ドラゴン殺しと妖精姫
遠野月
◇◆◇
「ミリア。すまないが君には、この討伐団を――」
「団長、私は今日でこの団を抜けます。お世話になりました」
「――辞めてもら…………ええ??」
団長がぽかんと口を開けている。
先ほどまでの神妙な面持ちはどこへ消えたのか。
ミリアはもう一度、団長に深々と頭を下げた。
ざんばらの髪が大きく揺れ、ミリアの顔面を覆い隠す。
「い、いいのか? ミリア?」
団長がおどおどとしてミリアに声をかけてくる。
まさかミリアのほうから辞めると言いだすなんて、思ってもいなかったのだろう。
「仕方ありません。先日は私のミスで、この討伐団が全滅するところでした」
「……ミリア。本当は君だけのせいじゃな――」
「ミスをしたのは事実です。それに皆がわたしを目の敵にしています」
「……すまん」
「団長の立場は理解しています。ですからこれで」
ミリアは翻り、団長がいる部屋を出た。
ミリアが部屋を出るまで、団長がなにかを言い足すことはなかった。
うめき声に似たような声が聞こえた気がしたが、ミリアは振り返らなかった。
部屋の戸を後ろ手でそっと閉じる。
団長の部屋の外には、討伐団の団員が五人ほどいた。
いずれの顔も、解雇の宣告を受けたミリアを待っていたと言わんばかりの表情。
「さっさと剣を棄てちまえ、ミリア」
一人がそう言うと、他の四人も似たようなことを喚き散らしはじめた。
ミリアは彼らになにも言い返さず、討伐団の館を出た。
館を離れてもしばらく、ミリアに対する悪口が聞こえてきた。
ミリアはその声を背に受け、唇を結ぶ。
心がえぐれるほどにつらいが、何も言い返すことができない。
いや、ここで言い返せば、心を鬼にしてミリアを追放しようとした団長に申し訳ない。
あの団長は本当に良い人だった。
黙って去るのは、ただただ団長のためであった。
「……とはいえ、どうしたものでしょうか」
討伐団の館を出たミリアは、早速途方に暮れていた。
立派な剣士になることを志しているミリアにとって、討伐団追放は死の宣告同然である。
この世界には魔獣が溢れていた。
魔獣は人々の生活を脅かす。その魔獣を打ち払うのが、討伐団の戦士たちであった。
戦士にはミリアのような女もいるが、もちろん多くはない。
剣士になりたいという女はもっと少ない。大抵は弓士になる。
それ故、女剣士にとって討伐団の門は非常に狭かった。
しかしミリアは剣士になりたかった。難しいと分かっていても。
生ける伝説の女剣士「ドラゴン殺しのノア」に憧れ、この世界へ飛び込んだからである。
「とりあえず生活費だけでも稼がなければ」
鞘に納められた剣に触れ、ミリアは気合を入れた。
討伐団に入っていなくても、魔獣さえ倒せればいくらかは稼げるのだ。
剣士として未熟なミリアでも倒せる魔獣は少ないが、数をこなせばなんとかなる。
気持ちを切り替えたミリアが向かった先は、グイアの大洞窟であった。
グイアの大洞窟は、浅部と深部に分かれている。
深部にいる魔獣は強力だが、浅部にいる魔獣は総じて弱い。
退路さえ確保していれば、ミリア一人でも十分戦える場所であった。
「まずは様子見から……」
洞窟に入ったミリアは、警戒を強めて進んでいく。
浅部の入り口にいる魔獣は、虫型のものが多い。
グイアの大洞窟に討伐団があまり来ないのは、この虫型の魔獣が原因であった。
とはいえ、放置も出来ない。
放っておけば魔獣が外に溢れ出て、一般の人々を襲うからである。
ミリアは不気味な形をした虫の魔獣を一匹仕留め、息を吐いた。
「……やっぱり虫は慣れないですね」
見た目はもちろんだが、虫の魔獣は倒したあともひどい。
身体から流れでた体液が臭いのだ。
幸いミリアは虫に苦手意識を持っていなかったが、この臭いだけは別であった。
目に沁みる刺激臭と腐臭を混ぜたこの独特の臭い。
気をしっかり持たなければ、意識が遠のきそうになる。
この臭いが生理的に受け付けず、戦士を辞める者もいるほどだ。
ミリアは鼻と口を布で覆いながら、また一匹、虫を仕留めた。
そうしているうちにミリアは、何か妙なものが目端に映っていることに気付いた。
「……人?」
岩壁の端から、人の足のようなものが見える。
気になって近付いてみると、それはやはり人であった。
岩壁にもたれるようにして、ぐったりと倒れている。
「だ、大丈夫ですか!?」
ミリアは慌てて駆け寄った。
傍に寄って見ると、倒れていた人間は剣士のようであった。二振りの長剣を背に納めている。
垂れた長髪の隙間から、端麗な顔が見えた。
美しい女性だなとミリアは思わず見惚れたが、すぐにはっとした。
よくよく見ると女ではなく、男であったからだ。
これほどに美しい顔立ちの男がいるのかと、ミリアは首を傾げた。
「……って、それどころじゃない! あの、大丈夫ですか!?」
ミリアは何度も声をかける。しかし返事はなかった。
死んではいないが、目を覚ましそうにない。
まさか魔獣にやられたのだろうか?
