第39話 3ー21 出逢い

 チョット、エッチな場面もあります。左程どぎつい表現ではありませんが、気になる方は読むのを避けてくださるようお願い申します。


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 私(吉崎博司)は、軍人の知り合いが多いのだが、事業が軌道に乗り始めてからは、それなりに政財界にも知られるようになって、地域の有力者に誘われて1940年(昭和15年)1月には、日本商工会議所賀詞交換会と日本貿易協会賀詞交換会の二つの会合に出席した。

 日本商工会議所はそれまであった商業会議所連合会が再編されて出来上がったもので各地域に根差している。


 私の場合、山梨県、千葉県、東京府などに事業所や工場が散在しており、どの地区の会議所の会合に参加するのが良いのか迷ったが、結局東京事務所のある東京府商工会議所に参加することにしました。

 千葉や、山梨等については、それぞれ工場長などに代理出席をさせることにしているんだ。


 日本貿易協会は、1885 (明治18) 年に設立された貿易商社の寄り合いであり、産業振興と貿易振興の両面を目標としている組織です。

 依田の記憶では、第二次大戦後には日本貿易会として再編され、貿易振興が目的の会合に落ち着いたはずです。


 二つの会合には財閥系の子会社も参加しており、その意味では賀詞交歓会などでは大いに知人が増えました。

 一方で、私の創設事業である航空機製造では、四菱、仲嶋、河崎などの新旧財閥が、造船業では三津井、四菱、純友系列の造船所が敵対心を露わにしながらも近づいてきました。


 また、石油関連ではすべての財閥が何とか擦り寄ろうとしてきましたね。

 このほか鉱工業については、粗鋼生産とアルミその他の金属粗鋼生産が東北地方を中心に始まると同時に、各財閥の鉱工業関連企業が津波の様に襲来しましたが、まあ、単純に安くて品質が良いので飛びついたというところでしょう。


 その一方で、製薬関係では、どちらかというと全ての製薬会社がそっぽを向いています。

 結核の対抗薬等抗生物質の開発販売が余程気に入らないと見えますが、そんな奴は今後とも無視ですね。


 そんなことから1941年(昭和16年)初頭から各業種関連団体の会合予定が盛んに入るようになり、東京事務所で私の秘書役となっている西城百合子女史が大変忙しい思いをしています。

 徐々に東京事務所の渉外業務が増えて来ましたので、東京事務所の増員もやむなしと考えているところです。


 一応、新橋駅前の古いビル一棟を押さえてはいるんだけれど、人目に付く場所だからリフォームや建て替えが千葉の航空機製作所や造船所のように私の能力で自由勝手にできないところが少し面倒なんだよね。

 まぁ、仕方がないので丸の内の事務所は当座そのまま存続させる予定ながら、新たに吉崎建設を設立し、1941年5月から新橋の中古ビルの建て替え工事を始めちゃいました。


 一応、12階建てのビルにして、その半分は貸しオフィスにする予定なのです。

 因みにこの当時の日本の高層ビルは京橋にあった第一相互館と銀座の三越本店が地上七階建てで民間では最も高いビルでしたし、国会議事堂が地上9階建てでもっとも高い建造物でしたね。


