腰の低い会社員、異世界で死神になる
偽モスコ先生
プロローグ
とある居酒屋の一室の風景だ。
小さな部屋を三つほど繋げたのであろう横長の和室で、三十人くらいが入れる広さ。中央には長テーブルがいくつか並べられている。
そこでスーツ姿の人々が談笑しながら酒を酌み交わしていた。
ある男が、隣に座る男に恐る恐るグラスを近付けながら言う。
「ど、どうも。お疲れ様です、佐藤さん」
「お疲れ様」
佐藤と呼ばれた、短い黒髪の爽やかな印象の男は穏やかに微笑み、持っていた自分のグラスを合わせた。かちんと小気味いい音が鳴り響く。
「しっかし、まだ敬語が抜けないな、式上は。俺たち同期だろ」
「職場での付き合いですので」
「寂しいこと言うなよ」
「す、すいません。そんなつもりではなかったのですが」
式上と呼ばれた男は下の名前を徹と言った。
徹は謝罪をしてからグラスに入った金色の液体を一口あおる。佐藤はそれを見て苦笑してから口を開いた。
「わかってるよ。お前、誰に対してもそんな感じだしな」
「そうなんですよね」
職場の付き合いと言い訳はしたが、徹自身、ここ最近敬語以外で喋った記憶がほとんどない。実家にいる父親と大分前に電話で話したが、その時も敬語だった。
どうしてこんなに腰が低くなるのか思い当たる節はあるが、元来の性格が原因のような気もしている。
「もし誰かに馬鹿にされたりするようなことがあったら相談しろよ」
「ありがとうございます」
「ま、学生じゃないんだしそんなことはないと思うけどな」
佐藤は徹の良き理解者だった。
同期ということもあって親しくしてくれるし、仕事面でもサポートしてくれる。それ以外にもたくさんの恩義があるし、正直佐藤がいるから今の仕事を続けられる、と徹は常日頃から感じていた。
会社の飲み会が終わって解散すると、徹は早々に帰宅の途に就いた。偶然にも会場から家が近かったので歩きだ。
すっかり夜の帳も下りた時間帯。見慣れた街並みは宵闇に浸かり、空には上弦の月が浮かんでいる。
徹は様々な人々が行き交うビル群の谷間の底をふらふらと歩きながら、酒の残る頭でぼんやりと考えごとをしていた。
今の職場に特別な不満はない。
人間関係はしんどいが、それだけだ。仕事の内容や待遇にはそこそこ満足しているし辞めようなどとは思っていない。
ただ、こんなことを考えている時点で現状をよしとはしていないのだろう、と徹は冷静に自己を分析する。
現在徹が勤めているのは中小企業の一つに数えられる会社だ。
景気に左右されることなく業績が安定していて、無闇に事業を拡大することもない。それが不満だという者もいるが、徹にとっては都合がよかった。
そこそこの大学を卒業し、そこそこの企業に就職した。後は適度に不自由のない生活を送って、ほどほどに満足な人生の幕を閉じたいと思っている。
だが、例えば、の話ではあるが。
もし願いごとが叶うのなら、誰も自分を知らない世界で人生をやり直してみたいと思うことがなくもない。
もっとも、本当に突然そんな場所に放り出されてしまえば困ることもあるのだが、と徹は苦笑を浮かべる。いつか会いたい人だっているというのに。
「ただいま帰りました」
扉を開けて電気を点けてから、誰もいない部屋に向かって挨拶をした。
徹の部屋は玄関からリビングに向かって廊下が伸びていて、その途中にキッチンと、逆側に浴室とトイレがセパレートである構造になっている。
浴室の前を通りかかる際に、洗面台の鏡に映る自分の姿が目に入った。徹はそちらに歩み寄って少しの間それを観察する。
痩せっぽちで瞳からはあまり生気を感じられない。真ん中で分けた黒髪は会社員としては少し長めで、そう言えば今日上司から「そろそろ髪を切って来い」と不機嫌そうに言われたな、と徹は思い返す。
小さい頃のあだ名は「死神」だった。何のことはない、苗字が式上で響きが似ていること、全体的に生気を感じられず、例えば暗闇の中で見かけると心臓が飛び出るほどにびっくりする外見をしていることがその由来だ。
踵を返すと、視界の端で鏡に映った眼鏡がきらりと輝くのが見えた。
リビングの電気を点けると、シーリングライトが白く輝く。