ミリアは男の身体を隈なく調べたが、特に外傷は見つけられなかった。
「でも、ひどい熱だわ」
身体を触っているうちに、男が熱を出していると気付く。
病気か、魔獣による毒か。いずれにしてもこのままでは良くない。
仕方なくミリアは、男を背負って洞窟から出ることにした。
しかしそれもまた前途多難。
背負う男の身体はミリアよりもはるかに大きい。
ほとんど引きずっているに等しく、なかなか進めなかった。
途中、何度も虫の魔獣に襲われる。
ミリアが体力を消耗していると感づいているのか。
それとも死にかけている男を餌にしようと寄ってきているのか。
進むほどに、襲いかかってくる虫の魔獣が増えていく。
「く、この……! あ、ああ!!」
何度目かの襲撃で、ついにミリアは持っていた剣を折ってしまった。
予備の剣はない。短剣ならあるが、魔獣相手には役に立たないだろう。
どうするべきか。
そう悩む暇も与えないと、虫が迫ってくる。
「――っ、仕方ない! ごめんなさい!」
ミリアは咄嗟に、男の背にある二振りの剣のうち、一本の剣を手に取った。
抜き放つ。
瞬間、鋭い金属音が周囲にひびきわたった。
――軽い!?
ミリアの身長よりも長い剣なのに、驚くほど軽々と振れる。
これならばと、ミリアは長剣を構えた。
とはいえ洞窟であるがため、長剣を振り回すことは出来ない。
突いて、引き斬る。出来ることはそれくらいだ。
しかしなぜか。
初めて手に取った長剣に、ミリアはしっくりと馴染むような感覚を覚えた。
これまでさほど剣の腕は上達しなかったのに、この長剣であればなんでも出来る気がする。
そしてそれは、気がするというだけではなかった。
思い描いたとおりに長剣をさばき、虫の魔獣を蹴散らせたからである。
――これがわたしの実力? それとも、この剣の??
驚いているうちに、襲いかかってきてた虫の魔獣をすべて倒しきる。
もちろん、ミリア一人の力で。
夢でも見ているのか。
ミリアは目の前の光景を疑うのだった。
◇ ◇ ◇
「すまない。世話になってしまったな」
洞窟で助けた長身の男が、深々とミリアに頭を下げた。
端正な顔立ちの男にミリアは一瞬に見惚れていたが、慌てて首を横に振る。
グイアの大洞窟から男を助け出したミリアは、街に戻って自らの借宿へ行き、男を休ませていた。
医者に診せたところ、ただの風邪だと断じられた。
意識を失っていたのは栄養失調によるものだという。
ミリアは医者に勧められた通りに栄養剤を飲ませ、一晩付き切りで看病をした。
男が目を覚ましたのは、翌日の昼頃であった。
「もう大丈夫なのですか?」
「ふらつきはするが、動くことは出来そうだ」
男が手足を動かしながら言う。
ミリアはほっとし、長く長く息を吐いた。
同時にひどい疲労を感じる。
当然だ。男を背負って洞窟を出てから今の今まで、一睡もしていなかったのだから。
眩暈がし、身体が左右に揺れる。
――あ、これはまずい。
そう思った直後。
目覚めたばかりの男の目の前で、ミリアは気を失った。
ミリアは目を覚ましたのは、その日の夕刻であった。
嗅ぎ慣れない空気。
ミリアが使っている借宿に居るようではないと、ミリアの身体がすぐに悟る。
「――こ、ここは!?」
飛び起きたミリアはすぐさま周囲の状況を確認した。
足元に、上等なベッド。
埃がつもった床。蜘蛛の巣が張っている壁。汚れて曇りきっている大きな窓。
廃墟のような屋敷の一室に、ミリアは居るらしかった。
助け出した長身の男は、どこにもいない。
いや、人の気配自体が周囲になかった。
「私はいったい……どうして……」
ミリアは埃の積もった床に足を下ろす。
ふわりと真っ白な埃が舞いあがった。
それを吸い込まないように口を手で押さえ、部屋を出る。
部屋を出る直前、ミリアは自身の衣服も確認した。
気を失う直前まで着ていた服と、なにも変わらない。
縛られた形跡もない。
どうやら誘拐されたというわけではないらしい。
部屋を出てしばらく廊下を進む。
屋敷は思いのほか広かった。
しかしどこを見ても、やはり廃墟寸前である。
なにかが壊れていたりはしないものの、埃と汚れが屋敷を覆っていた。
「……あれは、灯り……?」
廊下の先に、小さな光が見える。
近付いてみると、部屋からこぼれでた明かりだと分かった。
ミリアはごくりと唾を飲み込む。
足音を立てないよう、ゆっくりと光へ寄る。
「……起きたようだな」
光のほうから、凛とした声が聞こえた。
「すまない。そろそろ様子を見に行こうと思っていたのだが」
「……え?」
ミリアは驚き、半歩退く。
それを追うようにして、凛とした声の主が近付いてきた。
声の主は、ミリアが洞窟で助けた長身の男であった。
端正な顔立ちに、ミリアが気を失っている間に整えたであろう長髪と、上等な衣服。
どこぞの貴族かと思ってしまいそうな雰囲気を纏っている。
「あ、あの……私は」
「命の恩人殿が気を失っている間に、俺の屋敷へ運んだ。勝手をして悪かったな」
「そう、ですか。ご迷惑をおかけしました」
「迷惑をかけたのは俺だ。ここへ運んだことも含めてな。目の前で命の恩人殿が倒れたから、動転してしまったのだ。本当に申し訳ない」
男が深く頭を下げる。
釣られてミリアも頭を下げた。
それからミリアは、男に勧められるがまま小瓶に入った栄養剤を飲んだ。
ミリアが倒れている間に男が医者を呼び、その医者が栄養剤を置いていったという。
落ち着いたあと、ミリアは男と共に軽く食事を済ませた。
と言ってもそれは干し肉。疲れた身体で食べるものではない。
しかし屋敷に置かれていた食物は、いずれも保存食ばかりだと男が言った。
その答えにミリアは首を傾げる。
これほどに広く豪華な屋敷であるのに、どうもおかしい。
どこもかしこも汚れているし、酒場にある食べ物よりもひどいしと、色々と均衡がとれていない。
「命の恩人殿。改めて礼を言う」
埃の積もった一室で、男が丁寧に言った。
「そんなに大げさなことでは」
「なにを言う、命の恩人殿」
「そ、その命の恩人殿っていうのもやめてください。私は……ミリアといいます」
ミリアは苦笑いしながら自己紹介する。
男がはっとして、しばらく考え、「ミリア殿」と言った。
ミリアはすぐさま「殿はいりません」と答え、男に手のひらを向ける。
「……ミリア。そうか。……俺はノアという」
「……ノア、さん?」
「そうだ」
「……ドラゴン殺しの剣士と同じ名前ですね……?」
ミリアは首を傾げる。
まさかそんなはずは無いと思いながら。
「それは俺だ」
「……え??」
「ドラゴン殺しのノアと呼ばれているのは俺のことだ」
「……で、でもそのノアさんは女剣士で――」
「そういう噂になっているのも……知っている」
ノアががくりと頭を垂れた。
どうやら世間に女と思われているのが悲しいらしい。
ミリアは慌てて訂正しようとしたが、後の祭り。
ノアが元気を取り戻すまで、しばらくの時がかかった。
◇ ◇ ◇
妖精の剣。
ノアが背にしていた二振りの長剣の名だ。
世界にふたつしかなく、どんな金属で鍛えられているか判明していないという。
「ほ、本当に、これを??」
ミリアは裏返った声をあげ、半歩退いた。
「本当だ」
ノアが頷き、妖精の剣をミリアに手渡す。
受け取った剣はあの洞窟で手に取ったときと同様、驚くほど軽かった。
普通の鋼で出来ていればこれほどの長剣、男でも振り回せないだろう。
「剣の師匠になってくれと言ったのは君だ」
「でも」
「嫌なら、この剣も、剣の師匠という話も無しだ」
「もらいます!!」
ミリアは食いつくように妖精の剣を握りしめ、ノアに詰め寄る。
ノアが驚いた表情を見せ、すぐに笑った。
笑った顔も綺麗だなと、ミリアは思った。
そこらにいる美女よりも美しい。ドレスを着れば誰もが女だと思うだろう。
しかし口には出さなかった。
女のように見えることを、ノアが嫌っているからだ。ぐっと我慢する。
妖精の剣を受け取ってから、ミリアの剣の修行がはじまった。
「命を救ってくれた恩を返したい」と言ったノアに、「剣の師匠になってほしい」とミリアが願ったからである。
最初ノアは困惑していたが、条件付きで承諾してくれた。
『半年後に、新たなドラゴン討伐がある。それまでならば』
たった半年であろうと構わない。
憧れであったドラゴン殺しのノアが師匠になってくれる。
ミリアはそれが嬉しくて、誇らしかった。
あの日、討伐団を追放されていなければ、こんな幸運に巡り合わせることはなかっただろう。
剣の修行の次いで、ミリアはノアの屋敷に住みこむこととした。
それは居座りたいという気持ちからではない。
ノアが絶望的なほど生活力を持っていなかったからである。
ドラゴン殺しのノアは、基本的に剣以外に興味を持っていなかった。
衣食住については最低限。洗濯の回数は少ないし、食事も適当だ。
風通しの悪い屋敷には至るところにカビが生えている。
生きていられればそれでいいと思っている節があるノアは、いつ病気になって倒れてもおかしくない状態であった。
風邪と栄養失調により洞窟で倒れていたのも偶然ではなく、必然であったのだ。
「どうして使用人がいないんですか??」
「必要がないからだ」
「お金も屋敷も持っているのに??」
「全部魔獣討伐の報酬とか、国に貢献したさいに貰ったものだ。別に俺はそんなものたくさんは要らない。必要最低限で――」
「洞窟で倒れてしまうのは、最低限を満たしていませんよね?」
「う、ぐ……」
捲し立てるミリアに、ノアが圧倒される。
そうしたわけで、ミリアは半年の間剣の修行と、ノアの身の回りの世話、家事全般をこなすこととなった。
剣の修行中、ミリアは意外な才能を開花させた。
妖精の剣であれば、剣の達人も刮目するほどの剣技を繰りだせるようになったのである。
「ミリア。普通の剣ではこう出来ないのか?」
「出来ません。出来ていれば討伐団をクビになったりしません」
「……そうか。……間合いの測り方が独特なのかもしれないな」
「間合い?」
「普通の剣の長さでは、君の感覚と誤差が生まれてしまうのだろう。かといってそこいらにある長剣は重くて振れない。だからいつまで経っても剣の腕が上がらなかったというわけだ」
「それなら……!」
「そうだな。君はすぐに強くなれる。感覚の誤差も俺が直してやるさ。そのうちにどんな武器でも使えるようになるだろう」
ノアが自信あり気に言う。
その表情を見て、ミリアは飛び上がりたいほど嬉しくなった。
もうどうしようもないと思っていた暗闇に、確かな光が射しはじめたのだから。
◇ ◇ ◇
「男爵?? ノアさんが??」
驚きの声をあげたミリアに、ノアががくりと項垂れる。
どうやら貴族の爵位を持っていることも嫌であるらしい。
男爵位は以前ドラゴン討伐を果たした際に授与されたのだという。
屋敷もその時にもらったと、嫌そうな顔をしながら教えてくれた。
「……五か月後に控えているドラゴン討伐の軍議に行かなくてはいけない。あれは国の軍隊も動くからな。軍議の後に、男爵としてパーティーに顔も出す」
「すごいじゃないですか!」
「……軍議だけだったら、な……」
「パーティーは嫌ですか?」
「……見世物になったような気分を延々と味わうことになる。特に……」
「特に?」
「……女性からの、…………が、す、凄まじい……」
「あ、あー。……なるほど」
ミリアはノアを見て深く納得する。
これほどの美貌の持ち主なのだ。世の女性たちが放っておくはずがない。
しかもドラゴン殺しの英雄であり、報酬を貯め込んでいるせいで資産もある。
優良物件というわけだ。
「そうだ。ミリア。頼みがある」
「はい?」
「婚約者のふりをしてくれないか」
「はい????」
「残りの五か月間だけでいい。頼む」
「婚約者のふりをしてパーティーに出ろというのですか??」
「その通りだ」
「こんなみすぼらしい私を????」
ミリアは自分の胸に手を置き、「現実を見て」と問い詰めた。
ミリアは自分の容姿が優れていないことを自覚していた。
細身で、女性らしい肉付きもない。
ざんばらの髪に至っては手入れしたことなどなく、艶ひとつなかった。
「みすぼらしいと思ったことはない」
「お世辞は要りません」
「世辞ではない。そんなに言うなら試してみればいい」
「試す??」
ノアの言葉に疑問を投げかけたあと、嵐のような時間がミリアに襲いかかった。
これまでノアが蓄えてきた金が湯水のように使われていく。
様々な人々が屋敷に押しかけ、ミリアの隅々を磨きはじめる。
――こんなことをしても無駄なのに。
ミリアは最後の最後までそう思っていた。
