第5話 ハイラム・サングスター
私は2つのカップアンドソーサーを両手で持って立ち上がったが、集中した女性社員たちの視線は、昨日の昼程に多くはないようだ。
オフィスに入ると、またスコット・グラハムが寄って来る。
「お早う、今日も元気そうだな」
「元気そうだな、じゃありませんよ、先輩。また秘書の彼女と話してたそうじゃないですか。先輩は今や女性社員たちの注目の的なんだって言う自覚あります?ヤバいですよ、マジで」
「その自覚はある程度あるよ。だが女性社員たちの興味に忖度しなきゃならない必要は感じないね。私と彼女は今やパートナーとして一緒に仕事をしてるんだ。私がこのゲーム大会に参加して勝ち進むことは、私と彼女のこの社内での業務の一つとして、社に承認されている。今度誰かに何かを訊かれたり言われたりしたら、こう言ってくれないか、スコット? 彼らは仕事をしているんですよ、ってね」
「分かりました。お早うございます。先輩」
「お早う、スコット。今日も良い日にしようぜ」
午前中の業務は、順調に進んだ。今日中での処理・送付が必要であった業務は、10:00迄には終わり、先行しての業務処理に入っていく。
これも私がこのゲーム大会で艦長に選ばれたおかげ(せい)なのだろうが、私を指名しての製品発注・部品発注・業務発注・業務委託の依頼が、それぞれ今週に入ってから10件程入っている。
昼休みに入ると私は一旦1階のラウンジに降りてコーヒーを飲みながら一服ふかし、手と顔を洗うと階段で2階に上がってリフトで9階に向かう。
スカイラウンジに入ると、直ぐにウェイターが私に付いて案内してくれる。
彼女はもう、ラウンジ窓際の席で待っていた。
「お待たせしました。ちょっと時間を潰していましたので」
「大丈夫です。そうだろうなと思っていました」
彼女はそう言いながら微笑む。私は彼女の対面に座ると、今朝彼女から預かったメディア・キーホルダーを内ポケットから取り出して彼女の前に置いた。
「この中に入っていたデータは、総て私のクラウドスペースに移して保存しました。中のデータはそのままにしてありますが、それに加えて土曜日朝の待ち合わせ場所と、私が考えた乗員の艦内配置案も入れて置きました。艦内配置案についての貴女の意見を伺いたいので、メッセージでも通話でも、いつでも構いませんのでお願いします。あと、これらのデータは上に挙げて貰っても結構です。宜しいでしょうか?」
「分かりました。よく読ませて頂いてから、後でお伝えします。すぐに返して頂いて、ありがとうございました」
そう言いながら彼女は大事そうにメディア・キーホルダーを内ポケットにしまう。
「いえ、こちらこそ、ありがとうございました。お腹空きましたね、注文します」
そう言ってメニューを開いた。
この前常務達と食べたような定食風の日替わりランチにしようかとも思ったが、日替わりコース・ランチにした。あまり変わらないか。ウェイターを呼んで伝える。
彼女はランチボックスの包みを開く。可愛いが栄養的にもバランスがとれているように観える。最初のスープが運ばれてくる。
「今日もハーブティー?」
「はい、お昼はいつもこれです」
「もしよかったら、後で一杯貰っても良いですか?コーヒーは好きですけど、いつもだと流石に飽きるから」
「良いですよ。そう言われるかも知れないと思って、いつもより多めに淹れてきました」
「そうなんですか。ありがとう。あ、ここの払いは僕が持ちますから、何でも好きなものを追加して下さい。僕もここで食事するのは、これで2回目なんで」
「大丈夫です。私はいつもこれで充分なので。それにここでの支払いは、既に経費と言う事で処理が済んでいますので、追加されても大丈夫ですよ」
「え、これも業務上の必要経費として認められるのですか?それは流石に少し、プレッシャーかな」
「大丈夫です。それだけ会社が私達の共同業務をビジネスとして承認していると言う事です。仕事をしているだけですよ。私達は」
「そうですね。その認識を実感として持てれば、心強いですね」
前菜を食べ終えたのでウェイターを呼んで主菜を頼む。ついでにカップを一つ頼んだ。
