200×年 6月のある週 土曜日
いよいよ待ちに待った夕方になった。
私は朝から、職場の年季の入った壁かけ時計と、何度も何度もにらめっこした。
会社は5時に終わる。
それより少し早く動こう。
向こうにあまり話をさせないで急いで逃げよう。
よし、その作戦で行こう。
4時半、私は行動を開始した。
私は支店長に、話がありますと言った。
そして、身内が危篤なので今すぐ実家に帰りたい、家族の危機なので今後は退職の方向で話を進めてほしいと願い出た。
家族の命を人質にした卑怯な作戦だがやむを得ない。
支店長はもちろん、近くにいた仙波さんとショー子さんは驚きを顔に表した。
「だめだよ三井さん!明日どうするの!」
ショー子さんが叫んだ。
「お父さんが待ってるのよ!?」
…ショー子さんにとっては会った事も無い私の親の命より、ショー子さんのお父さんのご機嫌の方が大事なんだ。
こっちは実の母親が危篤だ、無理だから行かないと告げるとショー子さんは
「だって…いまさらどうするの!お父さんだけじゃなくて、ナントカおじさんも、ナンタラおばさんもすごく楽しみにしてるんだよ!?わかってるの!?」
と叫んだ。
???
おじさん?おばさん?
「誰それくんなんて、オンバイケンも知らない子がいるって言ったら面白そうだからぜひ見たい友達にも見せたいって…ナンタラおばさん、三井さんが誰それくんと同じ二十歳なら年も同じでちょうどいいねって喜んでたんだよ!!」
まったく…話が見えない。
私が、何の話?とたずねるとショー子さんはにっこりと答えた。
「あのね、明日は三井さんのためにお客さんを呼んであるの」
…は?
「本当はね、当日までのサプライズにしとくつもりだったんだけどね…」
なんでそんなことを?と聞くと
「会社に面白い人がいるってみんなに言ったら、みんな見たいって」
という、まったく理解できない答えが返ってきた。
そういえばショー子さんの親もそんな事を言っておいてあれだった。
私が明日ショー子さんの家に行ったら、バウバウ怒鳴られながら殴られるだけでなく、知らない多くの人達にあの異物か珍獣を見る目で囲まれるのか。
だいたい、面白い人ってなんなんだ、今思えば。
私がお笑い芸人とかだったら褒め言葉だけど。
仙波さんが話に入ってきた。
「ちょうどいいじゃない、たしかショー子ちゃんのおばさんて、非行に走った子供の厚生の仕事とかしてるんでしょ」
「そうなんです!だからおばさんに、三井さんのことを相談したんです」
ああ、ショー子さんの中では私は外国で麻薬を売って夜の店で働いていた事になってるんだっけ。
今思えば未成年がそんな仕事できるわけない。
「そしたらおばさん、そういう子の扱いは手馴れてるから任せなさいって言ってくれたんだよ!おばちゃんのおしりペンペンで反省しなかった子は〇〇小学校にはいないんだからねって!」
そんな聞いた事もない小学校の名前出されても。
私は明日、見知らぬおばさんにおしりを叩かれる予定になってるのか。
「だから三井さんは、安心しておばさんに全部打ち明けるんだよ」
何を打ち明けろと言うのか。
やってもいない麻薬売買だの夜の仕事の事か。
この世のどこかに、私と会った事もないのに、私と言う人間は極貧のあまり海外で麻薬を売ったり夜の仕事をしている、だからおしりを叩いて更生させてやらねばと思い込んでいる人がいるんだと思うと頭が痛くなる。
何もしていないのに、会った事も無い人にそんなふうに思われるなんて。
くやしくて悲しくて涙が出てそうになる。
ショー子さんと仙波さんは私の気も知らず
「あ、そうそう、おばさん、着付けも出来るんだよ」
「わあ~、それは素敵ね。三井さんぜひ教えてもらいなさい」
と楽しそうに話している。
「あ、そうそう。このあいだ△△スーパーでお父さんが会ったの、やっぱり三井さんだったよ。お父さん、A子って子の事知ってたよ。マンガを万引きした悪い子を叱ってただけだよって言ってたよ」
うわあ、ショー子さんのお父さんの中ではあれはそういうことになっているのか。
まさかそれで自分が女の子にしたことを誤魔化してるつもり?