しかしミリアの世話をする人々は皆、そう思っていないらしかった。
みるみるうちにミリアを見る目が変わり、やれ可愛いだの、人形のようだのと囃し立ててくる。
「なにを馬鹿な」とミリアは一蹴したが、すべてが終わった後に鏡を見て、息を飲んだ。
「……誰ですか、これ?」
自分ではない女が、鏡に映っている。
品の良いドレスを纏い、艶やかな金色の髪、透き通るような肌、宝玉のような瞳を持って、鏡面を飾っていた。
「世辞ではないと言っただろう」
「顔面に別の顔を貼りつけているのではないですか??」
「お、おい、せっかくの綺麗な顔をそんなに擦るな」
「この顔が、私?? 冗談でしょう??」
「間違いなく君だ」
ノアが満足げに言う。
何かの間違いだと、ミリアはもう一度自分の頬を擦った。
慌ててノアがその手を止める。
頬にかすかな痛みを感じた。
鏡の前にいる女も、自分と同じように擦った頬を赤くしている。
その夜のパーティーは、大騒ぎになった。
あのドラゴン殺しの美男が、天女のごとき美女と婚約したと。
ノアに恋い焦がれていた女たちは皆、悲鳴をあげた。
見目麗しいミリアの登場に、男たちは沸き立った。
十日もすれば、ノアとミリアの噂は城中にとどまらず、国中に広まった。
ドラゴン殺しの女剣士ノアは、実は男だったと。
そのノアには、妖精のごとく可憐な恋人がいると。
「良かったですね。世間に男性と認知してもらえて」
ミリアは虚空を見つめ、声をこぼす。
「すまない。まさかこれほど大事になるとは思わなかったのだ」
「まあ、婚約者のふりを引き受けたのは私ですし。ノアさんだけのせいではありませんから」
「そう言ってくれると助かる」
「でも少しは責任を取ってもらいますけどね」
「どんなだ」
「考えておきます」
大きなため息を吐くミリア。
居心地が悪そうにしているノア。その様子もまた絵になるなと、ミリアは苦笑いした。
噂が広まってからというもの、ミリアは自らの身だしなみにも多少気を遣うことにした。
噂に長大な尾ひれがついているためである。
この時期にミリアが適当な格好をしていれば、ミリアに対してだけでなく、ノアの悪い噂も流れてしまうだろう。
剣の師匠であるノアを針の筵に座らせるわけにはいかない。
そうして時が流れていく。
いつしか、ノアに恋人ができたというだけの噂は、「ノアの右腕」とか「妖精剣の女騎士ミリア」などの言葉を加え、広まっていった。
◇ ◇ ◇
軍港にて。
多くの人の視線が集まる中、痴話喧嘩が繰り広げられていた。
「半年の約束だったろう!?」
群衆の中で、ノアが大声をあげる。
その声が飛ぶ先に、ミリアの姿があった。
「半年、剣の修行に付き合うという約束だった。そうだろう?」
「そうですが」
「俺はドラゴン討伐へ行く。ミリア、君とはここでお別れだ」
「いいえ、私も行きます」
「ダメだ」
「行きます」
「ダメだと言っている!」
ノアの声に力が増す。
あまりの威圧感に、取り巻いていた群衆が恐れおののいた。
しかしミリアはぴくりとも動じなかった。
ドラゴン討伐に付いていこうとすれば、必ず反対されると分かっていたからだ。
しかしミリアの意志は固かった。
憧れているとか、弟子として慕っているとか、それだけの想いではないからだ。
「責任を取ってもらうという、約束でした」
笑うようにミリアは言った。
「責任」という言葉に、ノアの肩がぴくりと揺れる。
「責任だと?」
「恋人のふりをした、責任です」
「俺だけのせいではないと、言ったじゃないか」
「ですが、もう“ふり”だけではすまないくらい、噂が広がってしまいましたね」
「う、ぐ」
ノアが言葉を詰まらせる。
その様子を見て、ミリアは小さく笑った。
「ダメとは言わせません」
ノアの手を取り、ミリアは軍船へ駆ける。
二人の背には、対となる長剣が一本ずつ背負われていた。
その剣が、駆ける足に合わせて凛と鳴る。
ドラゴン殺しのノアと、妖精姫ミリア。
ふたりが作り出す伝説は、ここからはじまる。
ドラゴン殺しと妖精姫 遠野月 @tonotsuki
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