第25話 二十四章 いつまでも若さを保っているのも、アホっぽい人の個性か?
加藤は、父宗太郎との会見が終わり、次の予定地に向かう、つもりだった。
「お待ちください。誠作ぼっちゃま」
いつの間にか加藤の背後には、住み込みの家政婦、木田が立っていた。
恐る恐る振り返ると、木田はニコリともせずに加藤に告げた。
「奥様が、お待ちです!」
有無も言わさぬ木田の迫力に、加藤も頭をペコっと下げ、従わざるを得ない。
子どもの頃から加藤は、密かにそう呼んでいる。
木田は女性としてはガタイが良く、ルール違反には容赦なく鉄槌を下す。
仕方なく、加藤は階段を昇る。
ふと、階段の下を見る。
昔はただ暗い、穴倉のようだった階段下は、収納庫として整備されていた。
父や木田に怒られた時、加藤はよく階段下の奥に逃げた。
居間のフローリングの床に、カメムシを集め、レースをさせた時。
木田に布団たたきでひっぱたかれ、尻を押さえ階段下に逃げた。
板を引っぺがし、護摩木の如く燃やそうとした時。
激怒した父のゲンコツをくらった。
加藤は頭を押さえ、階段下で夜を過ごした。
そして、同級生と殴り合った時。
あの時は、憲章が……。
「今日は虫など、持っていないですよね」
「はっ、はい」
摩利支天には逆らえない。
スタスタタっと階段を昇り、母の部屋に着く。
軽くノックをすると「どうぞ~」という声。
ドアを開けた加藤の額に、パチコーンと何かが飛んできた。
それはダーツの矢であった。
先端が吸盤になっていて、幸いだった。
てか。
なんでダーツ?
「あらあ、大当たり~」
パチパチと手を叩く母。
自宅にいるというのに、母はパニエ付きのロングドレスを着用し、結い上げた髪はなぜかピンクブロンドに変色していた。
きっと、またヘンなものに、はまっているのだろう。
「ご無沙汰してます」
一応社会人として、加藤は最低の礼儀を尽くす。
すると母は、なぜか淑女の礼風なお辞儀を返した。
「誠作、婚約破棄は許しませんよ」
唐突に、何を言うのだ、この母は。
「そもそも婚約してませんけど」
「じゃあ、破棄するために、婚約なさい」
「嫌です」
加藤は額にダーツの矢を付けたまま、母と不毛な会話をする。
母の傍らのテーブルには、お見合い写真と思わしき、キャビネサイズの台紙の束が乗っていた。
母はあたかもトランプのように写真の束を広げ、「ほらほら、どれがイイ?」と加藤に迫る。
「だいたい、跡取りは憲章なんだから、そっちから片付けてください」
「あら、憲章くんには、もっと家柄の良い女性を用意しているわ」
ツッコミどころが多すぎて、突っ込む気力もなくなった加藤は、額のダーツの吸盤を取りはずし、帰ることにした。
「誠作、お小遣いあげましょうか?」
「いえ、結構です」
蘭佳もそうだが、母の家系は見てくれだけなら一級品だ。
だが、付き合うのは無理だと加藤はしみじみ思う。
母や蘭佳のせいで、加藤の女性観はだいぶ歪んでしまっている。
「お帰りですか」
木田が玄関で、加藤の靴を揃えて待っていた。
「たまには本宅にお顔を出してくださいませ。当主様も奥様も、寂しがっておられますよ」
懐かしい木田の説教だ。
「はいはい」
「『はい』は一回!」
外に出ると、夏の薄い闇が降りていた。
そういえば。
泣いた日も、こんな空の色だった。
『……養子だから』『貰われっ子なのよ』
繰り返される近隣の囁きで、加藤は、自分がこの家に馴染めないのは、そのせいかと思った。
階段下で膝を抱えていた加藤を、後ろからそっと、憲章が抱いた。
「違うよ、せいちゃん。違うんだ」
「俺は、親父ともおふくろとも、憲章とも似てない。きっとどっかから、貰われてきたんだ」
「せいちゃんは、間違いなく父さんと母さんの息子だよ」
憲章は息を一つ吐く。
「貰われてきたのは、僕だ」
以来、加藤の涙は、ぴたりと止まった。
嫌な記憶である。
画像として記憶すると、思い出す時もリアルな映像付きだ。
忘れたいことをいつまでも覚えているのは、時として精神を削る。
加藤は音竹の自宅の公園まで辿り着いた。
音竹の家の窓は暗い。
一人の養護教諭として、子どもたちには、いつも明るい顔でいて欲しい。
そのために加藤は、解かなければならない。
鍵はこの公園にある。
加藤は公園で、しばし夏の星座を見つめた。
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