沈みゆくオフィーリアは
スミレ
前編
オフィーリアの
およそ十八世紀半ばのことです。ガートルードは、ヨーロッパ辺境の地域にある、下流貴族の一人娘でした。年は十六。許嫁の男との婚姻を間近に控えているところでした。
ところが、そこに急な
伴侶となるはずだった男が、馬から落ちてしまったのです。男は間もなく、亡くなりました。
ガートルードには、哀しむ暇もありませんでした。
かわいそうなガートルード。当時はこの年頃の娘を――それも未亡人も同然の娘を――貰うような男はどこにもおりません。彼女は果たしてこの先をどう生きていくのか、周りからは憐れまれる始末です。
しかしながら、幸運なことに、彼女への心配は無用となりました。
ガートルードを貰い受けると申し出た男が現れたのです。男の名はクローディアス。デンマーク外れの中流貴族の長男であり、ガートルードの許嫁の、義理堅い親友でした。
彼女の両親はこれに大喜び。話はとんとん拍子に決まりました。
さて、ガートルードはほんの数日で身支度を整え、クローディアスと馬車に乗り込みました。
馬車は国境を越え、市街地から緑豊かな森のそばを走ります。
流れる木々をぼうっと見つめる彼女に、クローディアスは尋ねました。
「あまり気乗りしないか、ガートルード」
「いいえ」
あんまりはっきりと答えられたものだから、クローディアスは逆に面食らってしまいました。
「気を悪くさせていたならごめんなさい、クローディアス様。
「ならば、何故そんな顔をしている。やはり気がかりがあるのだろう」
「故郷が遠くなれば、誰だって気がかりになりますわ」
ガートルードはそれ以上、何も語ろうとはしません。
クローディアスは、そんな彼女の気を紛らすように、絶え間なく色んな話をするのです。
屋敷には彼の他に、父と妹のオフィーリアが暮らしていること。母は妹を産んですぐ亡くなったこと。屋敷のそばを流れる小川には、色とりどりの花が咲くこと。妹はよく花を摘んで、花冠を作って遊んでいること。
とりとめもない話に、ガートルードは聞き入っていました。
馬車は、小川にかかる橋を越えたところです。すると、すぐに屋敷が見えてきました。
よく手入れされた庭には、女中が二人控えています。馬車はゆっくりと速度を落とし、その近くで停まりました。クローディアスに手を引かれて馬車を降りたガートルードを、女中たちは揃って迎えました。
「クローディアス様、よくお戻りで」
「ガートルード様、ようこそいらっしゃいまし」
「ご主人様とオフィーリアさまが、屋敷でお待ちになっておいでです。
さあさあ、どうぞこちらへ」
女中たちは屋敷の扉を開けると、「クローディアス様、ガートルード様、お着きでございます!」と声を張り上げました。クローディアスが先導し、ガートルードはその後ろを歩きます。
屋敷の中は、隅々まで掃除が行き届いており、ガートルードが見たこともないような調度品が飾られています。その中を進んでいくと、いかにも客間らしき、立派な部屋にたどり着きました。
中に入ると、厳格そうな顔だちをした初老の男がソファに身体を預けています。彼がクローディアスの父親で、この屋敷の主なのでしょう。
その近くに、ガートルードと同じくらいの年の娘が寄り添っていました。ふっくらと
ガートルードは恭しく礼をして、挨拶を述べました。
「ガートルードと申します。お目にかかれまして光栄でございますわ」
クローディアスの父親は立ち上がり、ガートルードに歩み寄ります。
「よく来て下さった。先の出来事は本当に残念だったというべきか――」
そこから先は、うなり声のようになってしまって聞き取れません。
「お父さまったら、あまり気の利いたこと言えないんだから」
娘も後に続き、ガートルードの手を取って微笑みました。
「
どんな事情であれ、貴女と義理の姉妹になれて本当に嬉しいわ」
「オフィーリア。ガートルードの方が年上だ」
「まあ。じゃあガートルードお姉さまね。よろしくね、お姉さま」
クローディアスは咳払いをしました。
「無礼だというのが分からないか」
「構いませんわ。私たち、これから姉妹になりますもの」
ガートルードは、オフィーリアの手を握り返しました。実際、彼女にとっては、オフィーリアが唯一年の近い娘です。ですから、彼女の機嫌を損ねて屋敷で孤立することは避けねばなりません。
一方のオフィーリアは、そんなことはつゆ知らず。今度はガートルードの
「素敵なドレスね。こちらでは見たことのない形だわ」
「私の故郷の意匠ですから、物珍しいでしょう。