「アドルさんは単身勤務になられて、どれぐらいなのですか?」
彼女は赴任とは言わなかった。本社勤務だから赴任とは言わない。知りたければ私の人事ファイルを視れば判るのだが、彼女のアクセス権限がどの程度のレベルなのかも分からないし、ちょっと個人的な情報の範疇だなとは思ったが、気にしない風を装った。
「18ヶ月目に入りました。当時の娘の学業の状況が、転校を強いるには厳しいと判断しましてね」
主菜が来たので早速取り掛かる。ジンジャーエールも頼んだ。
「奥様とか、お嬢様の方に、報道関係者からの接触はありましたか?」
「ええ、ありました。でも広報の方から、ひどくなる前に色々とアドバイスして頂いて、それに従って対処・対応は済ませましたので、今は安心しています」
その後は話が続かなかった。30秒に1回位眼が合って、お互いに微笑んだりしていたが、何も話題には上らなかった。そして、お互いに食べ終えた。
厨房のシェフが気を利かせたのか、ウェイターがプディングとアイスクリームを2つずつ持って来る。
「こちらは、私達からのサービスです。頑張って下さい。」
「ありがとう」
苦笑いしながら応じたが、知れ渡っているなあと改めて思う。
「9階から観ると、良い眺めですよね。なかなか気付きませんが」
「本当にそうですね」
プディングとアイスクリームも食べ終えて、ナプキンで口を拭うと落ち着いた。
「それじゃあ、そろそろ特製ハーブティーのご相伴に与りましょうかね?」
そう言って私は、空のカップをリサさんの前に置く。彼女は保温ポットを取り出すとカップを外して先に私のカップにハーブティーを注いでくれる。
「ありがとうございます。昨日のものとは少し色合いが違いますね?」
「ええ、母が毎日違うブレンドを試していますので」
「それじゃ、リサさんの好みに合わないブレンドになってしまう事もあるんですか?」
「そうですね。10日に1回位は、そんな感じのブレンドに当りますね」
「そうなんですか。それじゃ、頂きます」
私はカップを両手で持つと、先ずはゆっくりとハーブの香りを堪能する。
「とても個性的なブレンド・フレーバーですね。勿論ですが、初めての香りです。にしても、食後に楽しむお茶の香り、と言う感覚ではありますね」
そう言うと口を付けて二口飲み、カップをテーブルに置いて味を確認した。
「個性的で不思議な味ですね。でもやはり食後に楽しむお茶と言う感覚の味です」
彼女も自分のカップにハーブティーを注ぎ、両手で持ち上げて香りに感じ入っている。
「うん、今日の方が昨日のものより香りでは、私の好みに近いですね」
そう言ってゆっくりと飲み始め、3分の1程飲んだところでテーブルに置いた。
「味は、昨日のものとあまり変わりませんね。でもどちらも私の中では好みの範囲内です」
そう言って微笑むとまたカップを持ち上げる。
2人とも7分程掛けてお茶を飲み終えた。尤も私が一杯を飲み終えるまでの間に、リサさんは2杯を飲み終えたが。
カップをポットに装着させるとランチバッグに保温ポットをしまい、非常にスッキリとしたように観える表情で彼女は両手をテーブルに置く。
「今日もお昼をご一緒して頂きまして有難うございました。ご馳走様でした」
「こちらこそ、付き合って頂きまして有難うございました。ご馳走様でした」
「お預かりしましたものは、じっくり吟味させて頂きます。私からの感想とか意見は、早めにお知らせした方が宜しいですか?」
「いえ、ゆっくり吟味して貰って、じっくりまとめて貰って、手の空いている時で結構ですよ。何時でも大丈夫です」
「分かりました。それではこれで失礼させて頂きます。楽しい時間を過ごさせて頂きまして、有難うございました。次にお会いできるのは土曜日の朝ですね。宜しくお願い致します」
そう言うと彼女はランチバッグを左腕に掛けて立ち上がり、会釈してスカイラウンジから出て行った。
私は隣のテーブルからピカピカの灰皿を取って眼の前に置くと、一服点けた。
この時スカイラウンジにいたのは自分も含めて5人だけで女性社員はいなかったし、4人とも面識の無い人だった。
