魔王はもういない
まだ半信半疑ではあるが、恐らくはそういうことだろう。というかそうでなければ説明がつかない。
目を覚ました時から違和感はあった。感覚がリアル過ぎることと、夢の中で「これは夢だ」と認識出来ていることがその正体ではないか、と徹は考えている。
もちろん夢という可能性は捨てきれないが、異世界に転移してしまったつもりで行動した方が良さそうだ。
とりあえずここにいても仕方がない、と徹は即座に移動を開始した。
この丘はある程度人の往来があるようで、少し歩くとすぐに道になっているものを見付けることが出来た。
さっき丘の上から周囲を一望した時、麓に近いところに村があった。まずはそこを目指そう。徹はそう考えながら道をたどって歩いていく。
鬱蒼とした森の中を進みながら、徹はこれからのことに思いを馳せる。
もしここが異世界なのだとしたら、元いた世界の時間はどうなっているのだろうか。突然仕事を休んでしまっては同僚に迷惑がかかってしまう。
それに、これからの生活も不安だ。食料など何も持たないままで来ているし、どうやってお金を稼ぐのかもよくわからない。
そう言えば、とあることに気付き、徹は立ち止まる。
さっき狼と戦闘した際にやけに身体が軽い気がした。しかも、武術の心得など全くない自分が一撃で敵を倒すことが出来た。これは、ライトノベルで良くあるあれなのでは……? と、期待を込めて拳を握る。
そして、近くにあった手頃な樹を目掛けてそれを軽くぶつけてみた。
すると、攻撃を受けた箇所から樹はめきめきと音を立てながら折れ、こちらに向かって倒れて来てしまう。
徹は慌てて回避をする。その足取りもまたとても軽い。
ずしん、と樹が倒れ込み、ここら一帯を憩いの場としていた鳥たちが一斉に鳴き声をあげながら飛び立っていった。
徹は自分の手のひらを広げてそれをまじまじと見つめる。
すごい。思った通り、いや、思った以上だ。これだけの力があれば、ファンタジー世界なら食うには困らないはず。冒険者ギルドに行って、モンスターを討伐する仕事をこなしていれば安定した生活を送ることが出来る。
不安でどんよりとした視界が一気に晴れたような気分だった。
こうなったら腹を括って、旅行にでも来たつもりで楽しもう。夢だったらそれはそれで構わないわけだし。
そう考えると何だか楽しくなってきて、徹は突然走り出してしまった。自分でもよくわからないがそうしたくなったのだ。
左右を埋め尽くす無限とも思える緑が、一つ一つを認識する暇もなく次々に後ろへと流れていく。
今の自分が全力で走るとこんなにも速い。その事実に驚きつつも、高揚する気分を抑えられず、徹はただ走り続けた。
しかし、通りかかった場所の近くにいたらしい鳥や何かの動物が慌てて逃げていくのを見て、徹の頭は次第に冷えてくる。
駄目だ。こんな人外の速さで走っているところをもし誰かに見られたら化け物扱いされてしまう。
落ち着いて立ち止まり、ゆっくりと深呼吸をする。
いくら大きな力を得たからといってそれをひけらかすような真似をする気は、徹にはさらさらない。あまり目立つような真似はするべきではないと、そう親に言われて育ってきたからだ。
山を下りきると、山道がそのまま街道のようになって草原へと続いているので、徹は引き続きそれをたどることにする。
しかし、のどかだ。さっきの狼からしてファンタジー世界のはずなのだが、魔物とはあれ以来遭遇していない。虫は至るところにいるし、犬や鹿のような動物がたまにいるのを見かけるが、せいぜいがそんなところだ。
目的の村はすぐに見つかった。しかし、まだ距離はあるにも関わらずそれをはっきりと視認出来たことに首を傾げる。
そうだ、そう言えば視力が上がっている。眼鏡を外してみたが、それでもまだ村を視認出来た。どうやら身体のありとあらゆる部分が強化されているらしい。今はスーツを着ているので、後でまた全身を確認しようと思う徹であった。
村に到着した。色々したいことはあるが、金がなければ何も出来ないので、ひとまず冒険者ギルドを探すことにした。
そもそもそれが実在するのかどうかすら知らないわけだが。
こういったことは人に聞いた方が早い。徹は、たまたま目の前を通りかかった農夫らしき男に声をかけた。
「あの、すいません」
「ん?」
言語は通じるようだ、と一安心。
中肉中背で、茶色で癖のある髪を自然に伸ばしたような髪型をしていた。口の周りには豊かな髭を蓄えている。
男はこちらを振り向くなり、徹の全身をざっと見た。
「ここいらじゃ見ない顔だな。こんな村に何の用だ?」
「冒険者ギルド、というものがどこにあるかを知りたいのですが」
「冒険者ギルド!? っていうとお前さん、冒険者か?」
相手の想定していなかった驚きぶりに、徹は内心で困惑した。確かに戦闘に向いている服装には見えないだろうが、そんなに意外なのか。
話がややこしくなりそうなので、今はそういうことにしておこう。
「ええ。まあ、そんなところですが」
「はあ~、こんなところまで来るほどなんだな。ま、それもそうか」
こんなところまで来るほど、何なのだろうか。気になるが、会話の流れが悪くなるので敢えて言及はしない。
「そうなんですよ」
「仕事が見付かるといいなぁ」
そう言って、農夫は道案内をしてくれた。
「ありがとうございました。大変助かりました」
丁寧に一礼をすると、農夫は朗らかに笑う。
「俺の名前はロブ。この村は流れ者たちが集まって出来た村でな、声をかけりゃ誰でも親切に接してくれると思うぜ」
「ありがとうございます」
心の中で何度も感謝しながら徹はその場を去った。
とても親切な人だった。初めて見る相手にも親切なのは村の歴史に由来するような言い方だったが、元からの性格なのではないだろうか。
自分の名前を告げ忘れてしまった。また落ち着いたら、今日のお礼も兼ねて挨拶に行こう、と思う徹なのであった。
冒険者ギルドはそこまで遠くなかった。
木造の、他の民家より少し大きい程度の建物だ。徹は前の世界の田舎町で見かけた、小さな郵便局を思い出した。
建物の中はがらんとしている。受付以外に人が一切見当たらない。
いくら小さい村の冒険者ギルドとは言っても、もう少し人がいてもいいのではないだろうか、と徹は戸惑いを隠せない。
様々な疑問は置いておいて、とにかく仕事だ。腹が減る前に飯代と今日の宿代くらいは確保しておかなければ。
徹は真っ直ぐに受付まで歩き、カウンターにいる女性に声をかけようとした。
だが、座って事務作業でもしているのかと思いきや、彼女は見事に船をこいでしまっている。
起こすのも悪いな。しかし、このまま声をかけないのもそれはそれでおかしい気もするしな……。
そんな風に徹が困っていると、女性はぱちんと目を覚まし、目の前にいる徹に気付いて大きく眼を見開いた。そしてがたっと音を立てて椅子ごと後ずさる。
「ひっ!」
「あっ、も、申し訳ありません」
こちらは何もしていないわけだが、驚かせてしまったことに対して謝罪をする。
徹は自分の容姿のことについてよく理解しているし、こんな風に驚かれることにも慣れているので傷ついたりはしなかった。
すぐに我に返った女性は即座に立ち上がって腰を折る。
「大変失礼を致しました」
「いえ、こちらこそ申し訳ございません」
謝罪合戦を終えると、受付嬢は顔をあげた。
目尻の上がった大きな瞳が真っ直ぐにこちらを見つめている。一つに結わえて肩に垂らされた水色の髪が美しい。身長は徹と同じくらいに見受けられるので、女性の平均よりはかなり高い。
そりゃ美人を採用した方が印象はいいだろうな、とか全く関係のないことを考えていると、女性は慣れた様子で尋ねてきた。
「本日はどういったご用件でしょうか?」
「えっと、仕事を探してまして。何かありますか?」
そもそも冒険者ギルドの仕組みなどもわかっていないわけだが、とりあえずそう聞いてみた。
必要な説明などは依頼を受ける際にあることだろう。
そう考えてのことだったのだが、しかし、女性は徹の返答を聞いた瞬間、眉尻を下げてしまった。
「申し訳ございません、当支部にも依頼はほとんど来ていない状況でして」
「当支部にも?」
依頼がないというのも絶望的な話だが、何よりそこに引っ掛かった徹は、続けざまに疑問を口にする。
すると、受付嬢は徹の想定していなかった返答をした。
「ええ、お客様もご存知のこととは思いますが、魔王が討伐されてからというもの、冒険者ギルドはどこも依頼そのものが減り続けている状況でして。当支部も例外ではありません。もしあったとしても別の冒険者様がすぐに受注されますし」
「魔王が討伐? 魔王って討伐されてるんですか?」
上がりそうになる声量を必死に抑えつつ、一歩前に出てそう尋ねると、女性は心底意外そうな表情をする。
「ご存知ありませんでしたか。ええ、魔王は少し前に討伐されまして。その影響で新たな魔物が誕生しませんので、その数は日を追うごとに急激に減り続けています。従って魔物の討伐や護衛を主とした冒険者様への依頼も減っています」
魔王が討伐されているなんて、そんなこともあるのか。
徹は目の前が真っ暗になった。
せっかく異世界に転移して大きな力を得たと思ったら、それでお金を稼ぐ手段がほとんどないなんて。これでは見知らぬ土地に突然放り出されてしまっただけだ。
突然徹が固まってしまったので、受付嬢は困惑した様子で声をかけてくる。
「あの、お客様。どうかされましたか?」
「いえ、何でもありません。事情は理解できました」
「お力になれず申し訳ありません」
「滅相もありません。親切に教えていただき誠にありがとうございました。では失礼します」
しっかりと礼をして踵を返し、重い脚を引きずりながら冒険者ギルドを後にした。
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