第8話 姉のところへ逃げ出す
私は半日で娼館を抜け出した。
娼館では結局、チェスをしただけだった。
「あんたが家に帰らなければ、あんたの旦那さんはあんたが娼館にいるものと思うだろう。一週間の予定だから、その間に好きなことをする時間が出来る」
「娼館に迷惑では?」
「それはない。前金でもらっているし、あんたの旦那さんの理屈で行くと、あんたは男狂いだ。娼館に喜んで入りびたりになるはずだ。したがって、娼館側はあんたを逃がすな、なんて命令を受けているわけがない」
私は人に迷惑を掛けないで何とか生きていこうと思っていた。だけど、今回ばかりはダメだ。
私は両親と絶縁している二番目の姉のところを目指した。
「まさか。トマシン?」
姉の屋敷は割と近くだった。
馬車代はリオンが貸してくれた。
お客の私が、お金を借りるだなんて話がおかしいけど、仕方なかった。それに、リオンが貸してやると言ったのだ。
「お姉様!」
姉はあまり変わっていなかった。一目でわかった。
両親は男爵家と見下していたけど、屋敷も立派だったし、見かけた使用人も良さそうな人たちだった。
姉は何かあったことを察したらしく、すぐに家に入れてくれた。
義兄の男爵は法務の仕事に就いていて、昼間は留守だった。
「心配してたのよ。あんなスノードン侯爵なんかと結婚させられて」
「え?」
スノードン侯爵#なんか__・__#?
「なにが、え?なの? 愛人のルシンダとか言う女の言うなりじゃないの。ルシンダは、本当に卑しい生まれで、そう、生まれの問題だけじゃなくて、人間が卑しいのよ。侯爵の前では上品ぶってのかも知れないけど、他じゃ酷いものよ! たまに社交場で見ることがあるわ」
ルシンダ……侯爵が話していたことがある。
「ルシンダと言う名前なのですか」
「知らなかったの?」
姉は忙しく茶器を並べさせながら、聞いてきた。
「全然」
「侯爵家から逃げて来たの?」
「家から出してもらえなかったんです。今日は娼館に行けと言われて、そこから逃げて来たんです」
ガッシャーンと派手な音がして、姉が六つでワンセットのカップをひとつ、手を滑らせて割ってしまっていた。
姉は目を怒らせていた。
「どういうこと?」
あわてた女中たちが後始末をしている食堂から、ジョージ義兄様の書斎に連れ出されて、私は姉に窮状を訴えた。
話の途中から、だんだん姉の額に青筋が立ってきた。
「そう。でも、すぐに逃げ出せてよかったわ。よく、外に出してもらえたわね」
「ほんとにそれは少し不思議だと思います」
「お金は持っていたの?」
「リオンが貸してくれたの」
「リオンって?」
私は説明したけれど、姉はかなりびっくりした様子だった。
「それで、これからどうするの?」
私には分からなかった。
「実家には帰れないと思うの」
姉にはわかってもらえた。
リオンにも、そんな親では助けてもらえないだろうと言われたけど、姉も理屈が通る両親じゃないと言った。
「侯爵家に戻れ、離婚はされるな、侯爵家の良き妻たれとか言うと思う。そもそもあなたの言うことを信じないでしょう」
「むしろ、カザリンの言うことの方を信じると思います」
「ジョージが帰ってきたら相談しましょう。あれでも法律家なんだから。それからレジータ姉様にも聞いてみましょう」
私は目を丸くした。
レジータ姉様は一番上の姉で、立派な家に嫁いだが、家がうるさくて里帰り出来ないのだと両親から聞かされていた。
シャーロット姉様は声を立てて笑った。
「実家に帰りたくないだけなのよ。ここへはしょっちゅう来るわ。弟のヘンリーもね」
「え? 兄様も? 家には来たことなんかないのに?」
姉はイタズラっぽく笑った。
「両親の家に行ってもしかたないでしょ? 不愉快なだけよ」
