第5話 ラーナタル
4日の船旅がもうじき終えようとしている。船はゆっくりとラーナタルの港に近づいてきている。
私はその様子をじっと眺めていた。
(いろいろ新鮮味があって面白かったけど船酔いがきつかったな…)
あまり船に乗り慣れていないせいか船酔いが凄かった。みっともない姿をキース様に見せたくなかったから船旅の殆どを自室のベッドで過ごしていた。
持ってきた小説も出稿の日以外でしっかりと読めた日はあまりなかった。
しかも、波も荒れていて気持ち悪さをさらに増幅させて思う様に動けなかった。
(そ、それもようやく終わるのね。もう少しでラーナタル。夜のお祭りまで時間があるからちょっとホテルで休ませてもらおう…)
船酔いでふらふらになった状態で祭りを楽しむのは嫌だった。本当はすぐにでもラーナタルの街を観光したいがこのままで行ってもきっと楽しめないだろう。
(またキース様に迷惑をかけてしまうわね。ちゃんと謝らなきゃ)
ふうっと息をつくと、キース様が少し心配そうに私に駆け寄ってきた。
「顔色悪いけど平気か?」
「あ…キース様。ま、まぁ…なんとか…」
「あんま無茶すんなよ。ラーナタルに着いたらゆっくり休め」
「す…すみません…船酔いがどうしても…」
「俺のことは気にしなくていいから。自分のことだけ考えろ。カイリの願いのことも一旦置いとけ。万全になってからでも十分だろ?」
「ごめんなさい。ありがとうございます…」
あぁ…またキース様に迷惑をかけてしまったと私は落ち込んでしまった。
船酔いにならなければラーナタルの街を巡ろうと思ったのにそれどころではなくなってしまった。自分の虚弱さが情けない。
(夜の天燈祭までには治さないと。そうじゃなきゃここまで来た意味がない)
近づいてくる街並みに心躍らせる筈だったのにと悔しさが残る船旅となってしまった。せめて、帰りだけは良いものにしたい。
そう思ってふと空を見上げると、夜に飛ばされる筈の天燈が一つだけ空を漂っていた。
(え…あれは天燈…夜に飛ばす物じゃ…)
私はお姉様が言っていたある事を思い出していた。
「実は天燈ってね、夜だけに飛ばす物じゃないの。まぁ、これは人によるけれど、明るい昼間に飛ばすこともあるのよ。昼間は願い事を、夜は鎮魂の意味を込めて飛ばすこともあるんだって。両方共とても素敵なんだろうな…」
昼と夜、二つ共天燈を飛ばしたら願い事が必ず叶うとも言っていた。
お姉様はいつも窓から空を眺めていた。早く身体を治して天燈祭に行きたいって思いを馳せていたのだろう。
(ホテルに戻る前に一度天燈を飛ばさなきゃ。きっと、お姉様もそれを望むから)
「どうした?白雪?」
「……あの…ホテルに行く前に寄りたいところがあるのですが…」
「それはいいけど大丈夫なのか?さっきまで寝込んでただろ?」
「大丈夫です。その用事だけ済ませたらちゃんとホテルで休みますから」
「まさかカイネの願い事の一つか?」
キース様の質問に私はゆっくりと首を縦に振る。そして、もう一度空に顔を向け彼に上を見る様にと促す。私のジェスチャーに気付き、キース様も空に顔を向けた。
ラーナタルに近づくつれて、空に浮かぶ天燈が増えてくる。キース様の目にその光景が映っているのだろう。少し驚いた様な表情を浮かべていた。
「夜空に飛ばす前に明るい時に一度天燈を飛ばしたいのです。とても素敵だったからお姉様も喜んでくれると思うんです。私のことは気にしないでください。天燈を飛ばしたらちゃんと休みますから」
「分かった。でも、無理はするなよ。もう誰かを失うのはごめんだからな」
快諾という感じではなかったがなんとか許しを得た。船酔いをして弱っている私の身を案じてのことだろう。
(……キース様の言う通りだけれどこれはお姉様の願い事の為なのよ。少しでも無理しないと成し遂げられないわ)
天燈祭は1日だけ行われる祭り。明るい冬の空に願いを飛ばす。弱る身体に鞭を打ってでもこの目的だけは果たさなきゃ。
表向きは私とキース様の新婚旅行。けれど、実際はお姉様の願いの為の旅。ここで弱ってはいられない。
全ては大切な人の為に。
私達が住む国より寒く雪が降り積もる国ラーナタル。
船を降り、荷物をホテルに預けて私達はラーナタルの街を巡り始めた。
まだ体調はあまり良くないが今はとにかく、天燈が売っているお店に行かないと。
お祭りのおかげか、とても人がいる。屋台や大道芸人の人がお祭りに来た人々を喜ばせている。いろんな声と楽器の音。そして、美味しそうな匂い。
ちゃんと楽しみたいのにまだ船酔いが抜けきっていない私には雑音にしか聞こえないのが悔しかった。
でも今は天燈を明るいうちに飛ばすという目的だけでも果たさなければならない。ホテルで身体を休めるのはそれからだ。
そうこうしているうちに天燈が売っている屋台を見つけることができた。
体調不良で思う様に動けない私の代わりにキース様の使いの方が買ってきてくれた。
(これが天燈…?)
まだぺったんこに縮んでいて、絵で見た様な膨らんだ形しか知らなかった私は少し驚いてしまった。
使いの方がお店の方に教えてもらったやり方を聞きながら天燈を膨らませる為に天燈の紙を破れない様に丁寧に広げてゆく。
祭りの期間中、天燈に願いを書く為の筆とインクを貸し出してくれていた。それを使って願い事を書く。
私の願い事はお姉様が叶えられなかった願いを叶えてゆくこと。
(キース様はなんで書くのかしら?)
私の隣で願い事を書いていたキース様のことが少し気になってしまう。
彼はどんな願い事を書いたのだろう?私と同じお姉様のこと?それともまた別のことかしらと。
「キース様、奥様、書けましたか?」
「ああ。白雪はどうだ?」
「私も大丈夫です」
「それでは火を付けますね」
使いの方がマッチを擦って棒に火を灯す。
竹でできた骨組みの真ん中にある固形燃料にマッチの火を灯し天燈を膨らませてゆく。ぺったんこだった紙が熱で風船の様に綺麗なオレンジ色と共に膨らんでゆく。それは外がまだ明るい朝でも感じることができるほど素敵なモノだった。
(これならお姉様にも届く気がする)
火傷と衣服への火移りに気をつけながら骨組みを持ってキース様の天燈が膨らむのを待つ。
(とても熱い。でもとても素敵なのね)
昼間の空に飛ばすだけでもこんなにときめいてしまっているのに夜になったらどうなってしまうのだろう。
身体は不調を訴えているのに心ばかりが先走る。
「ゆっくり天燈から空に向かって飛ばす様に離してください」
私は合図と共にそっと天燈から手を離した。
膨らみ上がった天燈はゆっくりと空に向かってゆらゆらを浮かんでゆく。
私が飛ばした天燈を合図に他の方々の天燈もちらほらと空に上がっていった。キース様の天燈も無事に空に上がった。
やはり夜に飛ばす方が多いせいか昼間に飛ばす人は夜よりも少ない。それでも太陽に見守られながら空に浮かぶ天燈に私は胸を躍らせていた。
(半分だけ叶えられた。早く夜になってほしい!!)
天燈に夢中になって私はそっとさらに手を伸ばす。
その時だった。
「あれ…?」
さっきまで感じなかった不快感が一気に全身を駆け巡る。目の前の天燈が変に二重に見え始めた。
さらに伸ばしていた手で顔を押さえる。何かおかしい。
「白雪…?」
(なんか視界がぐるぐるしてて変…だめ…ここで倒れたら…)
必死に立っていようと足を踏ん張ろうとするも段々身体の力が抜けてゆきふらついてゆく。視界もさらにぐちゃぐちゃになって視点が定まらない。
キース様達の声もくぐもって聞こえる。
(やっぱり先にホテルで休んだ方がよかったのに…でも自分で決めたこと…だから…)
鉛の様に重くなった身体と、歪んで見えた視界と、そして、意識のブラックアウト。そこからの記憶はほぼないに等しい。
全ては自分自身を疎かにした結果が招いたことだ。
(あぁ…私のせいで新婚旅行を台無しにしてしまったわ)
ただ、一つだけなんとなく覚えている記憶がある。
微かに聞こえる聞き慣れた私の名前を連呼する叫び声が意識を手放す直前の最後の記憶だった。
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