第15話 親不孝

 お母さんが倒れてから3日後の昼に母親は目覚めた。

 病院から母親が目覚めた知らせを聞いて、すぐに2人で駆けつけた。

 お母さんは大部屋に移され、口に付けていたホースは外され、鼻にさらに細いホースだけがついていた。

 お母さんはコンタクトレンズがひっくり返ってしまったような目をして微笑んだ。

 ぼくと妹はお母さんに駆け寄り、2度と家に帰れない迷いの森に入った時のように力強く母親の手を握った。

 この手を離してしまえば、ぼく達は迷子になって家に帰れないどころか、2度と母親にも会えないだろう。

 お母さんは砂漠で遭難したんじゃないか、っていうぐらいに唇がパサパサだった。

 ずいぶん久しく使っていない唇を動かして、「心配かけたね」と呟いた。

 妹が首を横に振りながら、うぇ〜ん、と子供のように泣いていた。



 数日後。ぼくは仕事の面接に向かった。

 父親が使っていた黒のスーツはブカブカで、ぼくが着ると腹話術の人形のようだった。

 革靴もブカブカで歩くたびに馬のようなパカンパカンと音がする。

 ぼくが面接に向かった先はシャーリング屋さんだった。

 シャーリング? 聞きなれない言葉だった。

 どうやら工場らしい。

 不慣れな足で事務所に上がって行くと学校の事務員さんのような親切そうなオジさんがいた。

 そのオジさんが社長らしく、面接をしてくれた。

 16歳であることに驚いていた。学校は? と尋ねられたから、まだ退学届は受理されてないけど、「辞めました」と答えた。

 なんで? と質問されたから、今までの経緯を話した。

 そして一通りの話をして、工場を見学させてもらった。

 工場の中は埃が充満していた。

 大きな鉄板が積み重ねられ、レゴブロックを積んだみたいだった。 

 ガシャン、ガシャン、とメカゴジラが歩いているような音がする。

 大きな鉄板がサッカーゴールぐらいのサイズの機械に吸い込まれていく。

 どうやら鉄板を切断する機械らしい。

 切断する時にガシャン、ガシャン、とメカゴジラが歩くような音をさせていた。

 働いている人は、みんな60代ぐらいの男性で、ボロボロの服を着ている。

 たぶん作業しているうちに汚れてしまうんだろう。

 人手不足と後継者不足らしい。



 母親の病室。

 午前中だから妹は、まだ来ていない。

 ぼくは就職先が決まったことを言い出すタイミングを探しながら、りんごを剥いていた。

 りんごぐらいなら簡単に向ける。

 お母さんは、ぼくの事をジッと見ていた。

 それが睨んでいると気づいたのは、「ハイジ」と言った声が、怒っていたからだ。

「なに?」

「昨日、中本先生が来てくれたの」

 まだ不慣れな唇を使って、一生懸命に喋っていた。

 目は鬼に匹敵するぐらいの眼光だった。

 頭の中がグルグルと回る。もしかして先生は夜クラブに行っていた事をお母さんに言ったんじゃないだろうか?

「退学届を書いたみたいね」

 そっちか。

 ぼくは安堵して、長い息を出す。

 学校を辞めることについては今から説明するところだった。


「お母さんをバカにするな」

 と母親が言った。

 その声はお母さんが今出せる大声だった。

 それでも声は小さい。だけどぼくの胸にはちゃんと届いて鐘のように響いた。

「顔をお母さんに近づけなさい」

 お母さんは皺が少し増えた骨ばった手で、ぼくの頬を叩いた。

 本気で怒っていて本気で叩いたんだろうけど、その手に力が無くてペチャって音がするだけだった。

「アナタはアナタの人生を生きたらいいの」

 お母さんが倒れても泣くのを我慢していた。だってぼくが泣いたら妹の支えになる人がいなくなるから。

 お母さんが目覚めた時もぼくは泣かなかった。母親を不安にさせると思ったから。

 泣いたらいけないと思っていた。だから涙を流さないように我慢した。

 だけど泣くのが我慢できず、ぼくは嗚咽を出して泣いていた。

 カーテンで部屋を区切っていた。だから他所の患者さんに聞かれないように必死で声を飲み込んだ。それでも嗚咽が漏れた。

 お母さんは皺が多くなった手で、ぼくを抱き寄せて頭を撫でた。

 こんなところ誰にも見られたくないと思いながら、ぼくは小さい子どものように母親を強く抱きしめた。

「本当にバカ息子ね」

 


 ぼくが泣き止むと母親は笑いながら、テッシュをぼくに差し出した。

「ちゃんと鼻チーンできる?」

「なんだよ。子どもじゃないんだから、そんな言い方するなよ」

「子どもみたいに泣いてたくせに」

「だって」

「お母さんが保険に入っていないわけがないじゃない。ハイジは何も心配しなくていいの」

「……だって」

「子どもが親のせいで、自分の人生を生きられないっていうのが、親不孝なのよ」

「……そうなの?」

「そうよ」

 と母が言った。

「早く帰って」

「えっ?」

「まだ学校の時間でしょ? それと面会も、もう来なくていいから」

「なんで?」

「アナタにはやるべき事があるんでしょ?」

「でも」

「でもじゃない。早く帰って。次、面会に来たら怒るわよ」

 問答無用に病室から出された。

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