第17話 母親の死が迫っている

 書きたい衝動を抑える事ができずに、ノートパソコンを持って多目的ルーム2に向かった。

 書きたくて仕方がない。1秒でも早く物語を作りたい。言葉を紡ぎたい。

 頭の中ではキャラクター達が勝手に喋り始めている。

 彼等が脳内で動き始めている。

 1秒でも早く文章化してあげないと物語が逃げてしまいそうな気がした。

 焦る気持ちを抑えてノートパソコンを開く。

 白紙の画面。

 キーボードを手に乗せる。

 頭の中で物語を追っていく。

 ピアノを弾くように自然に手が動き始める。

 今日は母親が入院している病院に呼ばれている。

 それまでの間だけ小説を書こうと思っていた。

 多目的ルーム2には誰もいない。

 小説を書くために部室を借りているだけの部。

 ガラガラガラ、と扉が開く音が聞こえて誰かが入って来た。

 集中が途切れるのが嫌だからノートパソコンの画面から視線を外すことはできなかった。

 ぼくの隣に誰かが座った。

「戻って来たんですね」

 うさぎの声が聞こえた。

 ツインテールに角のヘアゴムを2つ付けた女の子。

 魔神、という設定で生きている七瀬うさぎである。

「何してたんですか? ずっと心配してたんですよ」

「……」

 頭の中の物語が彼女の言葉をかき消してしまう。

「もう黙ってどこかに行かないでくださいね」

「……」

 キーボードを叩くパチパチという音だけが部室に響いた。



 多目的ルーム2に誰かが入ってきた。

「ほら言ったでしょ? ハイジ先生は戻って来て、また何食わぬ顔で小説書いてるって」

 ぼくは彼女の顔も見ない。

 だけど誰が入って来たのかはわかる。

 宮崎いすずである。

 ピンク頭でアイドルグループに入っていてもおかしくないような美しすぎる女の子である。

「はい、書いてました」とうさぎが嬉しそうに言った。

「おらおらおら」といすずは言って、ぼくの鼻を摘んだ。

 集中を解きたくなかったので、ぼくは無視した。

「集中して周りが見えませんよアピールするなって」

「……」

「そんな事でハイジは小説を書くのを辞めないって私は知ってたよ」

「そんな事で、って何ですか?」

「ハイジ先生、ちょっと家の都合で就職しようとしてたの」

「なんですか? 就職って」

「別になんでもないよ」

「教えてください」 

 2人は喋りながら洋裁をするために部屋の隅に行く。

 気づいた時には隣から不気味な笑い声が聞こえた。

 ぼくの隣には小さな身長で胸が大きい、短いポニーテールの女の子がノートに文字を書きながら笑っていた。

 彼女はネタを書いている。

 漫才なのかコントなのかはわからない。

 人を笑かすためのネタである。

 伊賀京子だった。



 髪で顔を隠した幽霊に似ている一条渚も多目的ルーム2に来ていた。

 彼女はダンボールで首の長い動物を組み立てている。

 そういえば部室に来るまでに一条渚が女の子に囲まれて女子トイレに連れて行かれているのを目撃したけど、早く小説を書きたかったので無視した。



 設定していたアラームが鳴るとぼくはワードを保存する。

 母親の病院に行く時間が来たのだ。

 今日は妹を連れて来るな、と母親から言われていた。

 部室を出ようとした時に宮崎いすずに腕を掴まれた。

「ハイジ先生、ちょっとぐらい、みんなに何か言いなよ」

「えっ?」

「えっ、じゃないわよ。みんな心配してたんだから」

「……みんな心配かけてごめん。ちょっと色々あって学校に来れなかったけど、もう解決したから」

「お詫びに何かごちそうします」と宮崎いすずが言う。「リピートアフターミー」

「お詫びに何かごちそうします」

「そう言ってます」といすずが言う。



 部室を出て病院に向かった。

 電車の中でも小説を書き続けた。

 なにせ書きたかった。

 きっとこの小説を書き上がれば世界一面白い作品になるだろう、という事はわかっていた。

 だからぼくの指が頭よりも先に動こうとしている。

 体が心を追い越そうとしている。

 勝手に思いが文章に宿って行く。

 そんな事をしていたら二駅ほど乗り過ごして、また戻って来て、ようやく病院に辿り着く。

 


 母親が入院する大部屋に入る。

 カーテンで区切られた大部屋は巨大なクラゲが整列しているようである。

 カーテンを開けて中に入ると母親は手に持っていたアイフォンを枕の横に置き、耳に突っ込んでいた小石ぐらいのイヤホンを取り出した。

 目薬の代わりにレモンをさしてしまったように母親の目が充血している。

「ごめん。遅れて」

「大丈夫よ」と母は言った。

「何か聞いていたの?」

「昔の動画を見てたの」

 母親は痩せていた。

 少しどころじゃない。砂漠で天日干しでもしているように痩せている。 

 手は骨ばっているし、目は虚ろで真っ赤だった。

「ハイジ」と母親は言った。

「これから先生が言うことをアユには言わないでほしいの」

「なんで?」

 ぼくの声は震えている。

「教えたくないの」



 診察室で先生の言葉を聞きながら母の肩を抱きしめた。

 母は震えていた。

 小さい時にお母さんと繋いだ手のことを思い出した。

 大きい手だった。

 ぼくはお母さんより大きくなってしまった。

 母親は強い人だった。

 ぼく達には好きな事をさせてくれた。

 大好きだった。

 そんなお母さんは腐った木のように折れやすい体になっている。

 あんなにも大きくて頼りになるお母さんが、ぼくの胸で泣いていた。

 母親の頭を撫でた。

 髪はパサパサだった。

「ごめんね」

 とお母さんは泣きながら呟いた。

 ぼくの足元が揺らいでいる。まるで地面がバランスボールで出来ているみたいだ。

 母親は何を謝っているんだろうか?

 残してしまうぼく達の未来の事を思って謝っているんだろうか?

 未来のことはぼくがどうにかする事なんだから、お母さんが気にすることじゃない。

 こんな時までぼく達の事を考えなくていい。

 せめてぼくが作家になれば少しはぼく達の未来が不安な事ばかりじゃないと思えるんじゃないか。

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