第35話 三十四章 子どもの聴覚と思考力を、侮ることなかれ
そもそも、加藤が気付いたのは、四月の新入生合宿の前のことだ。
それは、クソ教頭の一言がきっかけだ。
『これだから、シングルの家庭は』
アホ教頭のセリフは許しがたいが、それは置いておく。
冷静に考えると、日本のシングル家庭の年収平均は二百万ほどで、私立中学の学費は年間百五十万弱と公立中の約三倍だ。実家の援助か不労所得でもないと、子供をウチの学校に通わせるのは厳しいだろう。
合宿から戻った日に、音竹母の隣には、高そうなスーツを着ている男がいたので、事実婚の相手なのかと加藤は判断した。その男、すなわち篠宮が、学費も含めて音竹母子の生活を支えているのだろう。
それでも疑念が残った。
夏休み前の、音竹の憂の話を聞き、その疑いは濃くなった。
『お前が殺した』
音竹は幼い頃から、その声が聞こえていたという。
おそらくは、睡眠時に囁かれていたのだろう。
誰からか。
間違いなく、それを囁いたのは音竹樹梨。音竹の母の悪魔の囁きだ。
何故か。
殺すという物騒な言葉を口に出す背景には、音竹樹梨自身の行動が関わっているのではないか。
自分の罪悪感を、息子になすりつけていたのではないだろうか。
「お父さんは、事故。交通事故だったのよ」
「事故を起こすように、あなたが仕向けたのでしょう」
「な、何を言ってるの!」
音竹は、線の細い少年の顔に陰影が加わっていた。
「僕ね、小さい頃、寝つきが悪かった。布団の中でじっとしていると、隣の部屋から、よく話声が聞こえた」
音竹樹梨は、びくりとする。
「それでね、分かったんだ。お父さんがいなくても、お母さんが働いてなくても、塾に通えて、新しい服を買ってもらえる理由」
「ちょ、貯金があったのよ。……お父さんが残してくれた」
「それだけじゃないよね。保険金があったからでしょ? お父さんが死んだ時の」
音竹樹梨の瞳孔が開く。
尋常ではない目の色に変わる。
「あったわよ! それが何? 保険金が欲しかったからじゃないわ。あの人が、お姉ちゃんのところへ戻ろうとしたからよ! それを止めたくて、やめて欲しくかったのよ! 私は……私は悪くないわ!」
「だから、飲ませたんだね!」
「そうよ!」
言った瞬間、樹梨はハッとした。
今、自分は何を言った?
息子は、何を言わせたのだ。
周りの人たちは、何が言いたい。
なぜ黙っている!
「うああああああ!!!!!」
樹梨は頭を掻きむしり、号泣する。
音竹は、そんな母の姿を見つめ瞼を閉じる。
「先生……」
加藤は音竹を抱き寄せた。
「もう、いい」
「先生。僕……」
「何も言うな」
音竹は声をたてずに涙を流す。
長尾は音竹の手を握る。
ヒグラシの鳴き声が、どこからか聞こえた。
泣き止まない音竹樹梨を、憲章と蘭佳が別室へ連れ出す。
蘭佳は小声で氷沼に言う。
「あとであの母親の脳機能調べたい。協力しろ。入院加療が必要かもな」
「へえへえ。あれはもう、性格とかじゃないレベルだもんね」
音竹は椅子に座り、涙を拭いた。
「いつから、気付いていたんだ?」
加藤の問いに音竹は答える。
「だいぶ前です。僕が寝たふりをして布団に入っていると、母がやって来て『お前が殺した』と繰り返し呟いてました。それが怖くて、もっと眠れなくなって……」
篠宮がしばしば音竹の家に来るようになり、そのうち泊まるようになる。
樹梨は篠宮に、音竹の父の愚痴をこぼす。
眠れぬ音竹は、二人の会話から、父が樹梨に、何回も睡眠薬を飲まされていたことを知った。
父の死は、事故じゃない。
いつしか音竹に、そんな確信が生まれていた。
「ごめんね」
長尾が音竹の肩を抱く。
「あの子は昔から、感情のセーブが出来なかった。小学校の時に療育を勧められたけど、外聞を気にしたウチの親はそれを拒否したわ。きちんと育てられなかった、両親と私の責任だわ」
「いいえ。伯母さんの責任じゃないです。もちろん、会ったことはないけど、お祖父さんやお祖母さんの責任でもない」
音竹の頭をぽんぽんと加藤は叩く。
「よく、一人で我慢したな」
音竹の表情が、少し和らぐ。
「中学で、白根澤先生と加藤先生に出会えたから、だと思います」
「あら、嬉しいこと言ってくれるわね」
白根澤はニコニコしながら、「はい」と音竹にチョコを渡す。
「でもね、公園を改装したり、ロウソクの謎を解いたりしたのは、せいちゃん、じゃない、加藤先生なのよ」
「そうなんだ」
音竹は目を細める。
加藤は黙ってチョコを口に入れた。
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