第21話  二十章 洗脳何それ、美味しいの?

 それはもう、遥か昔のこと。


 加藤がようやく日本語を喋れるようになった頃、自宅に、母方の叔母とその娘がやって来た。

 その娘こそ、当時どこかの雑誌の読者モデルをやっていた、東条蘭佳である。

 女の子が欲しかった加藤の母は、可愛い可愛いと大絶賛。


 母は、庭の隅でカエルを追いかけていた、加藤を客間に呼んだ。

 のちに、加藤の母は、息子誠作を呼んだことを、深く後悔したのである。


「ねえ、せいちゃん、従姉の蘭佳ちゃんよ。可愛いわね、美人よね。お目もこんなにパッチリしてて」


 蘭佳は、聞き飽きた誉め言葉に表情も変えず、紅茶を飲みながら加藤に軽く会釈する。

 一方、加藤は、言語中枢が発達し始めたとはいえ、いくつかの認知機能障害により、人の顔の判別が難しい、所謂、相貌失認症そうぼうしつにんしょうが色濃く出ている時期でもあった。

 よって、女性の美醜というものなど、興味もなければ判別もできなかった。


 さらにこの頃、加藤の母は、息子に対し、「きちんと・素直に・わかりやすく話す」ことを指導していた。加藤は母の教えに従って、きちんと素直に答えたのだ。


「美人かどうか僕にはわからない。可愛いかどうかで言えば、カエルの方が可愛い!」


 加藤の母の顔は真っ青になった。

 同時に、加藤の頭から、赤茶色の飛沫が上がった。

 蘭佳が投げつけた紅茶カップが、ハイスピードで加藤の頭を直撃していたのだった。


 あれから幾星霜。さすがの加藤でも、多少は世の中に適応できるようになった。

 多少? いや少々だ。

 よって、蘭佳の質問に対して、女性を喜ばせるような返答をすることは難しい。というか加藤には出来ない。


「どうだ、誠作。答えられるか?」


 ため息をひとつ、仕方なく加藤は答えた。


「解剖学的に言えば、蘭佳の顔貌は縦横比率から言って美人だろう?」


「そんなことはとっくに知っている。お前から見て、私が美人かどうかを聞いているのだ」


 ああ、もう、本当に面倒くさい。

 一般的に美人と言われているなら、それでいいじゃないか、と加藤は思う。

 配偶者か恋人ならともかく、一回り下の従弟を追い詰めて、どうする気だ。


 口には出さないものの、加藤の表情には思いきり面倒くささが表れていた。


「俺の美の基準は、『広隆寺の弥勒菩薩像』だ。蘭佳の顔の造りは、どう見ても弥勒菩薩ではないだろう。どっちかと言えば、インド神話のラクシュミーだ。よって、俺の好みでない! 美人とも思わん!」


「……ぶわっははは」


 蘭佳は、どこぞの親父のような笑い声をあげる。


「それでこそ誠作だ! さすが、私の進路を大きく捻じ曲げた奴。カエルよりも可愛くないとお前に言われ、私は女優の道を諦めたからな」


 知るか、そんなこと。


「学校の教員になって、こじんまりと大人しくなっていたら、お前の相手などしたくなかったのだ。まあ、いいだろう。記憶の改ざん、書き換えか。ある種の洗脳とも言えるな」


「洗脳、だと?」


「宗教がらみの事例などは、お前も知っているだろう。元は戦争中、捕虜に対して行った、思想を強引に変えさせたことを指した言葉だ」


 蘭佳は語った。 


 例えば、望ましくない体験の結果、脳疲労が進み、悲観的な心理状態におかれているとき、それを緩和できる方法を提示されたら、多くの人はその方法に飛びつくであろう。特に、閉ざされた環境であれば、それは顕著である。

 望ましくない体験を認知的にコントロールできる、すなわち記憶を消去したり改ざんしたり出来るなら、不安や不快感は減少し、その方法を与えてくれる人や組織に依存するようになる。


「それを、神経ブロックで行うことが出来るのか?」


「不可能ではないと言っただろう。前頭前野のブロックを行えば、な」


「では解除するには、どうしたらいい? 更に別の神経をブロックするのか?」


「いや、それは必要ない。というか、解除なら、お前の専門分野が有効だな」


 専門? 保健室運営のイロハか?


「座禅による瞑想だ」



***注***


相貌失認症とは、人の顔が覚えられない、見分けがつかないという症状のこと。

参考文献 Gard エHblze BK , SackAT,et al :Painattenuation through mindfullness isassociated with decreasedcognitive control and increasedsensory processinginthe brain.

CerebCortex doi: 10,1093 cercor /bhr352 ,2011

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