第5話 四章 引率教員は、酒を飲んではいけない

新入生合宿を週明けに控えた、土曜日の午後。


 加藤は音竹少年愛用の、寝ても死なないベッドを受け取りに、彼の自宅まで赴いた。


 公務であるので、出張手当と出張旅費は勿論申請した。


 音竹の自宅は、高級住宅街のはずれにあった。

 築年数はそれなりだろうが、母子が二人で暮らすなら、まあ広いであろう一軒家。


 音竹の自宅の道路を挟んだ向かい側に、公園がある。

 公園の側にコインパーキングがあったので、加藤は運転してきた中型のトラックをそこに停めた。


 コインパーキングの領収書も、忘れず事務に渡すつもりだ。


 音竹の母親から指定された時間まで、まだ十分くらいある。

 加藤はトラックを降り、公園の入り口の、注意書きの看板を眺めた。


「なるほど、公園というものは、国土交通省の管轄なのか」


 看板には、安全に配慮するため、遊具を撤去したとか、動物の立ち入り禁止とかが書いてある。


 確かに、花壇と小さな砂場があるだけの公園である。


 午後の日差しのなかで、ベビーカーを押すママが、チューリップの咲いている花壇の前で、自撮りをしている。その横で、スクワットに励む後期高齢者の一団。


 シュールな風景が展開されている。


「お待たせしました、先生!」


 加藤の背後から声がする。


 音竹が彼の背丈ほどの枕を持ち、音竹の後ろには妖怪ぬりかべがいた。

 いや、妖怪ではなかった。

 それは白いぬりかべの様な、布団だった。


「すいません、先生! わざわざここまで」


 布団の横から顔を出したのは、音竹の母だろう。


「ベッドは?」

「あの、ベッドを運ばなくても、いつものお布団を持っていけば、大丈夫だろうと言われましたので」


 言われた?

 誰に?


 加藤の胸中、疑問が浮かんだが、表情には出さない。


「ああ、そうですか。では、お布団、預かりますね」


 布団をトラックに積み込む前に、加藤は、何気なく音竹の家を見た。

 その門の奥、加藤を見つめる視線があった。

 加藤の糸目が、僅かに開いた。



 葛城中学校の新入生合宿は、国立行政法人の施設で行われる。都内から関越で北上して一時間弱の場所に建つ、かつて「婦人会館」という名称であった会館である。現在は「女性会館」という名称になっている。


 会館の館長と、葛城の学校法人理事長は、かねてより懇意にしていて、いつの頃からか、新入生の合宿は、同会館で行われることになった。

 宿泊所や研修室以外に、体育館や屋外の運動場もあり、生徒らの宿泊研修場所としては、申し分ない。


 初日はお昼前に会館に到着し、食後に会館のeラーニングで、日本と世界の情勢を学ぶ。

 夕方まで、日本の置かれている現状をふまえ、未来を見据えたグループワーク。

 夕食後、英語と数学の実力テストという、タイトでハードなスケジュールが組まれている。

 

 帯同する養護教諭は、生徒が元気なうちは、たいして仕事がない。


 館内をぶらぶらしている加藤を見かけた館長が、加藤に挨拶をする。


「今年はまた、あなたが一緒に来てくださったのね、嬉しいわ」


「ありがとうございます。今年は真面目に職務を遂行します」


 珍しく加藤も、館長には敬意をはらって挨拶を返した。


 館長は、日本の男女共生社会を築いた功労者でもある。日本のみならず海外でも知名度は高い。


「私は、おととしのあなたの健康指導、評価してますよ」


 ころころと館長は笑う。

 日頃、誉められることが極めて少ない加藤は、少しばかり照れた。


「ところで」


 館長は加藤を見上げる。


「お兄様は、お元気かしら?」


 一瞬、加藤は能面のような顔つきになった。


「ぼちぼち、ですかね」


 俯いた加藤を見て、館長は小さくため息をついた。



 合宿初日の夜が来た。

 引率教員は加藤も含め、それぞれの部屋の見回りに行く。


「まあ、夜九時の就寝なんて、守るやつ、いないでしょ」


 夕食後、引率教員の打ち合わせの際、学年主任が笑いながら言った。


「そうですかねえ。俺、中坊の頃、一日十二時間寝てましたよ。夜七時に寝て、朝まで」


 加藤の発言は、誰も聞いていなかった。


「見回りが終わったら、一杯やりたいとこですがね」


 会館は、アルコール禁止である。


 九時の消灯後、教員全員で各部屋を回り更に、念のため、深夜十二時くらいに、再度見回るのだ。


 件の音竹の布団は、加藤が会館まで乗用車で運んだ。

 見た感じ、触った感じは普通の布団だった。


 加藤は、朝、出発する前に、音竹を捕まえて訊いてみた。


「大丈夫か、音竹君。頭、痛くないか?」

「はい、お薬飲んできましたから」


「あの布団、他のと何か、違うのか?」


 音竹はにっこり笑って答えた。


「はい! 浄化されていますから」


 なるほど。

 音竹の母親は、布団を受け取りに行った際『大丈夫だろうと言われました』と述べた。

 浄化とやらをできる人が、音竹の身近にいるというわけか。


 それは多分……。


 九時の消灯時、男子生徒らは、くすくすと忍び笑いをしながらも、一応布団に横になっていた。

 加藤は音竹の班の部屋を見にいったが、そこも同様だった。

 音竹は一番窓際に布団を敷き、静かに横になっていた。


 教員たちは、それぞれの部屋に戻り、夜十一時半に、また集まることになった。

 加藤も部屋で横になり、一分後には眠りに落ちた。


 その直後。


「ぎゃああああ!!」


 男子生徒の悲鳴が館内に響いた。

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