彼女が遺した夏
山崎ぺぺ
第1話
①
あの日は夏だった。
突き刺さるような日差し、アスファルトの灼ける匂い、シャワシャワと鳴く蝉の声、地面に広がる血溜まり、むせ返るような生臭さ。
嫌になるほど鮮明に覚えている情景。
その中心で彼女は、たった一言を残していった。
「ありがとう。」
②
人口は約三万人。私達が暮らすこの町は、都市近郊ではあるが目立った産業も無く、ベッドタウンとして開発が進められてきた、特筆すべき所のない平凡な町だ。
強いて挙げるとすれば、緑が多い事くらいだろうか。
ただ、一つだけ、世界中で唯一の異常な点がある。
この町では毎日、季節が変わる。
法則性は無い。春がきたから次は夏とは限らず、唐突に冬がやってきたりもする。かと思えば秋へと退行したりもする。いや、退行というのも正しくない。この町にとっては、季節はもはや進むものですら無かった。
彼女を初めて知ったのは、七月の最初の冬、駅のホームだった。冬だというのに、彼女は半袖のセーラー服を纏っていた。それだけで周囲からは浮いていたが、長く絹のように美しい黒髪が、より一層目を引いた。
その日は夏休み──といっても、夏とは限らない──の最中だったが、学生服姿の人間も時折見かけ、決して珍しいものでは無かった。
補修、夏期講習、部活、理由は様々だろう。かくいう私も夏期講習に向かう、その一人だった。
ただ、その中でも彼女は異質だった。
カバンの類を持っていなかったのだ。手荷物の一切をどこかに置いてきたかのような、そもそも最初からなにも持っていなかったようにも思えた。駅のホームにいる以上、大多数の人間にとって電車に乗る事が目的であろうはずが、彼女はそれも持ち合わせていない様に見えた。
彼女に目を奪われていると、待っていた電車が到着のメロディと共に駅にやってきた。
電車から降りてくる人と乗車列の集団の向こうに消えていった彼女が、何故だか心の隅から消えなかった。
③
彼女との再会は、案外すぐにやってきた。再会とはいっても、こちらが一方的に知っていただけだったが。
夏休みが終わり、新学期に入ってから幾ばくかが過ぎた、秋の日だった。
いつものように通学路を歩き、駅へと向かう道の途中に彼女はいた。
川を見ているようだった。歩道の脇、雑草が茂る場所に立ち、フェンス越しに遠くへと視線を向けていた。
何を見ているのか、無性に気になった。以前目にした時同様、荷物も持たず、半袖を纏った彼女は学校に行く素振りも見せずに、ただ遠くを見つめていた。
「何を見ているんですか。」
つい、好奇心が喉をついて声が出てしまった。
彼女は少しだけ首を回し横目に私の事を確認すると、また川の方を向いた。
話しかけるべきじゃなかったか、と後悔しかけたその時、彼女から答えが返ってきた。
「遠く。」
そうですか。遠くを見ているんですか。見ればわかりますよ。そう言いたかったが、彼女の雰囲気がそれを許さなかった。
「遠くに何が見えるんですか。」
続けて質問してみた。なんだかここで退散してしまうのは、悔しいような惜しいような、そんな気がした。
「何も見えないから、見ようとしているの。」
さっぱり意味が分からなかった。彼女の目には何が映っているというのだろうか。いや、何も映っていないのか。
何を言えばいいのか分からずまごついてる私を、彼女は再び横目で一瞥し、こう発した。
「あなたには見える?」
なんだこの問答は。とんちでもやっているのか。
抽象的な、ふわふわとした言葉を返してくる彼女に少しの不安と苛つきを覚え、皮肉を含んでこう返した。
「見えますよ。川の向こうの商店街もアパートも、人の顔さえ見えますよ!」
どうだ、なんと返してくる。
「そう、すごいね。」
拍子抜けだ。また不思議な言葉が降ってくると思いきや、素直なお褒めの言葉だ。
彼女のペースにすっかり呑まれた私は諦め、会話を続けてみる事にした。
「学校には行かないんですか。」
「行かない。」
「じゃあ帰るんですか。」
「帰らない。」
「じゃあ、ずっとここに居るんですか。」
「それもいいかもね。」
呆れた。これ以上なんの意味もない問答を繰り返していてもしようがない。さっさと駅へ向かおう。
そう思いため息を吐いて顔を上げた瞬間、彼女が前に立っていた。
驚いて後退りした私と更に距離を詰めた彼女は私の顔をじっくりと眺め
「あなたは幸せそうね。」
と言い、どこかへ歩いて行ってしまった。
一体、なんだったんだ…。数分間、ドキドキと鼓動が早まった心臓の辺りを抑えながら、彼女が去っていった方を見つめていた。
落ち着いてからスマートフォンで時間を確認すると、間も無く遅刻しないギリギリの電車がやってくる頃だった。急いで駅の方へと走りながら、彼女のことを考えていた。
あれ、そういえば、この辺にセーラー服の学校は無かったような…。まあ、いいか。
彼女が遺した夏 山崎ぺぺ @yamazaq
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