昼休みが終わる5分ぐらい前に9階から降りて自分のオフィス・フロアに戻ったが、スコットも含めて誰も私に声を掛けない。
その日の午後の業務も順調に推移し、私は残業する事も無く定時で退社した。
ちょっと考えたが買い物には昨日行ったので、今日は何処にも寄らずに社宅のガレージにエレカーを滑り込ませる。
家事・雑事・夕食・入浴を済ませると私は、また乗員の艦内配置案の策定に取り掛かる。
艦内の配置は、メイン・スタッフで考えれば15人。
艦長(私)副長、参謀、カウンセラー、機関部長(チーフ・エンジニア)、観測室長、メイン・センサーオペレーター、メイン・パイロット、砲術長、メイン・ミサイル・コントローラー、補給支援部長、保安部長、生活環境支援部長、医療部長、食堂・メインシェフ・・と言う事で良いだろうと思う。
医療部長と食堂のメインシェフは専門知識と高度な経験や技術が必要だろうから、ゲーム大会の運営本部から人事が指定されるだろう。
サブ・スタッフとしては、参謀補佐が1人、副機関部長が1人、主任機関士が2人、機関部員が7人、副観測室長が1人、観測スタッフが3人、分析スタッフが2人、サブ・センサー・オペレーターが2人、サブ・パイロットが2人、副砲術長が1人、砲術コントローラーが2人、対空砲コントローラーが2人、サブ・ミサイル・コントローラーが1人、ミサイル・オペレーターが2人、対空ミサイル・オペレーターが2人、副補給支援部長が1人、補給支援スタッフが3人、副保安部長が1人、保安部員が7人、副生活環境支援部長が1人、生活環境支援スタッフが2人、医療室スタッフが3人、食堂セカンド・シェフが1人、その他、様々な局面で様々な部門を適宜に補佐するサポート・クルーが3人と言う事にして、艦長である私を含めて総員で、68人と言う事にした。
随分大人数になるが、これ以上人数を削るのは厳しい。軽巡宙艦内部の生活空間がどの程度の規模なのかまだ判らないのが難点だが、少しでも快適なものであるよう祈るとしよう。
翌日(1/29:木)は、冬晴れだった。空が高い。
業務は実に順調に進む。進み過ぎているようなきらいでもある。今は私自身のネームバリューと言うものもあるようで、私を指名しての取引の申し込みが日を追う毎に増えている。
チーフ・カンデルから15:28に連絡が入り、この件に関して私を指名しての新規顧客は、別のカテゴリーで括るようにと指示された。複雑な想いでもあり、感覚でもあり、感情でもある。事態の推移を静観するしかない自分自身がもどかしいと思うし、そう感じてもいる。
定時まではオフィスにいたが、16:08からはメッセージの文面を作成していた。
ゲーム大会の番組制作サイドに宛てたもので、土曜日は8:30に2人でそちらに伺うと言う事と、私が考えたメイン・スタッフとしての乗員配置案を伝えるものであり、このスタッフメンバーとして私が選んだ女性芸能人の皆さんとは、大会が始まるまでの間に全員、面談の機会を得たい、と言う趣旨のものだった。
16:45にこのメッセージを番組制作サイドに送信した私はリサ・ミルズにも宛てて、今送信したメッセージの文面を添付してこんなメッセージを送信しましたと言う事と、土曜日の朝には番組制作現場の撮影施設に程近いカフェで7:30に待ち合わせして朝食を摂り、8:30に撮影施設に入りましょうと書き添えて送信した。
定時となり、周りのメンバーと挨拶を交わし合いながら帰り支度を始める。
自分のデスク上の整理整頓と帰り支度を終えて、最後にメッセージチェックをする。
彼女からの返信を期待していた自分に心中で苦笑しながら立ち上がるとスコットに声を掛けてオフィス・フロアを出た。
サブスタッフの乗員配置案はまだ固まっていないが気分転換したい。カフェかレストランか、夕食にはまだ早いが帰宅してから再度出掛けるのも面倒だ。さて、どうするかな?3ヶ月前にスコットと連れ立って一度だけ入った事のある郊外にあるお洒落な感じのカフェダイナーを思い出して、そこに行くことにする。
3回ほど渋滞に捉まったが、45分ほどでその店のパーキングに滑り込む。
中に入ると奥の隅に人が集まっている。15.6人程だろうか。何かの宴会かな?