それともまさか、ショー子さんのお父さんの中では本当にそういうことになってるの?
「それにさぁ、その子、すごい太ってたんだって。だからお父さん、その子が心配だったんだって。きっと家が貧乏だからお菓子ばっかり万引きしててそんな肥満児になったんじゃないかって…」
うわあ…すごい変換能力だ。
この娘にしてこの父親ありだ。
何度も言うがA子ちゃんはすこーしふっくらしてるぐらいで子供特有の体型だった。
だいたいそんなこと言ったらショー子さんのお父さんの方が脂肪がすごい。
お相撲さん3人分ぐらいぎっちりでっしり脂肪がついてる。
私は、ショー子さんのお父さんの話は私が目撃した事実とまったく違う、A子ちゃんは肥満児なんかじゃなかったし、持ってた本も万引きしたマンガではなく間違いなく学校の図書室の本だった、と話したが通じなかった。
「でもお父さんの話だと」「でもお父さんは」「三井さんはそう思うかもしれないけどね」
埒が明かないのでこの件に関してはもういい。
私は再度、大声で、叫ぶように、一言一言、子供にもわかるようにしっかり話した。「実の!母が!危篤なんです!今!帰らなかったら!もう二度と!会えないかもしれないんです!」
するとショー子さんはまた目をまん丸く見開いて子供がびっくりしたような顔をしって
「危篤…なの?」
と言った。
ああ、ほんとに今までの私の話、全然耳に入ってなかったんだな。
ショー子さんは途端に悲しそうな顔になって
「…そっか…だから夜の仕事をしたり…麻薬売ったりして仕送りしてたんだね…」
と涙声で言った。
仙波さんが叫んだ。
「えーっ、三井さん、そんな仕事してたの!? だから通帳にあんな振り込みがあったのね! そういうことだったのね!」
支店長も「やっぱり本当にスパイとつながってたのか!」と叫んだ。
他の社員達も「じゃあ昨日の人、本当に産業スパイ!?」「やだ怖い、私、顔見られたかも」「もしかして暗殺されちゃう?」と騒ぎ出した。
もうどう思われようとどうでもいい。
ここから逃げられればいいんだ。
ショー子さんが叫んだ。
「支店長!三井さんを叱らないでください!三井さんは可哀想な人なんです…」
ショー子さんはさめざめと泣きながら、私がどれだけ不幸な生い立ちで苦労に苦労を重ねていたこと、外国で麻薬を売っていたことも夜の仕事をしていたのも全て金銭苦のせいだと、せつせつと語った。
これが演技ならこの人、大女優か脚本家になれるわと思った。
演技なら良いんだがショー子さんは本気だ。
本気でそう思い込んでいるのだ。
仙波さんは、ショー子ちゃんは本当に優しいのね、とショート子さんの肩を抱いた。
そして、凄い目つきで私を睨んだ。
「こんなに心配してくれるショー子ちゃんの気持ち…あなたはどうしてわからないの!」
続けてショー子さんがしゃくりあげながら言った。
「三井さん…人間はね、一人じゃ生きていけない…ひとりひとり、支え合わないと生きていけないんだよ…私は今度の日曜日、それをあなたに教えるつもりだったの…あなたは一人じゃないって…」
仙波さんや支店長たちはうんうんと頷いている。
わからない。
全然話が見えない。
人間は一人じゃないとか一人じゃ生きていけないとかそういう言葉が何で今出てくるのか本気でわからない。
学生時代、泣き真似が得意なあざとい子がいたけどあれと違ってショー子さんは本物だ。
だから恐ろしい。
もう何を言っているのか全く分からない。
宇宙語だ。
いつの間にかやってきたみんなが私を囲む。
囲んで何か口々に言いだした。
三井さん
三井さん
深く考えないで――
とらわれないで――
一人はみんなのために、みんなは一人のために――
思いやりの心を
思いやりの心を
思いやりの心を持ちなさい――
ここが、あなたの、いるべき、場所よ――――
何を言っているのか全然わからない…。
仙波さんが「そうだ!」と叫んだ。
「三井さん、音楽好きだったよね!」
はぁ、音楽は好きですが、何か。
ショー子さんは、それだ!と言った。
「みんな!三井さんに『思いやりの心』を聞かせてあげましょう!」
ショー子さんが号令をかけると、なぜか支店長も仙波さんもショー子さんをはじめとする他の社員達が…
…なぜか、合唱を始めた。
まったく知らない曲だった。
覚えてる範囲で歌詞を書く。
♪思いやりの 心を持とう
素直な心で 人の話を聞こう
人と人 心開き 共に涙を流せば
心の モヤモヤを 全て打ち明けよう
美しき〇〇の地 生涯の仲間
♪思いやりの 心を持とう
思いやりの 心があれば(中略 覚えてない)
差別も戦争もない世の中になり(以下覚えてない)
なんというか…歌いにくい歌だと思った。
詩が音に合ってないしメロディも変に調子はずれ。
1番と2番のメロディは途中から全然違う歌と化してる。
私は音楽は聴く専だし専門家でもないが、素人が聞いても一つの歌としてはあまりにちょっと…と思った。
それにしても、合唱サークルとかコンクールでもないのに夕方近い会社で大の大人が合唱する光景ってどうなんだ。
歌い終わった後、ショー子さんが私をまっすぐ見た。
ぽかんとしている私にショー子さんが潤んだ瞳で満面の笑顔で言った。
「ね…三井さん…」
なにが「ね」だ。
「わかったでしょ」
……なにが?
いや、マジでなにが?
私が唖然としていると、支店長がものすごくびっくりした顔で
「お、お前、なんでだ」
と慌てふためいた。
は?
「なんで、今の聞いて、何も思わん!」
他の社員たちも「ええ…」「これでわからないないんて…」とざわついている。
何を言ってるの…?
その瞬間ふいに、ごくごく幼い頃家で見たアニメか何かを思い出した。
うろ覚えだけど確かよくある魔法少女もので、音楽の魔法を使う女の子が出てきて、その子が魔法の楽器(確かハープだったような)で奏でる音楽を聴けばどんな悪い人でも心を入れ替えて改心してしまうみたいな、そんな話…
――――!!!
その事を思い出した瞬間、とんでもない考えが頭に浮かんだ。
まさか…
これって…
「なんで…今の歌を聞いて泣かないんだ…お前、本当に大丈夫か!?」
支店長が真っ青になっている。
私の恐ろしい考えは当たった。
これ、私が、みんなの歌に感動して心を入れ替える流れを期待してるんだ…
あのアニメのマジカルなんとかちゃんはそもそも魔法の国から来た魔法使いだし、マジカルなんとかハープだって魔法がかかってるからそういう効果もあるだろう。
で、この人達は、そんなマンガみたいなことが現実に起きると思ってんの…?
例えば今のがサラ・ブライトマンやエンヤぐらいの美声だったならまあ感動するのもわからなくもない。
いや、そうだったとしても単に、声綺麗だな~みんな意外に歌が上手いんだな~コーラスサークルでもやればいいのにな~と思うだけだ。
さっきの歌なんて普通以下、並以下だった。
中学の合唱コンクールなら普通に銅賞だろう。
支店長の声だけやたら大きくて外れてるのが一層不気味に聞こえた。
だいたい歌を一回聴いたぐらいで人間がどうこうなるわけないだろ…
さらに私は、昨日2階の倉庫で見た「ヒカ右■豚魔」という不気味な呪文(?)を思い出した。
研修の時からおかしいおかしいと思ってたけど、ほんとでこの会社、宗教団体にでも入ってるんじゃなかろうか…
そのとき、ショー子さんが私の前に歩み出てきた。
「そうか…今は心に、心配な事があるからだね。だから素直に歌も聴けないのね」
全部が心配だ。
そうだ、時間が心配だ。
もう時計は5時を過ぎている。
早めに話を打ち明けたのにこれじゃ意味がない。
いや、駅までマウンテンバイクを必死で走らせればギリギリ30分で着く。
間に合うかじゃない、間に合わせるんだ!
私は今日、なんとしても駅に行くんだ!
30分後には父と一緒に××県行の電車に乗ってるんだ!
そうです母が心配なんです、もう帰ります、時間がないんです、と言うとショー子さんは
「待って」
と私の手を握った。
「はい」
ショー子さんが私の手をとり、手のひらに何かを入れた。
私のてのひら上からショー子さんが手を重ね、ぎゅっと握った。
子供みたいな手だなと思った。
なんかどっか外国の拷問で、手のひらにトゲトゲの固いものを置いて上から強く握らせるってのがあるのを思い出した。
私、本当にネガティブな発想しかできなくなったものだ。
手のひらにぎゅ、なんて、こんなことされたの幼稚園の時以来か。
まさか成人してこんなぞっとすることをされるとは思わなかった。
手を開くと500円玉が二枚があった。
「…カンパだよ。お母さんの治療費の足しにして」
ショー子さんの泣き顔がにっこりと上がった。
幼稚園児が宝物のドングリをくれるような笑顔だった。
「ショー子ちゃん、やっぱりあなたって…」
「ショー子お前って奴は…」
四井支店長が涙ぐんでいる。
「私もカンパする!」「私も!」
1円、10円、100円…次々に小銭が集まっていく。
まるで賽銭箱だ。
「よしじゃあ俺も!」
支店長が財布から千円札を1枚出して私の手に握らせた。
「すごーい、支店長太っ腹!」
「これで万事解決だ。良かったな、これでクッキーを作れるぞ」
「あ、わかったー、三井さんてばうまくクッキー作る自信ないんでしょ。よーし!今夜もうちに泊まりにおいでよ!夕ご飯のあとリハーサルしよう!」
とショー子さんは、涙をぬぐいながら少女漫画の主人公みたいなとびっきりの無邪気な笑顔で言った。
目の前に集まった小銭の群れは私の高校時代の一ヶ月のお小遣いより少ない額だ。
これでどうにかなる病気があるか。
支店長が言った。
「なんだそんな泣きそうな顔して…これだけの大金を寄付してもらってまだ何かあるのか」
全部だ。
全部怖い。
たったこれだけの小銭でどうにかなる病気があると、本気で信じてるこの人達が怖い。
わけわかんない歌を一曲歌っただけで人が変わると信じてるこの人達が怖い。
悩みを打ち明ければ人は必ず仲良くなれると信じてるこの人達が怖い。
「言ってみろ!」
支店長がガシッと私の肩を掴んだ。
「心にためこむな!!」
指が食い込んで痛い。
「俺はお前の本当の親父だ!そう思って何でも言ってみろ!」
支店長の唾が飛ぶ。
痛い。
怖い。
「俺が、いや、ここのみんなが守ってやる!!素直になりなさい!素直に何でも言いなさい!」
またあの研修を思い出す。
土下座の練習…
何回も大声で謝罪させられながら土下座、土下座、土下座……
いじめられていた女の子……
そして……
私が……した……あの子………
「三井さん私達もあなたの味方よ!」
「信じて!」
「打ち明けて!」
「素直に!」
「思いやりの心!」
「人間は一人じゃ生きていけないんだよ!思いやりの心がないとだめなんだよ!」
怖い。
怖い。
怖い…!
もう5時30分だ。
今からでも急いでマウンテンバイクをこげばギリギリ間にあう。
お願いです帰してください、お母さんに会いたい、お母さんが死ぬ前に一目会いたいと私は叫んだ。
下手な歌なんかより、これで心が動かない方がおかしいだろ!
しかしショー子さんは私の手を痛い程握って離さない。
小学校の頃友達と喧嘩して、子供ながら強い力で腕を握られた時を思い出した。
「その前に、お父さんに誠意を見せなきゃだめよ!お母さんはそれからでもじゅうぶん間に合うから!」
私は、本当に危篤なんです、嘘じゃないんです、今すぐにでも母は死ぬかもしれないんですと叫んだ。
ショー子さんはビシッと言った。
「実の娘を身売りさせるような親でしょ!そんなの、看取る必要ないよ!自業自得だよ!」
ひ、ひどい…
私はもう頭がぐちゃぐちゃな状態で叫んだ。
「いいかげんにして!全部ショー子さんが勝手に勘違いしてるだけ!あなたの妄想!うちの親はそんな事してない!私はそんな仕事、一度もしてない!麻薬なんか、見た事もないってば!」
仙波さんが怒鳴った。
「じゃあ、あの通帳の大金は何なの!」
「ただのバイト代です!通帳の振込先の名前ちゃんと見てください!」
「だからそれが夜の仕事なんでしょ!」
「ただのコンビニです!夜の仕事も麻薬もやったことありません!!」
「コンビニごときで何万ももらえるわけないだろ!だいたい、だったらなんでパスポートなんか持ってた!」
だからあれは家族旅行と修学旅行で、と言っても
「畳も無いほど貧乏な三井さんちが海外旅行なんか行ける訳ないでしょ!」
「そうだそうだ!だいたい、修学旅行で外国なんか行く訳ない!」
だめだ…何言っても通じない…
いくら修学旅行で海外に行く学校だってあるとこの場で説明しても、この人たちは絶対に認めないだろう。
この人達の辞書にそんな事書いてないから。
「お父さんはね…ずっと…ずうっと三井さんの誠意を待ってるんだよ!三井さんが、心から変わると決意して、お父さんに誠意を示してくれるのを…これは三井さんが変わる最大のチャンスだよ!」
なんで私が変わる必要があるの…
「三井さん、あなたこんな真剣に人に叱られた事ある?ないでしょ」
なんで勝手に決めつけるの…
「あります!これ以上両親を侮辱しな…」
「ほらないでしょ!今ショー子ちゃんに見捨てられたらもう誰もあなたを本気で叱ってくれなくなるよ!」
誰も私の話を聞いてくれない…
支店長や仙波さんたちもショー子さんに続いた。
「お前はうちの社員だ!もう家族なんだ!」
「そうよ三井さん、私達家族でしょう」
「なんでも話して!打ち明けて!」
「思いやりの心だよ!」
「思いやりの心を持ちなさい!」
うるさいうるさいうるさい!
何が思いやりだ、そんなもの今何の役に立つ!
私の話ひとつ聞こうとしないくせに!
私は喉がつぶれる程の大声で叫んだ。
「もう本当に離してください!!!6時までに〇〇駅に行かなきゃいけないんです!!!」
カラオケでシャウトする時だってここまで大声出した事はない。
「6時まで?」
仙波さんが会議室の壁掛けのボロい時計を見て、ん?という顔で言った。
「あの時計、遅れてる…」
「え…!?」
私は、い、今何時!?と叫んだ。
支店長が腕時計を見た。
「今6時50分や」
ろくじ…ごじゅっぷん……!?
ああ…携帯電話が見られれば…
この会社は営業以外は業務中の携帯の使用は禁止だ。
嘘…
嘘…
私は…へたりこんだ。
ああ…
体内の血の温度が一気に下がっていくのを感じた。
父は…父はもう帰ってしまっただろう。
そうに違いない。
私が…
私が来ないから…
そのとき。
タイヤが砂利を潰す音がした。
誰かが会社の駐車場に車を乗り入れたのだ。
おかしい。
こんな時間に顧客なんか来る訳無い。
外から、バン、という車のドアを閉める音がした。
支店長が不思議そうな顔で駐車場の方を見に行った。
「…ベンベやないか」
と支店長が驚いた。
ベンベって何のことかと思ったら、昔は外車のベンツのことをそう呼んでいたと父に教えてもらった。
「誰だ、ベンベなんか乗るやついたか?」
えーなになにー、外車ー?外国人ー?とみんないっせいにわらわらと窓に押し寄せた。
まるで子供だ。
小学生の頃、学校の周りを暴走族が派手な音を出しながら走ってたらクラスのみんながいっせいに窓に押し寄せた事を思い出した。
そのベンベから誰か、スーツを着た人物が二人、降りて来た。
…父だ!!
そうだ…あの車、うちのだ…
私が大学二年の時、ついに憧れのベンツを格安で買えたって父が喜んでいたっけ…
本当に格安で、国産車より安かったらしい。
もう1人は…もしかして名古屋さん?
駅で待ち合わせだからてっきり電車で帰るのかと思ったけど、そうか、お父さん、車で来てくれたんだ……
二人はそのまま会社の中に入ってきた。
三か月ぶりに父と再会した。
父は私を見て、なぜか顔色を変えた。
少しの沈黙のあと、父は
「突然の無礼、失礼します」
と挨拶し、私の父親であると自己紹介した。
それを聞いた支店長が
「え…仮名の?」
と答えた。
とたんに父が、いま何と言った!と激昂した。
「おたくでは孫ほど年が離れた女子社員を下の名前で呼び捨てにしているのか!」
父の怒号に支店長は
「は、はぁ?それがなにか…」
と何がいけないのか?という風に答えた。
父は名古屋さんに
「話に聞いていた以上のようですな」
と話しかけた。
後ろでみんな、なに?ヤクザ?とヒソヒソ話している。
お父さんのどこがヤクザだ。失礼な。
「妻が危篤なので今日は娘を連れて帰る。これが妻の診断書だ。また、娘は退職を希望しているので以降退職手続きをお願いしたい」
父が診断書の入った封書を提出した。
後で聞いたら母の診断書は病院に頼んでかなり大げさに書いてもらったそうだ。
支店長は、私がパスポートを見せた時のような鬼の形相になった。
「こ、こ、こんなことであんた、私の家族を…!」
と怒号を発した。
きっと私だったらもうすくみあがって逆らう気力も無かっただろう。
だが父はまったくひるまなかった。
「家族だと? 赤の他人が何を言う!」
父がそう言うと支店長は逆上した。
「あ、赤の他人だと!?俺は、俺は仮名の上司だぞ!ふざけるな!」
「ふざけているのはどちらだ!」
支店長が叫んだ。
「こんな侮辱は初めてだっ!!!!」
ああ、そういえば研修の時も「初めてだ!」って言われたっけな、とどうでもいいことを思い出した。
半年前の研修の日々。
毎晩繰り返される意味の解らないどんちゃん騒ぎ。
当然、数十人分の洗い物が沢山出る。
最初の日、誰かが
「これ、私達が片づけなきゃいけないんだっけ?」
と言った。
誰が言ったのか今となっては覚えていないしそこはどうでもいい。
みんな、朝から訳の分からない討論や、初対面の人の壮絶な過去を告白されるという非日常体験の中で、まともな判断ができなくなっていた。
制限時間以内に出来ないと「誠意を見せろ」と怒鳴られ叱られるのでピリピリしていた。
土下座、仲間割れ、もめ事。
みんな、初日にして疲れ切ってたんだろう。
私達含む何人かの女の子達が数十人分の洗い物をした。
手洗い場を使った。
綺麗になった皿を施設本部に運んだ。
別に褒められようとかそういう意図でやったわけではなかった。
繰り返すが、みんな疲れ切っていたのだ。
まともな判断が出来なくなっていただけだ。
翌日、私達を待っていたのは研修を仕切っていた薬草臭い松葉杖のマッチョ上司の大目玉だった。
「やれと言ってもいない事を、なぜやった!!!」
「俺はこんな事しろだなんて一言も言ってないぞ!!!何を考えてるっ!!!」
そのあと何十分もしこたま叱られた。
別の上司が、そろそろ次のプログラムの時間です、と言わなければ、私達は一日中でも一週間でも叱られていたんじゃないかという気がする。
この上司は、いやこの会社の説教は、本当に長い。
上司は舌打ちしたのち、子供の頃絵本で見た地獄の鬼みたいな真っ赤な顔で私達に向かって叫んだ。
「こんな研修は、初めてだっ!!!!」
あんなことを、なんで今思い出してしまったんだろう。
目の前の支店長はあの時のマッチョ上司と同じぐらい赤い顔で怒っている。
ああ、この会社はみんな同じだ、と思った。
支店長は母の診断書をビリビリ破いた。
「退職も休暇も認めん!だいたい新人の分際で休暇など…」
と憤った。
父は冷静にこう言った。
「娘から聞いたが、おたくでは病欠及び欠勤はいかなる場合も一切認められないそうですな」
「当たり前だ!」
「それは、肉親の葬儀も同じか」
「当前だ!俺は親が死のうと身内が倒れようと一日たりとも会社を休んだ事はない!ここにいる者みな同じだ!」
みんな強い目でうなずいた。
父はひるまなかった。
「ほう、それは感心なことで。そのあたり、この県の労基に確認するがいいか」
支店長はぽかんとした。
「は…? 労基? なんで今労基が出てくる」
後ろでみんな「何言ってるの」「意味わかんない、怖い…」とざわざわしだした。
ショー子さんと仙波さんはただただぽかんとしている。
現状、父の言葉、何一つ理解できないという顔だ。
名古屋さんが父に「あー無駄みゃ。昔と何も変わっとらん。時間の無駄だがね」と言った。
父は名古屋さんに、先に娘をお願いします。と言った。
みんな、父にぽかんとしていて、私の手を掴むのを忘れていた。
名古屋さんがすばやき私の手首を掴んだ。
私の耳元で「逃げるが勝ちだがね」と言った。
さらに名古屋さんが小さい声で「人命に関わる仕事でもにゃあくせにバカか」と付け加えた。
私は名古屋さんに手を引かれるまま会社を去った。
これが最後だった。
後ろから父の声が聞こえて来た。
「きさまら娘に何をした」
「たった三ヶ月でなにをどうしたら一人の人間がああなる」
「履歴書の顔写真と今の娘を見比べてみろ!娘に一体何をした!」
私は初めて父のベンツに乗った。
こんなにきれいな車に乗ったの、いつぶりだろう。
カーラジオからFMが聞こえる。
FMラジオなんて久しぶりに聞いた。
支店長も仙波さんもショー子さんも他の営業さんも、カーラジオなんてかけないからなあ。
支店長は落語か演歌のテープしかかけないし…
ああ…legacyの声だ…
新曲、こんな曲なんだ…すごい綺麗な曲じゃん…
ボーカルの声、久しぶりに聴いた…
若い人の声、音楽の話、映画、イベント、ライブ話…
やっと…
やっと、元の世界に戻れた…
ほうっと心が落ち着いた。
私は車の中で父に聞いた。
「おとうさん…」
「なんだ?」
「オンバイケンて…知ってる?」
「おんば…? え? なんだって?」
「いえ…いいの」
私はゆっくり目を閉じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます