーブルにのせ、テーブルを目を伏せる。話しかけられたくなさそうだが、ぼくははっきりと言った。


「ぼくはきみを――殺したりしないよ。動機がない」

「あるでしょ。私に殴られた」

「それは、まぁ、そうだけど」


 今に至るまで、靖菜からぼくを殴ったことに対して「ごめん」の一言もない。だけど、彼女がああいう行動に至った経緯を考えれば、謝罪を要求するのは違うと思った。なにより、自分を殺しにくるかもしれない男に対する謝罪の言葉など、誰だって持ち合わせないだろう。

 話題も雰囲気も良くない方向に向っている。ぼくは話の方向転換を試みる。


「ところでさ。そっちこそ、よく着いてきたね。同盟の集まり嫌がってたのに」


 場のごまかしだけではなく、純粋な疑問でもあった。上級生に殴りかかる行動力を持つ靖菜が、史音のつきまといを振り切れないとは考えづらい。


「黙ってついてきてるのは、史音あいつにきみを殺そうとしたことを、誰かにバラされたくないだけ。きみに殺されるまでの間、面倒ごとで自分の時間を減らされたくない」

「ぼくが靖菜の中で殺人鬼予備軍だというのは置いておくとして、史音は相手が気に入らないからって、そういうことをする人ではないと思うよ」


 靖菜は鼻で笑った。


「どうだろう。人ってさ、簡単に裏切るんだよ。信頼して、どんなに言葉を尽くしても、最後にはあっさり裏切るんだ」


 靖菜の言葉からは諦観と失意に満ちていた。でも、それっておかしくないか?


「それなら、なんでお別れ会のあと、史音を放送部から助けようとしたんだよ。裏切るかもしれない人間を、なんで」

「あれは、ただの癖みたいなものだよ。悪い癖」


 靖菜は史音たちがいる方を一瞥する。靖菜が彼女たちを見る目は、まるで地平線の先を見るような。ずっと、ずっと遠くを見るようだった。


「能力に目覚めた時、私も神様からの贈り物だと思った。未来が視えたら、誰だってそう思うし、それで何かしたいと思うはず。私の噂、聞いてる?」


 ぼくは頷いた。ここで誤魔化すのはドラマフリーな選択肢だ。でもそんなことをしたら、靖菜に失礼な気がした。


「噂通り、私は望まない未来を変えようとした。でも全部ダメだった。背の小さい私が何か言っても『可愛いキャラ』扱いされて終わり。そうされないように態度を大きくしたら『変な奴』扱い。親に能力を打ち明けたら、いよいよもって『おかしい奴』扱い。まぁ、当然だよね」


 当然なんて、そんな悲しいこと言わないでくれよ。そう言うのは簡単だ。だが、それで彼女の苦しみが取り除かれることはないだろう。ぼくは黙って彼女の言葉を受け入れる。


「何度も何度も何度も何度も、視えた未来を変えようとした。でも結局、私は自分の見た未来を『次回予告』をどれひとつとして変えられなかった。今もそう。ほんとは違う殺され方をするから、変えられるか試したんだ。でもダメ。やっぱり、未来は変えられない。絶対に。だから私の死も覆らない」


 そうなるんだ、という先程の靖菜の言葉に合点がいった。そして、一体ぼくは彼女をどう殺す予定なんだ。そう聞きたかったが、その前に腑に落ちないことがあった。


「じゃあ、なんで最初に会った時、ぼくを殺そうとしたんだ。未来は変えられないって言ったけど、これって未来を変えようとしたってことになるだろ」


 靖菜はまた自嘲的に笑った。


「魔が差しただけ。高校に入ったら、人間関係もリセットして、余計な事しないで、楽しく過ごしたいって。だから最後に一回だけ、挑戦した。結局、私の悪評は高校にも広まってて、きみを殺すのにも失敗したけど」


 靖菜は組んだ腕の中に顔を突っ伏し、絞り出すように言葉を吐く。


「だから、もうどうでもいい。もう、何も見たくない。何も知りたくない。早く終わって欲しい。こんな呪いから、早く、解放して欲しい」


 理解した、と言えばおこがましいかもしれない。だけど、ぼくには靖菜の気持ちが分かる気がした。


「殺してよ。全部、終わりにしてよ」


 いじめを止めようとする、正義感と優しさをもった人が、予知と現実の両方で悲惨な光景を見たらどうなるだろうか。

 

 壊れてしまう、間違いなく。


 自分がどうにもできないものを見せつけられ続けて、靖菜は壊れそうになっている。

 ぼくがドラマフリーな生活に平穏を求めたように、彼女も平穏を求めている。そして、靖菜が縋れるモノはもう、自分の命の終わりしかなくなっているんだ。 


 彼女も、ぼく同様、自分の能力に苦しんでいる。ぼくは過去に、彼女は未来に。


 だが何故だろう。靖菜の悲痛な叫びを聞いて、ぼくの中で同情心や共感とは別の、重たい感情がこみあげてくるのを感じた。


 なんだ。なんなんだこの気持ちは。ぼくは必死でその答えを探そうと考える。そんな思考のプロセスが、ぼくのノロマな頭を鋭敏にしたのか、ぼくはあることに気が付いた。

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