 別に目立つつもりはありませんが、長く使うつもりなら高層ビルが良いと思ったのです。

 新橋の事務所の従業員は60名にして、「東京事務所」全体の従業員は二か所で70名前後の規模にする計画なのです。


 ◇◇◇◇


 一方で1940年(昭和15年)11月、その前月に参謀総長を辞任された綏蔭宮かんいんのみや載仁親王殿下よりのお招きがあったために、小田原にある別邸を訪問しました。

 殿下の本宅は永田町にあるのですけれど、何か事情が有って小田原の方に私を招いたようです。


 そこでお会いしたのは、載仁親王妃智恵子様の系譜につながる、元侍従長の高司たかつかさ博倫ひろみちの妾の子で奈津なつという女性でした。

 博倫卿が58歳の時の子供であり、1914年生まれの26歳であるけれど、未だ独身のようです。


 何でも綏蔭宮かんいんのみや載仁殿下が、当時侍従長であった高司博倫卿に頼まれたことから、養女のように別邸で住まわせて面倒をみていたようだ。

 生母も既に亡くなり、高司家とは縁を切られている庶子しょしであるようだ。


 陰で生きていた女性が母であるが、本人は至って陽気な性格であり、また勝気な女性でもあるらしい。

 適齢期に入って、何度か綏蔭宮殿下が間に入って良家との縁談を勧めてはみたらしいのだが、いずれも破談となっている様だ。


 綏蔭宮殿下も御年75歳になるので、これが最後とばかりに私にこの女性を託そうとしている様な気がするな。

 この時勢は明治の気質が多分に残っているから、女性で26歳というのは、当然に行かず後家ゆかずごけの年齢であり、余程の物好きでもない限り良縁はないとされている。


 だが令和に生きた依田隆弘の記憶を持つ私にとっては、未だ十分に適齢期の女性だ。

 そうして、この奈津嬢、実は私の死んだ家内に良く似た顔立ちで、性格もおきゃんなところがよく似ているのだ。


 まぁ、年甲斐もなく好感を抱き、お付き合いが始まったというわけだ。

 私が1894年生まれの46歳だから、歳の差は20歳にもなり、親子ほどの年齢差なんだが、この時代は余り男性の年上差は関係がないようだ。


 何故かこの奈津嬢も私に懐いて、三か月後には私の東京事務所に勤めるまでになった。

 東京女子高等師範学校を卒業した才媛であり、ウチの事務所でも十分に役立ってくれている。


 いずれにせよ綏蔭宮殿下の奸計かんけい(?)にはまって、私も今世で二人目の妻を迎えることになりそうだ。

 今のところ、1942年(昭和16年)の6月ごろに入籍(場合により結婚式が有るかも)を予定しているが、新居も別に建てなければならないかなと思っている。


 今のところ家には女中の富山ハルと下男の和田鉄二が住み込みでいるんだが、仕事上の来客が結構増えてきているので、新居を得るに際しては、賄いの料理人と女中それに運転手を増やすことにしている。

 ついでに腕っぷしの強い奴を三人ほどもガードマンとして雇うつもりでもいる。


 金は腐るほどあるので経済的な心配はない。


 ◆◇◆◇◆◇


 私は中山奈津。

 小田原にある綏蔭宮様の別邸に起居している居候だ。


 名家の当主である高司博倫を父として、そのめかけである中山百合子を母として、生まれてきたのが私である。

 私は、1914年(大正3年)生まれの26歳。


 私と母は、父の正妻からうとまれ、名家である「高司」の苗字を名乗ることは許されなかった。

 父である高司博倫は1918年に亡くなったので、正直なところ顔もほとんど覚えてはいない。


 母も、1924年には病気で亡くなったので、私は天涯孤独の身の上だったのだが、生前の父に頼まれたという綏蔭宮殿下が私を引き取ってくれたのだった。

 女学校と師範学校にまで行かせてくれた大恩あるなんです。


 但し、そうは言いながらも、十年ほど前からオジサマから持ち掛けられたお見合い話は全て破談になっている。

 まぁ、私がそうなるように仕向けただけなのだけれど、相手のうらなりの坊ちゃんが気に食わなかっただけの話ですね。


 その所為せいか、ここ三年程は縁談話も無かったのだけれど、昭和15年11月、小田原別邸にオジサマを訪ねて来客があった。

 別邸を訪ねて来たのは、初めて見る様な立派な車を自ら運転して来たナイスミドルのオジサマ的な紳士だった。


 お名前は吉崎よしざき博司ひろしさん。

 うん、聞いたことのある名前だよね。


 確か新進気鋭の実業家で、帝国陸海軍に新型航空機を納めている会社の経営者だったはず。

 詳細は知らないけれど、結核の特効薬を産み出した吉崎製薬の社長さんも兼ねていたし、他にも鉱山会社なんかも持っていると雑誌で読んだことがある。


 オジサマの客ではあったのだけれど、どうもオジサマの心づもりでは私の縁談話だったようだ。

 私が居るところで、のっけから、オジサマが言いました。


「ウチの娘同然にしている奈津だ。

 歳は26、いや数えでもう27か・・・。

 行き遅れているが、身体は丈夫だし、頭もいい。

 お前さん、愛妻を亡くしてもう10年以上も経つんだろう?

 会社も千葉の新興財閥と言われるぐらいに大きくなったのだから、そろそろ身を固めておくべきじゃないのか?

 独り身は何かと肩身が狭いし、後継ぎがおらんでは周囲が困る。

 どうだ、この際だからこの奈津を貰ってはくれんか?