ウェイターに1人であることを告げて案内して貰う。
飲み物は甘くないソーダで、ロースト・ダックのセミ・コース・ディナーを頼んだ。
私の顔はある程度割れていると思うので、最近携行している伊達眼鏡を掛ける。
隅の人だかりと私のテーブルとの距離は、そんなに近いものではないが切れ切れに聞こえてくる言葉の断片で、どうやら有名人の周りをファンの人達が取り巻いているようだ。
聴き耳を立てるのも失礼だし、スープと前菜に摂り掛かろう。携帯端末にメッセージが入った。視るとリサ・ミルズからだった。
(メッセージは拝見致しました。土曜日朝の待ち合わせ場所と時間については了解です。エリック・カンデル・チーフ・ディレクターから要請があり、明日の10:20に営業本部・営業2課・第3会議室に来て欲しいとの事です)と、あった。
携帯端末をバッグにしまうと、また食事に戻る。が、視線を感じる(マズいか?)方位は2時。視界の端に入れて視ると、向い合って座る2人の女性客が話しながら時折こちらを観ている。比較的に目端の利く人のようだ。
これ程早い段階で気付かれるとは思わなかった。話し掛けられる前に食事を済ませて帰りたいが、微妙な状況だ。
件の女性客がウェイターを呼んでこちらを観ながら話をしている。いよいよマズい。平静を保たねば。ウェイターが女性客に何かを言われてこちらに来る。ダメか。
「お客様、お食事をお楽しみの所を失礼致します。あちらのお客様方からアドル・エルク様に、同じブランドで同じヴィンテージのポートワインをボトルで進呈致したいとのお申し出がございました。宜しければ直ちにお持ち致しますが、如何致しましょう?」
ナイフとフォークを置いて伊達眼鏡を外してナプキンで口を拭った私は、2人の女性客に対して笑顔で会釈を反すと、そのままの笑顔でウェイターに顔を向ける。
「あちらのお客様方にお伝え下さい。大変に嬉しいお申し出に感謝申し上げます。ですが今日は車を運転して来ておりますので、アルコールは控えなければなりません。お申し出は、お気持ちだけ有難く頂戴させて頂きます。が、宜しければ折角ですのでお近付きの印に私から同じワインを進呈させて頂きますので、どうぞ食後のお時間をお楽しみ下さいと」
ウェイターは黙って笑顔のまま一礼をすると退がった。
2人の女性客にもう一度笑顔で会釈すると食事を再開する。
サラダとメインディッシュとライスが運ばれて来たので、本格的に取り掛かる。
ウェイターが件のワインをボトルで持って来て2人の女性客に進呈すると、2人とも笑顔一杯で喜びを爆発させた。
内の1人がワインボトルを手に、こちらに歩いてくる。慌てて口を拭って笑顔を作る。
「初めまして、アドル・エルクさん。私はアグネス・アーバーと申します。初めてお見掛けした方に不躾な申し出をしましたのに、こんなに素敵なお返しを頂きまして、本当に有難うございます。あの、ゲーム大会では頑張って下さい。私達は二人とも応援していますので、それでもし宜しければ、このボトルにサインを頂きたいのですけれども宜しいでしょうか?」
そう言ってボトルとホワイト・マーカーを差し出して来た。
「こちらこそ、初めまして。大丈夫ですよ。そして、有難うございます。お二人に応援して頂ければ百人力です。サインですか。あまり上手くはないのですが、セルフィー撮影は遠慮させて頂いておりますので、サインは頑張ります」
そう応えながらボトルとマーカーを受け取り、サインを記して返す。
アグネス・アーバー女史は満面の笑顔で、3回お辞儀をしながら自分の席に戻って行った。
やれやれ、これでやっと食事を片付けられるかな。
そう思って再度食事の残りに取り組み始めたのだが、別の視線があの隅の人だかりの方から私に当てられているのを感じた。そして発せられた言葉が。
「アドル・エルクがいるの?」
「ちょっと開けて」
その言葉で人の環が開き、テーブルに座っている人が私の視界に入り、その人と私の視線が合った。私でも直ぐに判る。ハイラム・サングスター54才。
彼も私を確実に認識したようで、お互いにフォークとナイフを持ったまま、ちょっとぎこちなく、少し上目遣いに会釈した。
彼の周りにいた2人の女性が時間差で私に向かって歩み寄ろうとするのを、彼は注意して制した。2人とも私の顔を睨みながら渋々彼の周りに戻る。
これはどうも穏やかじゃないらしい。同じゲーム大会に参加する者同士、同じ艦長役でもあるし、初顔合わせだから挨拶ぐらいはしておくべきだろうとも思うが、その機会はまだこれからもあるだろう・・今は食事を済ませて失礼するとしよう。
サングスター氏の周りにいる人達は、変わらずチラチラと私を観ている。
サングスター氏が時折あまり観ないように注意しているが、少し経つとまた視線が私に当り始める。お世辞にも居心地が良いとは言い難い。
ようやくメインディッシュを片付け終わったぐらいのタイミングで、デザートのプディングとコーヒーが運ばれて来たのには助けられた。もう少しだ。
長身の若者が何やら急いでいる様子で入って来た。
直ぐにサングスター氏と取り巻いている人達のグループを認めると、足早に歩み寄る。
先程私に歩み寄ろうとした2人の女性が若者に何か二言三言告げると、その青年は顔を険しく強張らせて振り向き、大股に歩み寄って来た。
「おい!お前一体何のつもりで!」
「マイケル! 止まれ!! 」
「でも、父さん!」
「いいから、止まれ!マイケル! 戻れ! 」
立ち上がって青年を鋭く制し、自分の方に戻させるサングスター氏。
勿論驚いたが取り乱すまでには至らなかった事に内心の一瞬で安堵し、私の顔を睨みながら渋々戻って行く若者を見遣りながら想う。
(あれが息子か)
若者が人の環に戻るとサングスター氏はグラスの水を一口含んでナプキンで口を拭い、席を立つと身なりを整えてその場の人達にここにいるように告げると、私に向かってゆっくりと歩み寄って来る。
私も口を拭うと立ち上がって居住まいを正す・・同じ艦長同士のファーストコンタクトは、意外な形での顔合わせだった。
先程サインボトルを渡したアグネス・アーバー女史とお友達の女性が、満面に驚きの表情を浮かべてこちらを凝視しているのが判る。
サングスター氏は私から見てテーブルの右斜め前で立ち止まると会釈した。
「初めてお目に掛かりますが、ハイラム・サングスターと申します。食事をお楽しみの所、お邪魔してしまい、あまつさえ私の息子が大変な失礼をしてしまいまして、誠に申し訳ありませんでした。この通り、お詫び致しますのでお許しを頂ければ幸いに思います。お好みに合うかどうかは判りませんが、これは私からの細やかなお詫びの印として、また、初めてお会いできたご挨拶として進呈させて頂きます」
そう慇懃に謝絶と挨拶を告げて30°に腰を折ったサングスター氏は、スーツの内ポケットから地味だがしっかりとした造りのシガレットケースを取り出すと、テーブルに置いて蓋を開いた。
中を観ると一見して上物と判る細身のプレミアム・シガーが5本並んでいる。
「こちらこそ、このような形で初めてお会いしましたが、アドル・エルクです。初めまして。ご丁寧な陳謝とご挨拶を頂きまして、私からも謝意を申し上げます。何やらご事情がおありと推察致しますので、謝意はお気持ちとして頂きます。お気になさらずに。私も喫煙者ではありますが、このような高級品を初めてのご挨拶で頂くのは気が引けますので、どうぞお戻し下さい。私は一向に気にしておりませんので」
そう告げて私も少し深く会釈した。
サングスター氏はシガレットケースを蓋を閉めずに手に取ると、そのまま私に差し出して言う。
