ガラス細工に雨は降る
三奈木真沙緒
1.梅雨前線異状アリ
01 思い出はガラスのように
……いつものように、少年はなるべく音をたてないよう、その部屋に入った。明かりをつけないまま、隅の棚にそっと近づく。
そこには誰もいない。
棚の一角に置かれた、ピアノをかたどったオルゴール。目をつぶっていても、そこまで歩いて行って手に取る自信がある。少年はねじを回し、オルゴールを置きなおした。
何十回も聞いたメロディ。それでも、「もういいや」と思ったことは、一度もない。
けれど……何というタイトルの曲なのかは、知らないままだった。
幾人かの大人に、この部屋のオルゴールのことを伝え、「あれは何の曲?」とたずねたことはあった。けれど、明確に答えてくれた人はおらず、曲名はわからないままだった。
ゆったりとした、優しい、どこか寂しいメロディは、幾度も繰り返し部屋を満たす。気持ちをゆだねながら、少年はテーブルを回りこんだ。閉じられたカーテンに小さな手を添えて、引き開ける。
空は重く、灰色に閉ざされていた。
門の向こうには、空よりもっと暗い色の道路が、そして……建物が並び、遠く街並みへと続いていく。目の前なのに、手が届くとは思えない、別世界へと。
……視界の端を、何かが動いたような気がして、少年は意識を下方へ転じた。
窓の斜め下に見える玄関扉の前に、人影があった。ひとりの子どもと、それを両側から挟む、ふたりの大人と。
ああ……またか。少年は無感動に、3人を眺めた。
その子の表情は、凍りついたままだった。大人と大人の間で、扉が開かれるのを待っている。ここからでは性別がよくわからない。それでいて、表情はわかったのだ。
見つめる少年の胸にこみ上げるものは何もない。ただ淡々としているばかりだ。新しくやって来た凍りついた子は、少年自身より少し幼く見える。小学生になっているかどうか。
いつも少年の心をそっと包んでくれるオルゴールの曲は、テンポを落としながら、くり返し、澄んだ音色を奏で続けている。
「ねえ」
空漠とした少年の意識に、ひとつの声が差しこんだ。ひとりの少女がいつの間にか、部屋に入ってきていた。――いつもの女の子だったので、少年は驚かなかった。少女はこちらに目をくれることなく並び、窓ガラスにぺたりと両手をつけ、同じ光景を見ながら、けれどはっきりと隣の少年に向けて、話しかけていた。
「ここで、新しいお友だちが増えるって、楽しいことなのか、悲しいことなのか、わかんないね」
少年は少女を見上げた。彼より少し身長の高い彼女の横顔は、透き通って見えた。少女もまた淡々とした表情だった。感情に歪んでいるわけでもなく、涙がこぼれ落ちているわけでもないけれど、……ただ穏やかな悲しみを、感じた。少年は、遠く静かなトライアングルの音を聞いたような気がした。
――自分も、悲しそうな顔をしているのだろうか……?
窓際にたたずむ少年と少女の頭上に、白い沈黙が漂っていた。
音もなく、雨粒が窓ガラスをかすめた。ひとつ、ふたつ。
例年より早い梅雨前線の先兵が、地上への侵攻を開始したのだ。
見下ろすと、「新しいお友だち」と大人たちは、もう中に入ってしまったのだろう、ゆっくりとドアが閉まっていくところだった。
……オルゴールが、最後の音をはじいて、止まった。
〇
「…………イ。どうした」
意識が引きずり戻された。
夢。――いや、記憶。遠い昔の、忘れていてもおかしくない、それなのにずっと心に残っている、ひとつの思い出。なぜ今急に、出てきたのだろう。どうしたことか、それはきらきらと、無数のきらめきに縁どられて見えた。あるいはガラス細工だったのかもしれない。美しく、繊細で、そして――。
……もう見飽きた、と表現しても差し支えない男の顔が、うさんくさそうに覗き込んできている。
あんなに世話になったはずなのに、――いつの頃からだろうか、顔を見るのも嫌になってしまったのは。単純に、自分の方がよどんでしまったということなのだろうか。
「あいつだ。……大丈夫だろうな」
後半は明らかに、こちらのコンディションを疑っている。
返事をするのも面倒だ。手渡された棒を握る動作で示す。
指さされた先で、中年のサラリーマンとおぼしき男が、コンビニの買い物を済ませたビニール袋を、所在無げに振りながら、こちらに背を向けてのんびりと歩いている。酔っているわけではないようだ。
「やれ。……これは
……なにがだ。
もう、口ごたえすら
ほかに人通りはない。
砂のように乾いた意識の底で、タイミングだけを見計らい、呼吸を殺し、塀の後ろから走り出す。スニーカーだ。足音はほとんど出ない。
棒をかまえ、サラリーマンの背中をめがけて――。
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