15 「行くぞ、麗人」

「では、4番の問題、木坂きさか

「げぇ~。カンベンしたって、先生~」

 午後最初の授業で、指名された木坂麗人れいとは、情けない声を上げた。


「カンベンとはなんだ、宿題やってきとらんのか」

「一生懸命考えたんですけど、わかんなかったんですよぉ~。オレが数学苦手なこと知ってるくせに、イ・ケ・ズ♡」

「そんな物言いどこで覚えた。おっさんに対して使うな」

 数学教師の真っ向からのツッコミに、どっと笑いが起きた。

「はぁ~い、今度は女の子に使いま~す」

「いいから、ほれ、考えたというなら、わかったところまででいいから書いてみろ、ほれ」

「ええぇ~」

 半ば本気の困惑、半ばサービス精神で、麗人はぶうぶう言いながら、ノートを手に黒板の前に立った。


「ほれ、やってないんじゃないだろうな」

「がんばったんですってば~」

 困っているのかふざけているのかわからない様子で、それでも問題式の下に解法の1行目を書きかけて、麗人はポケットの奥でスマホが振動するのを感じ取った。おくびにも出さず、麗人は2行目を続けてから「ここまでですぅ~」と白旗を揚げ、教師の苦笑いとともに席に戻る許可を得た。


 休憩時間になると、麗人は生徒のあまり来ない廊下の一角を選んで、黒川くろかわに電話をかけた。

 黒川は駅の構内で、電話に応じた。駅まで戻り、コンビニの弁当を駅前広場のベンチでかき込んで、ようやくひと息ついたところだった。


「お前が撮影したあのオッサン、児童相談所の職員だ」

「ほーう?」

 麗人は、のんびりそうに聞こえる声を急角度に跳ね上げた。

「暴行犯は、離婚歴のある男を捜し出したんじゃねえ、たぶん逆だ。子どもをたどって親の情報を得るってやり方で、血祭りにあげる相手を物色していた。そう考えると、いろいろ辻褄が合う」

「……ふーん、とゆーことはつまり、児相の職員って、立場を悪用した可能性があるワケか」

 普段から能天気にしか見えないこの男は、これでなかなか頭の回転が早い。


「麗人、おれは首つっこむことに決めた」

「そう? まあ、それがいいかもね」

「世話かけたな」


 電話を切り、黒川はスマホをポケットに突っこんで歩き出した。ところが10歩といかないうちに、スマホが再び「Je te veux」を歌い上げた。スマホを引っ張り出し、画面を確認した。ついさっき終話したばかりの相手の名前が表示されているのを見て、眉を寄せ、電話に出る。


「ちょおっと、はるかちゃん、大事なこと忘れてるでしょぉー」


「遥ちゃん」と呼ばれて、黒川が抗議しない唯一の相手が、再度の通話でいきなり不満そうな声を投げかけてくる。

「何が」

「こーゆーときに、いつも言う言葉があるじゃないの」

「何を」

「『行くぞ、麗人』って」


 ……とっさに黒川は、反応できなかった。麗人の意図に気づくと、開きかけた口を閉じ、このバカ野郎、という形を飲みこんで、歪むように口角が上がった。

「……おう、行くぞ、麗人」

「はいな。で、さしあたってオレは何すればいい?」


 麗人のテナーが、聴覚を経由して滑り込んでくる。まるで、ごく当たり前のそよ風のように。

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