「貴方の今のお言葉を伺って、ますます受け取って頂きたいと思いました。どうか一本だけでもお取り下さい。ゲームの中で出会えば戦う事になるのでしょうが、外でなら友誼を結んでも構わんでしょう。私からのお近付きの印として頂いても結構ですので。どうぞ、お取り下さい」
ここで重ねて断ったりしたら、私から関係を悪くする事になるだろう。
「そこまで仰って頂けるのを無下にお断りする事も出来ないでしょう。それでは、お近付きの印として一本だけ、有難く頂戴します。改めまして、アドル・エルクです。これから宜しくお願い致します」
右手でシガレットケースから一本だけを丁寧に取り上げ、軽く掲げてから内ポケットに収めると、右手を差し出してそう言った。
「ご丁寧に有難うございます。こちらこそ、宜しくお願いします」
サングスター氏はシガレットケースを内ポケットに戻してそう応じると、私の右手を笑顔で力強く握った・・アグネス・アーバー女史がこの瞬間を撮影していた事は後で知った。
「今はこれ以上お邪魔するのも無粋ですし、当方も関係者がおりますので今夜はこれで失礼させて頂きます。また後日にお会いしてご挨拶できることもあるでしょう。それまで、何かありましたらこちらにお願いします」
そう言ってサングスター氏は、自分のメディアカードを内ポケットから取り出してテーブルに置くと会釈した。
「ご丁寧に有難うございます。こちらは私の連絡先になりますので、何かありましたら宜しくお願いします」
私も少し慌てて自分のメディアカードをバッグから取り出すと、彼の直前のテーブル上に置いてそう応じ、軽く頭を下げる。
造り笑顔だったのかも知れないが軽く頷くとサングスター氏は右手で私のカードを取り、踵を反して自分の席に戻って行く。
深い息を一つ吐いて座る・・食べ掛けのプディングを片付けて冷めたコーヒーを飲み干す。
彼のカードを取って内ポケットにしまい、口を拭うとバッグを手に立ち上がる。
アグネス・アーバー女史と彼女のお友達に向けて左手を軽く挙げると振り返らずにフロアーを後にし、会計を済ませてレストランから出た。
これから一人で外食するのは考えた方が良いかも知れない、とそう思いながらエレカーに乗り込んでスタートさせる。今夜の事はリサさんに伝えた方が良いな。
社宅迄の帰路、ハンズフリーでリサさんの携帯端末に通話を繋ぎ、レストランでの顛末を説明する。
今後一人で外食に出る事については、その都度考慮して対応を決めるべきだろうと言う考えには、彼女も賛成してくれた。
ハイラム・サングスター氏と偶然ながら大会開始前に会えて、連絡先も交換できたと言う事については結果的には良かったし、彼の人柄にも触れられた事は良い経験になったと言う事で、この点でも意見は一致した。
彼が現在直面しているであろう『事情』については、可能な範囲内で調べてみてくれるそうだ。
社宅への帰着迄後5分ほどと表示されたので、明日会議室での再会を約して通話を切り上げる。
帰宅した私は、先ずベランダに出て一服点けて喫い、着換えて雑事を片付けてからゆっくりと入浴して上がると時間を掛けてコーヒーを淹れ、ゆったりと座って薫りを楽しんだ。
思い立って上着の内ポケットからサングスター氏のメディアカードを取って来ると、私が所有している総ての端末の連絡先に追加した。
その後自分のクラウドスペースにアクセスしようとしたが、ニュース・ネットワークが私の名前を報道していると通知したので、何だ? と思って表示させると私とサングスター氏が握手している画像が報道されている・・。
「あ??(これは何だ?握手はしたな、写真は)はっ!(彼女か、何でまた)」
思い至ってアグネス・アーバー女史を検索してみると、彼女のSNSアカウントは直ぐに見付かり、彼女がアップしたこの画像に寄せられる反応が物凄かった。