姉の子どもたちが、おやつの時間になって、家庭教師から解放されて食堂に集まってきた。
「わあ、お母様、お客様ですか?」
まだ幼いのに、ちゃんとわかるらしい。一人はまだ、抱っこされてやってきた。二人とも珍しそうに私を見ている。
「そうよ。トマシン叔母様よ」
私は目を見張った。かわいい。私は、いつの間にか、こんなかわいい子どもたちの叔母になっていたのか。
「よろしくね」
知らなかった。
「ごめんなさいねえ、トマシン」
姉が言った。
「あの両親では、連絡も取れなくて。貴方の結婚式も呼んでもらえなかったし」
そう言えば兄姉は誰も参列していなかった。
「ヘンリーは、騎士にならずに学者になると両親に言ったの。そしたら、文官になれって。そこから平行線よ。別に学者になっても構わないと思うの。収入が少ないと反対されたけど、父だって領主以外の収入はないでしょう」
「ウチは商家だったのでは?」
「あんなに頭が固くてはね。祖父は父のあの有様を読んで、商売を畳んで領地と証券に換えたの。先見の明があったと思うわ」
そうだったのか。私の名前は、トマシンになってしまったけど。
私はその晩、集まってきたヘンリー兄様とレジータ姉様にもみくちゃにされた。
「娼館だって! ふざけるな」
力一杯テーブルを叩いた兄の姿を見て、私は、学者じゃなくて騎士になった方がいいと言う両親の意見もちょっとだけ理解できた。
テーブルの持ち主のジョージ義兄様がビビっていた。
「すまん、トマシン! なにしろ、あの両親とは縁がない方が良くて。話すだけ時間の無駄なんで!」
「ごめんなさいねええ。早く侯爵家を訪ねたらよかったんだけど、どうも雰囲気が変だったもので。私、あなたたちが出たパーティに出席していたのよ。でも、とても仲が悪そうで、どうしようかとためらっちゃって。直接あなたとだけ、話をした方がいいと思ったの」
レジータ姉様が言った。
いえ。よくわかります。
私はシャーロット姉様の家に置いてもらうことになった。
「安心して。両親は、私とは絶縁してるから、家の場所もわからないわ」
シャーロット姉様はそう言い、
「侯爵家には、私の名前で、あなたを預かっているって知らせておくわ」
と、レジータ姉様が言った。
レジータ姉様の夫は、チャールストン卿と言う名前で、先の大戦で我が国を勝利に導いた英雄だ。ただ気難しいことで有名だった。歳もだいぶ上のはずだ。
「だけど、この頃は私の言うがままよ」
姉様は笑って言った。
「いいなあ」
私は思わず言った。
「そんなことないわよ。私も、シャーロットみたいに好きな人を見つけて、その人と結婚するって、親に向かって突っ張ったらよかった。ずっとそう思い続けてきたわ」
レジータ姉様が言った。
「でも、世の中ってわからないわよね。以前に一度、旦那様に好きな人と結婚したかったって、言ったことがあるの」
ジョージ義兄様が顔を上げてレジータ姉様を見た。チャールストン卿は軍人で戦功著しく、皆から尊敬されている人物だ。かなり強面のはずだ。
「即離婚だと思ったんだけどね。夫はショックだったみたいで」
「どうなったの?」
シャーロット姉様が興味津々と言った様子で尋ねた。
「何も変わらなかったけど、出て行けとは言わなくなったわ」
「そんなこと言われてたの?」
「それから、腹が立つと旅行鞄を見えるところに置くことにしたのよ。黙り込むの。面白いわよ」
「口下手なんだよ」
ジョージ義兄様が苦笑しながら言った。
「チャールストン卿ならよく知ってる。軍事に関しては天才だよ。だけど、そう言うことは、うまく言えないんだろうと思うよ」
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