第26話 3ー8 綏蔭宮載仁親王殿下

― 吉崎視点 ―

 綏蔭宮かんいんのみや載仁ことひと親王殿下の金谷工場への御成りは、最終的に1941年(昭和16年)6月20日と決まりました。

 非公式な御成りと言うこともあって、人目を避けられる空路で綏蔭宮様と随行員を輸送することになったのです。

 

 依田の記憶によれば、綏蔭宮載仁親王殿下は、御年73歳(数え年:満年齢で言うならば71歳)の皇族で陸軍大将の参謀総長という役職に就いてはおられましたが、余り実務はなされず、陸軍内部の派閥争いに利用された人物だったはずです。

 特に皇道派を嫌われ、どちらかというと統制派に近い考えを持たれた方のはずです。


 宮様でありながら、バリバリの陸軍軍人として明治の日清・日露の両戦争では前線に立たれたお人でもあります。

 ある意味で日本の将来を左右する立場にあったお人でもあり、指導者として別の働きをされていれば、あるいは戦争への道を止められたかもしれません。


 特に、陸軍の人事に関しては隠然たる影響力を持っていました。

 媚びる必要は無いと思いますが、余り怒らせたくはない人物ですね。


 いずれにせよ、宮様の御成りが決まるまでに、結構な紆余曲折うよきょくせつはありましたが、陸軍航空本部が主体となって、所沢の陸軍飛行場から一度、立川の陸軍飛行場からも一度、民生用双発輸送機であるY-313を使って、それぞれ12名の検証・調査要員を搭載して金谷の工場まで二度にわたって往復したのです。

 羽田飛行場の離発着利用も含めて調査対象となったのですが、念のため羽田飛行場の滑走路をについては、それまで300m×15mの滑走路であったものを、400m×40mにまで延長・拡幅する作業を、吉崎航空機製作所の実働で6月上旬までに行ったのです。


 羽田飛行場の用地は十分にあったものの、予算の問題でなかなか延長工事や拡幅工事のできなかった飛行場側(管理者:逓信省航空局)は棚ボタで喜んでいたようです。

 この1年後の1938年には、増大する航空需要に対応するために、隣接する用地を買収して、南北及び東西に延びる800m×80mの滑走路二本を造り、その工事を実績のある吉崎航空機製作所に依頼してきたのはまた別のお話です。


 民生用の双発輸送機Y-313は、本番を含めて羽田飛行場に三度飛来したことから、その流麗なシルエットが非常に目立ち、一気に新型航空機として関係者の話題となりましたが、その都度、軍人ばかりが乗り降りしたために軍用の秘密機体と思われ、少なくとも新聞などへの写真掲載は免れました。

 羽田飛行場には、朝日、報知、東京日々等の各新聞社が進出してきており、ある意味で要注意の場所ではあったのですが、たとえ偶然にでも機密に触れてしまい、それを迂闊うかつにも公にした者は、陸軍法で裁かれることを関係者は良く承知していたのです。


 いずれの滑走路においても安全な離着陸を繰り返し、同時に機内の優れた快適性が陸軍関係者に痛く感銘を与えたようです。

 勿論、真新しいということもあるのですけれど、室内装飾、座席、機外観覧用の比較的大きな窓、そして床に敷いてある絨毯じゅうたん、何より機内の静穏性と気密性、それに最適温度に調整されているキャビン内部の冷暖房の素晴らしさは、これまであった旅客機のイメージを大きく変えさせたのです。


 東京航空輸送社のようにエアーガールは用意できませんでしたが、搭乗した軍人は一様に満足していたようです。

 若手女性職員を接待用に添乗員として乗せることも一時的には考えたのですが、飛行時間が短いこと、今一つ軍人の柄が悪そうなので、敢えて搭乗させませんでした。


 但し、宮様が搭乗される際には、昔お嬢様だった品の良い40代の女性に乗客の介添え役として乗ってもらいました。

 因みに、当該女性は、金谷工場の副工場長の奥様と設計部門の長の奥様で、私が見るところいずれも結構な大正美人さんでした。


 陸軍からの要望により、ルートに東京山手線の外側を一周する遊覧コースも組み込み、綏蔭宮殿下の御成りに際しても帰路で同じ遊覧コースを飛行することになったのです。

 但し、諸外国のスパイが暗躍していることも鑑みて、遊覧における飛行高度は千mとすることにしました。


 距離を開けることでできるだけ細部を確認できないようにしたのです。

 正直なところこの対策については、余り大きな期待はしていないのです。


 特に、羽田飛行場の方は出入りを制限しにくい場所であり、出入り制限を掛けるにしても殿下の到着時間の前後1時間のみ、陸軍の私服部隊を動員して利用者の出入り制限を掛けることにしたようです。

 そのような準備を整えて、綏蔭宮殿下の御成りの日が来ました。


 幸いにして天気はその日一日晴れであり、気温は午前10時の段階で金谷工場では22度、西の風5mとフライトに何の支障もありません。

 随行員は、侍従一名、副官一名のほかに陸軍航空本部長以下6名の将官が同行しました。


 綏蔭宮殿下の羽田飛行場着が午前10時頃、Y-313はその時間に合わせて、羽田飛行場に着陸しました。

 殿下が随行員一行とともに搭乗されて座席に座られると、すぐに離陸体制に入り、東京湾を南下、まっすぐに金谷工場方面に向かう予定なのです。


 御成り機は、10時17分羽田飛行場を離陸、同10時29分には金谷工場の第一滑走路に着陸していました。

 代表取締役以下幹部が顔を揃えてエプロンでお出迎え、一旦、工場管理事務所二階にある応接室で休息の後、工場内を視察したのです。


 視察順路は、あらかじめ決めた通りのルートのみで、余計な部分は見せないようにしています。

 今回宮様にお見せするのは、工場の製作現場では、ルー101及びルー101改の製作工房、練習機ラー1の製作工房、それに双発輸送機ユー304とY―313の製作工房であり、このほかに航空燃料の製造機器も一応お見せし、簡単な説明を行いました。


 視察が終わった段階で、事務所内で昼食を用意し、食べていただきながら歓談。

 その後、宮様一行は、待機していたY-313に再び搭乗し、離陸。


 帰りのコースは、東京湾を北上し、羽田上空から時計回りに山手線の外側を周回したうえで最終的に、所沢の陸軍飛行場までおよそ130キロ前後(所要時間およそ20分程度)のフライトでした。

 所沢飛行場到着時間は、午後1時53分であり、概ね予定通りに視察を終えることができたようだ。


 これが仮に房総線を利用しての御成りであれば、各駅停車で駅ごとに数分間の停車があるから、間違いなく半日をかけての旅程になる。

 その場合、綏蔭宮様をお泊めする宿(金谷工場の宿舎若しくは寮にお泊めするしか方法は無い)を手配し、視察は翌日になるだろうから二日がかりの御成りになっただろう。


 しかも一時的にせよ、お泊り逗留となれば、多数の警察官等も宿舎や工場内に配置する必要が生じ、機密防衛上非常にまずい事態となっていたかもしれない。

 取り敢えず空の旅が上手くいったことで八方が丸く収まったわけです。


 綏蔭宮様が航空機に搭乗されたのは今回が初めての経験であって、上空から眺める東京市内の様子に感嘆し、随分と喜んでおられたようです。

 いずれにしろ、非公式な視察を無事に終えることができて何よりでした。


 これを機会に、陸軍は輸送機を二種類導入することを決めたのです。

 兵員輸送用のユー304と、宮様等高貴な方のお召機としてY―313の二種類です。

 

 ◇◇◇◇


 1937年(昭和12年)6月には第三期海軍補充計画が決定され、大和・翔鶴・瑞鶴など主力艦の建造が始まっていました。

 1941年4月に至り、大和型戦艦三番艦の予算が振り替えられ、吉崎重工中道造船所に発注する航空母艦1隻を中心とする一個機動部隊の建造がいよいよ始まりました。


 海軍としては、出来上がりを見て二つ目の機動部隊を建造するかどうか決定するとの心づもりのようですが、恐らくは他の発注を止めてでも第二、第三の機動部隊を作ることになるでしょう。

 既に、海軍艦政本部長の豊世田副武中将と航空本部長豊世田貞次郎中将には大枠の要目と外形が判る簡単な三面図を提供しており、航空本部長が交替した1940年(昭和15年)10月には新任の井野上いのうえ成実なるみ中将にも口頭で説明をしています。


 万が一にも建造計画が外に漏れると大変なことになるので、関係者を限定して詳細は秘密にしているのです。

 予算は総額で8千万円と、現在建造中の翔鶴型空母の予算と同額ですけれど、空母とは別に軽巡4隻、高速潜水艦8隻のセットですので物凄く割安な建造費なのです。


 艦政本部長も航空本部長も空母の大きさと斬新な新型空母の形状に非常に驚いていたようですが、その一方で軽巡の表面に見える武装の少なさにも驚いていたようだ。

 どちらも、我が社専用の連絡将校を務める中佐から得た情報だけれど、私が渡した図面等は、空母、軽巡、潜水艦の武装については機密漏洩防止の観点からそもそも詳細な記載はしていない。


 三面図から見える武装では7000トン級軽巡「やつしろ型」で、127ミリ単装砲一基、40ミリ対空砲2基、6銃身20ミリガトリング砲4基しかみえないし、ガトリング砲は所謂ファランクス型であるから、ちょっと見には武器には見えないかもしれない。

 127ミリ単装砲の有効射程は15キロ、対空射程7キロであり、40ミリ対空砲も同様である。


 6銃身20ミリガトリング砲は有効射程距離1500m程度で、海軍が保有している対空砲に比べて性能はかなり高いのだが、戦艦の大砲を見慣れている人にはまるで海防艦のように貧弱な武装に見えるに違いない。

 そもそも、やつしろ型の軽巡は、水上艦を主な目標としては見ていないのだ。


 無論、対艦ミサイルも搭載しているけれど、それは公試運転までは海軍にも秘密である。

 どちらかと言えばやつしろ型軽巡は、対潜及び対空に特化している。


 対潜弾発射装置は、巧妙に艦体内部に隠されているので、外からは見えないし、同じく対空秘密兵器であるメーザー砲も化粧煙突に隠されているので、それぞれの戦闘態勢に入って初めて外部に姿を現す兵器だ。

 メーザー砲を対艦用に転用することはできないわけではないが、大型艦に対してはすこぶる効率が悪い。


 単射で破壊できるのは精々魚雷艇止まり、駆逐艦を破壊するのはかなり難しいだろう。

 艦橋部を狙って指揮官や総舵手を殺戮することは可能だが、余り好ましい方法とは言えないだろう。


 その代わり、攻撃機や雷撃機百機による飽和攻撃を受けても、単艦で撃滅できるだけの性能を有している。

 メーザー砲の射程距離は約20キロであり、1秒間に50発のメーザー光線を異なる目標に向けて正確に発射できる性能を持っている。


 同じものは新型の航空母艦にも搭載し、互いの取得情報をリンクさせることにより統合型兵器システムとして連動し、効率的な防空体制を作れる。

 兵器を駆使するのは人間以上に優れたAIシステムだが、発動を指令するのは武器管制指揮官(多分砲術長辺りなのかな?)となる。


 対潜弾発射装置とは別に、離れた場所にいる潜水艦に対しては飛翔型短魚雷がある。

 垂直ポッドに装てんされた短魚雷は、発射後目標に500mの地点までロケットブースターで接近、しかる後、海中に潜って、アクティブソナーで目標を追尾撃滅する。


 有効射程は、20キロである。

 因みに、やつしろ型軽巡は、パッシブソナーで周辺50キロ圏内の海中異常を探知できるほか、金属探知センサーと組み合わせて海中の様子を三次元的に把握できるシステムを搭載している。


 対潜水艦用としては最強の水上戦闘艦である。

 同じく、まきしお型護衛潜水艦も同様の装備を搭載しており、対艦用短魚雷40発を装備しているほか、同魚雷はアクティブソナーを備えた追尾魚雷であり、海中に潜む潜水艦も撃滅できる。


 吉崎重工中道造船所で建造する軍艦の武装兵器及び搭載装置の類は、造船所の地下に隠されている秘密工場で生みだされており、当該区域には軍人であっても原則オフリミットにしている。

 当該区域に関係者以外を入れるためには、私の特別許可が要るようになっているが、当面、許可を出すつもりはない。


 いずれにしろ、大原造船所で建艦した空母、軽巡、潜水艦及びその搭載武器の性能を知ったなら、海軍首脳部は狂喜して第二、第三の機動艦隊を欲することになるだろう。

 因みに、この予算を捻出するために、海軍は大和型戦艦三隻の内一隻の建造計画を保留していたのだった。


 大和型戦艦の建造予算は、1億4千万ほどに相当するので、空母1隻を中核とする機動部隊は十分に建造できる。

 しかも吉崎重工中道造船所の建艦能力は高く、竣工は非常に早いのである。


 予定では、新型航空母艦の一番艦は、1941年4月3日に起工、同年10月には竣工予定である。

 その際にはやつしろ型軽巡4隻と護衛潜水艦8隻も竣工している筈である。


 但し、これらの新造艦の置き場所に困ることから、小笠原諸島母島の大崩湾に面する海岸部に、防波堤で囲まれた泊地を建設、この切り立った海岸部に新造艦を隠すブンカーを建設、同所にて待機させることとした。

 とにかく新造艦の秘密を人の目に晒されるのを嫌ったのだ。


 それに新兵器の訓練海域等は本土から離れた場所が望ましい。

 因みに母島には泊地予定の大崩湾を見下ろす山間部に800m×80mの滑走路を造り、金谷工場から軍用双発輸送機ユー304と民生双発輸送機Y―313の二機を必要に応じて飛ばすことにしている。


 小笠原母島の泊地と滑走路の建設は、私が排水量20トン程度の小型高速潜水艇で母島に赴き、必要な施設を三日で作り上げた。

 この際には、海軍御用達の「肩書」が大いに役立った。


 少なくとも母島の島民は誰もが疑いを挟まなかった上に、その後も対外的に秘密を守ってくれたのである。

 この当時、母島の人口は1900名余り、人口は少ないが素朴でまじめな人たちが多かった。


 将来的にここが機動部隊の基地になれば、相応の発展が期待できることになるだろう。

 今年の6月半ばぐらいから、この泊地には軽巡や潜水艦が集結しだすことになり、10月からは、新型空母も仲間入りして、連携訓練を開始することになるだろう。


 新型空母には航空機搭乗員だけでも140機分、210名ほどが必要であり、整備員はその四倍前後で800名、艦の運行要員が概ね100名、武器及び通信関係要員が200名、その他要員が300名で合わせて最低でも1600名程度の要員が必要だ。

 ウチの方から艦や兵器の操作方法を教える要員として技師二十名ほどは準備するけれど、シミュレーション訓練を多用するにしても、長期派遣になってしまうのかな?


 それに、やつしろ型軽巡で1隻当たり140名、まきしお型潜水艦が1隻当たり40名の要員が必要だ。

 合計すると一個機動部隊当たり最低でも2500名程の要員を確保しないと運用は難しい。


 特にパイロットは、最低でも150名ぐらいは必要だ。

 何しろ、やつしろ型軽巡にも攻撃ヘリと輸送ヘリが搭載されるのだから。


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