 此処へ呼んだのは奈津と引き合わせるのが目的で、他に特段の用事は無い。

 性格が合わなければそれまでだが・・・。

 まぁ、庭でも散歩しながら人生観でも互いに語り合ってはどうだ?」


 なんだかオジサマに載せられてしまいました。

 これまでの縁談話と違い、私から見ても相手はキチンとした紳士です。


 オジサマの勧めに従い、別邸の庭で色々お話してみました。

 吉崎さんは、お話が上手でとても物知りの方でした。


 師範学校で尊敬していた先生を彷彿ほうふつさせるような語り口調で色々と教えてくれました。

 市井においておくのが勿体ないような学者肌の物凄いインテリなんです。


 師範学校には帝大の教授も稀に来られていましたけれど、そんな方に感じたように、持っている知識に幅と深みがありますね。

 ある意味でその知識量に圧倒されました。


 これまでお会いした縁談話の男性はどちらかというと軽薄な方が多かったので、頼まれてもこちらからお断りするタイプの方でしたけれど、この方は違いました。

 なんだかぐいぐい引き付けられてしまって、ほとんど身動きできないほど一目惚れしている私が居ましたね。


 私も行かず後家とまで揶揄やゆされた女ですから、それなりに人生経験はあるつもりでしたが、十代の小娘のように恋してしまいました。

 正直なところ、この恋心をどうやって抑えたらいいのかわかりません。


 吉崎さんも行かず後家の私を何となく気に入って下さるようなので、ここは玉砕覚悟で思い切って言ってみました。


「あの、宜しければ、私とお付き合いをしていただけませんか。

 私はあなたというお人をもっと知りたいと思います。」


 この時の私はおそらく物凄く真っ赤な顔をしていたと思います。

 でも目をそらさずにしっかりと彼の眼を見ながら言いました。


 そうしたら、彼も目をそらさずに言ってくれました。


「そうですね。

 私も貴女という女性をもっと知りたいと存じます。

 東京と小田原、近いようで遠いのですが、できれば一月に一度か二度、週末に都合をつけてお会いするようにしましょうか。

 殿下もお付き合いに進むかどうかを気にしておられるようですし、一応、二人でお付き合いを継続する旨を報告いたしましょう。」


 そんなわけで年増女としまおんな男寡おとこやもめがお付き合いをすることになったのです。

 それからは早かったですね。

 

 月に一度か二度お会いするだけなんですけれど、ウバ桜の焼けボックイに火がついたみたいで止まらなくなっちゃいました。

 いつかはそうなるんじゃないかという明確な予感はありましたけれど、七回目のデートで、とうとう生まれたまんまの姿で彼に抱かれちゃいました。


 場所は、彼の家の近くのホテルでした。

 遅くなったので彼の家に泊まる話になっていたのですけれど、私が頼みこんでホテルに泊まることにしてもらったんです。


 勿論彼も一緒にですよ。

 私は初めてでしたけれど、彼の場合、一度は奥さんが居た身ですから、睦事むつごとはよく知っています。


 痛いのとかも有ったはずなのに、殆ど覚えていません。

 めくるめく熱い感覚が身体の奥底から押し寄せ来て、私は耐えるのに一杯一杯でした。


 睦事が終り、気づいたら私はとっても幸せでした。

 何となく情事って暗いイメージを持っていたのだけれど、これなら、・・・。


 いえ、博司さんとなら何回でもできそうです。

 そうして初めてなのに、四回も致してしまいました。


 そのうち少なくとも二回は私からお願いしちゃいました。

 疲れ果てて、翌朝は二人で寝過ごしてしまいましたわ。

  

 そんなこんなで、私と博司さんとの結婚は事実婚から始まりました。

 彼は新興財閥と言われるぐらいにお金持ちですけれど、私は彼の性格と心根に惹かれました。


 私と彼の結婚は、式は挙げません。

 二人で役所に行って入籍するだけです。


 でも綏蔭宮様とかお世話になった人や知己の人を無下にはできないので、これから建てる予定の新居で披露宴だけはすることになっています。

 因みに私はといえば、抱かれた翌日から彼の家に押しかけています。


 愛するひとの傍を離れて生活するなんて私にはできませんもの。

 押しかけ女房のように居座りましたけれど、使用人のハルさんと鉄二さんは笑いながら受け入れてくれました。


 小田原のオジサマの家にある私の荷物なんかは、チッキにして送ってもらうことにしました。

 仕掛けたはずのオジサマがある意味ですっかり呆れていましたね。


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