他にもございますわ。よろしければ、ご覧になってはいかがかしら」
「それなら、私のドレスも持ってくるわ。見せ合いっこしましょう」
ガートルードが何か言う前に、オフィーリアは彼女の手を引いて部屋を飛び出しました。残されたクローディアスたちが何も言わないところを見るに、これが彼女の常なのでしょう。
オフィーリアは、近くにいた女中を呼びつけました。
「ねえ、私の部屋から仕立てのいいドレスをいくつか持ってきて頂戴。
それから、お姉さまのお部屋はどこかしら」
「ガートルード様の私室は、亡き
「おばあさまのお部屋って、長いこと使われてなかったじゃない。
嫌だわ、
オフィーリアは顔をしかめました。女中はエプロンの裾を
「お姉さまのお部屋はこちらよ。さ、いきましょう」
軽やかな足取りのオフィーリアに続いて、ガートルードは階段を上がり、二階の廊下を歩きます。
「よかった、ちゃんと掃除されているわ。どうぞ入って」
そうして案内されたのは、日当たりのいい小部屋でした。室内はきちんと磨かれ、据えられた家具はどれも上等なものだと見て分かります。それにクローゼットを開ければ、既にガートルードのドレスが収納されていました。
「お姉さま。私のドレスもここに置いていいかしら」
ガートルードが頷くより先に、オフィーリアが女中から受け取ったドレスを広げています。そしてガートルードの隣に立って、クローゼットの中を覗き込みました。
「やっぱり素敵ね。こっちで流行らないのがもったいないわ」
「気に入るものがあれば差し上げますわ。この色ならば似合いそう――」
ガートルードが一番明るい色のドレスを取り出そうとしましたが、妙に手ごたえを感じてその手を止めました。
「あら、裾が引っかかっているみたい。外すから待っていて」
オフィーリアが座り込み、ドレスの
「オフィーリア?」
彼女が声をかけたときです。がこん、と足元から間抜けな音が聞こえたと思えば、続いてオフィーリアが短い悲鳴を上げました。
「お姉さま、ここをご覧になって。ほら、ここよ」
ガートルードはドレスをしまい――いつの間にか裾は取れていたのです――それから、オフィーリアの後ろから様子を伺います。
オフィーリアの左手は、クローゼットと同じ色の板を持っていました。そして、空いた右手がクローゼットの床を示しています。
いいえ、よく見ればそこには、四方にくり抜かれた
高さは五センチもない、とても浅い窪みです。中には、
「これ、真っ白だわ」
オフィーリアがスケッチブックを手に取り、ざらざらした紙を一枚一枚めくっています。
しかし、どこを見ても何も書かれていません。
「いったいどうして、こんな物があったのかしら」
「以前この部屋を使っていた、大奥様の遺品ではなくて?」
「ううん、きっと違うと思うわ。
おばあさまは刺繍が趣味で、暇さえあればそればかりしていたもの」
オフィーリアは、色づいた唇に指をあて、考え込んでいます。
「お父さまもお兄さまも、亡くなったおじいさまも、絵の趣味はないし。
後は……お母さま、とか」
「奥様は生前、絵を描いていましたの?」
「分からないわ。お父さま、お母さまのことあんまり話さなかったし」
オフィーリアはふと、ガートルードを見やりました。
「ねえ。お姉さまは絵は描かないの?」
ガートルードは不意を突かれてしまって、つい、ありのままを答えてしまいました。
「絵は、よく描いていましたけれど」
「画材は持ってこなかったの?」
「妻になる女が絵に没頭すべきではないと、両親に言われましたので。
ここに来る前に捨ててしまいました」
「そんな、もったいないわ」
オフィーリアは頬を膨らませました。それから、こう言うのです。
「そうだわ。このスケッチブックは、お姉さまが使いましょうよ」
それに、ガートルードはひっくり返るほど驚きました。
「まあ、オフィーリアったら――」
「これはお姉さまのお部屋にあったのよ。
だから、もうお姉さまの物にしていいはずだわ。そうでしょう?」
オフィーリアは、花のような微笑みを浮かべています。
「お姉さま。絵を描くのにとっても良い場所があるのよ。
連れて行って差し上げるから、私にお姉さまの絵を見せて頂戴」
「良い場所、とは」
戸惑うガートルードの唇に、オフィーリアは人差し指を当てました。
そうして、からかうような口ぶりで言うのです。
「秘密の場所よ、お姉さま」
沈みゆくオフィーリアは スミレ @sumi-re
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