白い壁に、中央にはガラス張りのローテーブル。パソコンデスクに本棚と、特に目立った特徴のない味気ない部屋だ。床は清掃が行き届いているが、テーブルやベッドの上には文庫本が散見され、ほどよく生活感が漂っている。
酒が入っているせいか、それとも疲れているのか。
徹は着替えたりもシャワーを浴びたりもせず、よろよろとベッドに向かい、眼鏡を投げ出すとそのまま倒れ込むようにしてうつ伏せに沈んだ。
寝つきが悪く、普段なら眠くなるまでライトノベルを読んだりする徹だが、今日はその必要もなさそうだった。
目を閉じると視界は心地よい闇に覆われ、徹はすぐに意識を手放した。
〇 〇 〇
瞼越しに伝わる太陽の熱と光。
鳥のさえずり、梢のざわめき、揺れる草花の音が耳に爽やかさを運び、緑や大地の香りが風に乗って鼻腔をくすぐった。
まるで大自然の中にいるようだ、と徹が思いながら目を開けて身体を起こすと、そこには正真正銘の大自然が広がっていた。
見渡す限りの緑と青。空は澄み渡り、その下には遥か彼方に見える山の麓まで途切れることのない草原が続いている。ここはどこかの丘の上のようで、高所からのそれらの眺めは筆舌に尽くしがたいものがあった。
ああ、こんなに清々しい気分になれるのはいつ以来のことだろう。
最近は家と会社の往復ばかりで自然を散策する機会など全くなかった。空気が美味しくて、ただここにいて呼吸をするだけで心が満たされていくのを感じる。
徹は大きく伸びをしながら目一杯に空気を吸い込んだ。それからとても親切な夢を見せてくれてありがとう、と何かに対して深く感謝をする。
自分は自室のベッドの上で眠りについたはずだ。酒が入っていたので記憶に齟齬をきたしている可能性もあるが、そうに違いない。徹はそう考えていた。
せっかくの機会だ。目が覚めるまで思う存分にこの状況を楽しもう。
そう思いながら腰をあげて踵を返すと、目の前から何かがやってきた。
「グルル……」
狼だ。いや、狼のような生きもの、と言うべきか。
外見は間違いなく狼なのだが、全身の毛の色が青という種類は聞いたことも見たこともない。青っぽいとかではなく、鮮やかに輝く、まごうことなき完全なる青なのだ。
しかも両眼が赤く光っている。たまに街で見かける、薬か何かをやって正気を失った人と同じ目をしていた。
狼は二匹いて、共に唸り声をあげてこちらを威嚇している。どう見ても友好的な雰囲気ではない。
これはまずいな、と徹は感じた。
今にもこちらを襲ってきそうだが、当然ながら徹は丸腰だ。武器になりそうなものも手の届く範囲にはない。
そして、ではどうするか、と悩む暇すら与えられなかった。
次の瞬間、狼たちは徹に向かって全力で走り始めたのだ。
生命の危機を感じ、恐怖で足が動かない。しかしせめてもの抵抗はすべきだと本能が告げている。
「うわああああっ!!!!」
狼があと数歩というところまで迫った瞬間、徹は目を瞑りながら無我夢中で左右の拳を振り回した。だがそれは何度も虚しく空を切ってしまう。
しかし、何度も、というところに徹は違和感を覚えた。夢の中とはいえ身体が驚くほどに軽い。
そして狼が眼前にまで来ると、遂に拳をその頭部に当てることに成功した。
「「キャイン!」」
確かな感触と共に悲鳴があがる。それから、何かが勢いよく地面を滑る音。
助かったのか? と、徹が恐る恐る目を開ければ、そこには離れたところで地面に横たわる狼二匹の姿があった。
どうやらいい所に攻撃を当てたらしい、とうまいこと気絶させた隙に徹が逃げようとしたその時だった。
何と、狼たちの身体は尻尾の方から黒い灰のようなものに変わっていき、最後には風に溶けてなくなってしまった。
後に残ったのは、先端が彼らの毛のような色をした牙と爪が少々。
動物の身体がこのようになる現象を、徹は見たことがある。ただし、それは現実ではなく、ライトノベルの挿絵やアニメの作中での話だ。
どうやら異世界に転移してしまったらしい、と徹は悟った。
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