彼女がネットワークメディアに売り込んだのか、メディアが彼女に取材したのか、までは判らなかったがメディアによる報道が拡散を爆発させた事は疑いない。
(これは緊急事態だな)そう思った私は携帯端末を取り出すとリサ・ミルズに通話を繋いだ。
「あ、もしもし、今晩は。私です。夜分にすみません。ええ、いえ、ニュースは観ました?ええ、あの前にサインボトルを渡した女性が撮影したようです。ええ、はい。その時は気付きませんでした。それでですね、メディアからの取材の申し込みが社に入るだろうと思いますので。ええ、はい。常務の方に連絡を、ええ、お願いできますか?ありがとうございます。よろしくお願いします。それじゃ、また明日に。ええ、はい。おやすみなさい。それでは」
こちらから通話を切ったがまた直ぐに外から繋がった。スコットだ。
「もしもし、ああ、俺だよ。ああ、今観てる。ああ、以前にお前と行ったダイナーだよ。覚えてるか?ああ、何?偶然に遭ったんだよ!何言ってるんだよ!連絡先なんか知らなかったよ。今は知ってるけどな。ああそう。交換したからさ。あ?そう、いや、挨拶しただけで特に何も話してないよ。ああ、いや、撮られたのは気が付かなかったよ。ああ、先にその人が俺に気付いてさ。話し掛けられて相手して、ワインボトルにサインしたんだよ。え?、いや、気分転換に外で飯でも食おうと思っただけだよ。ああ、これから外に出る前には考えようと思っているよ。あ?何?いや、挨拶しただけだからどんな人かなんて判らないよ。え?印象?ゲームの中で出遭えば手強いだろうなとは思ったよ。ああ、じゃあ、もう良いか?明日も話せるからさ。それじゃあな、お休み」
通話を切って端末を放った。疲れる。両手の指で頭を少し揉んだ。もう一杯コーヒーを淹れようか。それとも一服点けようか。ああ、彼から貰った一本が有ったな。思い出した私は、上着の内ポケットからそれを取り出して鼻先に寄せる。
さすがにプレミアムシガー。馨る芳香を確認するだけで少し落ち着く。端を1ミリだけ切って点ける。一服吹かし、燻らせ、薫りを楽しみ、喫う。3服で大満足した私は、丁寧に火種を外し2ミリ切り捨てて手近な小箱にしまった。またお世話になるだろう。
水を飲み洗顔し改めて自分のクラウドスペースにアクセスする。
リサ・ミルズが集めてくれた艦長たちのデータを読み進めながら、クルー候補者女性芸能人名簿と彼女達の特殊スキル経歴データを開き、配置案の上では空席になっているサブスタッフの艦内配置を決めていく。
別に今日中に空席を総て埋める必要はない。
6人の配置案を決めたところで切り上げて保存する。
艦長たちのデータを一通り読了したが、これを読む限りで艦長たちの中に特徴的で警戒すべき思考傾向や行動傾向を有していると観られる、パーソナルキャラクターは読み取れなかった。
ゲーム内の戦場でいきなり遭遇した場合に、最初の思考や行動に何か認識しやすい傾向が読み取れればと思って読んでいったが、顕著に特徴的なものは観受けられない。
まあ艦の指揮は艦長だけでするものじゃないからな。
艦長たちのキャラクターより彼等が揃えるメイン・スタッフ達のキャラクターとか、思考や行動の傾向が当該艦の操艦や艦の行動に、重きを示すようになるのだろう。
だが各艦のメイン・スタッフが誰になるのかは、ゲーム大会が始まってリアリティ番組が始まらなければ判るものでもないだろう。
ゲームの戦場で遭遇した時に、相手艦の情報がどこまでダウンロードできるのかについてなどは、今考えても意味が無い。
無益で無意味で無駄な思考だ。
久し振りに20年もののモルトウィスキーのボトルを取り出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます