第7話 悲劇の王女

 フレルノムは緊張していた。普段は容易にその感情を人に読み取らせぬ彼の主ボルドゥが、いつになく苛立ちを隠し切れぬ様子だったからだ。


「例の噂、随分と広範囲に広まっているようだな」


「は。ズーンのみならず、中原ちゅうげんや南の国々の商人たちの間にまで広まっておりますようで……」


 ヒュンナグの新王は、自分の親は殺せても隣国には手も足も出ずぺこぺこするだけの、腰抜け玉無し野郎――といった内容の噂が、草原の東南、農耕定住民族たちが暮らす中原ちゅうげんの地や、天の山の山脈やまなみを越えた南側にあるオアシス都市国家群にまで、拡散しているという。

 そして、それらの地域との交易を通じて、ヒュンナグにも彼の悪評が逆流してきている状態であった。


 たしかに、ズーンにくれてやった元寵姫・アルタントヤーには、自分をあなどらせるよう王に吹き込め、と指示は出した。しかし、よりどぎつい内容の噂が、ズーンのみならずその他の地域にまで拡散してしまう、というのはさすがに想定外だ。


 そのような噂、ボルドゥがズーン相手のいくさで勝利を収めればたちまち払拭される、とたかくくってばかりもいられない。あまりにも人望を失うようなことになれば、いくらボルドゥ当人やその直属の配下たちが強かろうと、隣国とのいくさもおぼつかなくなってしまう。


「ズーン王の仕業しわざだと思うか?」


「さて、どうでしょうか……。ズーン王・バーブガイ殿は、まずまずの戦上手ではありますが、このような小知恵こぢえを巡らせるような人物とは思えませぬし、彼の家臣たちの中にも、そのような策士は見当たりませぬ。……チャン殿に、火消しを頼みますか?」


 チャンというのは中原ちゅうげんの大商人で、以前トゥマン王の奴隷に対し王の宝騎ほうきを盗み出すようそそのかしたのも、彼の手の者であった。

 しかし、いかに彼の財力、組織力をもってしても、現状の事実としてボルドゥがズーンに膝を屈している以上、噂を打ち消すのは容易ではないし、また、ズーン王を油断させるという目的とも相反する。


「……いや、今は捨て置け。ただし、ヒュンナグ領内で妙な噂を吹聴ふいちょうしようとする者がいれば捕らえて斬れ。それより、“西”との縁談は滞りなく進んでいるだろうな?」


 苦い表情のまま、ボルドゥは話を切り替えた。



 西の大勢力バローンと、ボルドゥとの間には、悪因縁が絡み付いている。

 バローンから見れば、ヒュンナグが王太子を人質によこしたと思ったら、騙し討ちで攻撃を仕掛けられ、人質はバローン王秘蔵の騎竜きりゅうを盗み出してまんまと逃亡。さらにその後のいくさでは手痛い敗北を喫するという、まさしく踏んだり蹴ったりだ。


 一戦の後、ヒュンナグは盗んだ騎竜きりゅうにおまけを付けて丁重に送り返しては来たが、騎竜きりゅう盗人ぬすっとは返せば済むというような話ではない。だが、いくさで敗れた以上、最低限度の礼儀を守って和議を申し出たヒュンナグに対し、それ以上抗議はできなかった。

 そしてバローンは、王女をボルドゥにとつがせ、一応の和議が成立して今日に至る。


 今回、東のズーンだけでなく西のバローンともさらに深い関係を、という建前で、ボルドゥの異母妹・シャルモールをバローンの王子に嫁がせるという話が進められていた。

 王子と言っても、王太子に立てられている正室の子ではない。王太子と同年に生まれた側室の子・オストハーン王子だ。

 バローンの王太子・アーセマーンは以前からボルドゥを激しく憎んでおり、今回の縁談は、両国の友好などよりも、バローンの王位継承争いに油を注ぎ込む意図が透けて見えるが、ボルドゥとしては、ズーン打倒に力を注ぐために必要な措置であった。


 ボルドゥより六歳年下で、弱小氏族出身の母を持つシャルモールは、女ながら中々の野心家であり、異母兄の意図を、自分と仲の悪い現王太子を打倒して親ボルドゥ、親ヒュンナグのバローン王を立てることだと解釈していた。もちろん、そのバローン王の妃として隣に立つのは自分だ。

 ボルドゥとしては、両者が噛み合い、ズーン攻略時に介入してこれぬ状態にさえなってくれれば、最終的にどちらが勝ち残ろうが関係ない――。どうせ自分が滅ぼすのだから、というところだったが、無論、異母妹の勘違いを正したりはしない。よろしく頼むぞと優しい笑顔で声を掛け、フレルノムを側に付けてバローンへと送り出した。



「竜神様の噂は聞いたことがありますが、まさかこれほどの力をお持ちとは思いませんでしたな。亡くなられたはずの方々が勢揃いとは」


 竜神の里に招き入れられ、サラーナのみならずジムスにも引き合わされて、セターレは驚きを隠し切れない様子だった。

 彼はボルドゥの正室であるファリーダ妃の護衛士。彼女がバローンから嫁いで来る時に従ってきた人物だ。


「久しぶりね、セターレ殿。ファリーダ様のご機嫌はいかが?」


 サラーナがにこやかに問いかけると、セターレは苦笑しながら、


「わかっておいででしょうに。あなたがいなくなられ、アルタントヤー様もズーンに送られましたが、だからといって姫に陛下の愛情が向くわけもなく。しかも、同腹の兄君あにぎみであるアーセマーン様をないがしろにするかのような此度こたびの縁談。姫のご機嫌が良くなる要素など、どこにもございますまい」


 慇懃いんぎんな中に皮肉を込めて、そう答えた。


 かつてバローンの人質となっていたボルドゥは、トゥマンが攻撃を仕掛けたためにあわや処刑の危機に陥った際、騎竜きりゅうを盗み出して逃亡したが、実はこの時、内部で手引きした人間がいた。

 それが他でもない、バローンの王女・ファリーダであった。


 当時十五歳の彼女は、隣国からやって来た知勇兼備の逞しい若者に愛を囁かれ、たちまち夢中になってしまった。そして、愛する人が危難に陥った時、自身の立場を悪くすることも顧みず、父王の秘蔵の騎竜きりゅうを盗み出す手引きをして、彼を助けたのだ。


 一連の騒動の後、当然のことながら、彼女は父から激しく叱責され、バローン国内での信用も失った。そして、両国の和議に際し、傷物となった王女を格下の相手にくれてやるというていで、ヒュンナグに嫁がされた。


 いや、体裁はどうあれ、ファリーダにとってみれば、愛する男性に嫁げるのだからめでたしめでたし――。そう思っていたのだが。


 ヒュンナグで彼女を待っていたのは、まるでバローンでのことが幻であったかのように冷たい、ボルドゥの態度だった。

 ボルドゥにとってみれば、単身放り込まれた敵地で味方になりそうな人物をみつくろっただけ――さすがに、実の父に謀殺されかける事態までは想定していなかったが――、バローンに対する影響力もあまり期待できない状態で嫁いで来たファリーダに、もはや利用価値など見出みいだせない、といったところだ。


 自分がただ利用されていただけだと気付かされたファリーダは、護衛士であるセターレとの関係にのめり込み、彼の子を産んだ。

 申し訳程度の夫婦生活はあったとはいえ、ボルドゥを騙せるなどとはさすがに考えていなかった彼女は、夫が何も言わぬことに一時安堵した後、さらなる絶望に追い込まれた。ボルドゥにとって自分は、嫉妬する対象ですらないのだと思い知らされて。


 そのような経緯いきさつがあって、ファリーダとは同腹の兄妹であるバローン王太子・アーセマーンは、可愛い妹を不幸に陥れた元凶であるとして、ボルドゥを激しく憎んでいるのであった。


「セターレ殿のことだから、今回の縁談の真意はおわかりでしょ?」


「ボルドゥ陛下の当面の目標は、ズーンの打倒。その際にバローンが介入してこないよう、王位継承争いを煽り立てる、といったところでしょうか。そしてさらには、身内同士で相争って疲弊したバローンも併呑する、というくらいのことは考えておられそうですな」


「理解が早くて助かるわ。殿下」


 サラーナはそこまで言って、例によって竜神の膝の上に座ったジムスに水を向ける。


「セターレどの。ぼくたちはバローン――次のバローン王となられるべきアーセマーン殿下と、友好的な関係を築きたいと考えています。ファリーダ義姉ねえさまともども、ぼくたちと手を組んではいただけないでしょうか」


 セターレは考え込んだ。

 亡くなったはずのジムス王子が生きており、ヒュンナグ王となったボルドゥに復讐戦を挑むつもりだという。無謀の極みだろう、と思う一方で、祖国バローンのためにはボルドゥを除くべき、という思いもある。

 しばしの沈黙の後、セターレは口を開いた。


「私の一存では決めかねますので、持ち帰って姫のご判断を仰ぎたいと存じます。されど……祖国バローンにとっても良い選択をしたいと考えてはおります」


 明言は避けたものの、ほぼ味方に付くと言ったも同然だ。ジムスたちの顔にも、明るい光が差した。


「それで、、私どもはどうすればよろしいでしょうか?」


 セターレが尋ねる。それに対してサラーナが答えた。


「そうだね。取りあえずは、アーセマーン殿下と繋ぎが取れるよう、人を送り込みたいんだけど、仲介をお願いできるかな?」


「姫に相談いたしましょう」


「ふむ、では送って行くとしようかの」


 そう言って、竜神はジムスを膝の上から退かせて立ち上がった。

 セターレが竜神の里に出入りしているところを万一にも人に見られぬよう、竜脈りゅうみゃくを通じて離れた場所へ移動させようというのだ。

 また同時に、竜神の力を見せつけ、これならばボルドゥに対抗できるのではないかと思わせる意図もあった。――まあ実際には、彼女はみだりに人界のことに手出しをするわけにはいかないという制約があるのだが。



 セターレを送り出した後、ションホルはふと思いついてサラーナに尋ねた。


「それにしてもお前、ファリーダ様と案外仲が良いんだな」


 サラーナがボルドゥの寵愛を独占するようになった当初は、ファリーダは嫉妬を隠そうともしなかったのだが、やがてボルドゥが決してサラーナを心から愛しているわけではないのだということを理解すると、二人はお互いに愚痴をこぼし合うような間柄になったのだった。


「うーん、仲が良いって言うか……。正直なところ、あの女は嫌いなんだけどね」


「え、そうなのか?」


「だってあいつ、悲劇の主人公みたいな顔をしてるけど、そもそも自ら招いた結果だし。それに、公然と浮気してやがるのも、うらや、もとい、けしからんて感じだしね。……何笑ってんだよ」


 笑いを噛み殺した表情のションホルを見て、サラーナが頬を膨らませる。


「いや、悪い。何だか、里の悪ガキたちにぶつぶつ文句を言いながらも面倒を見てやっている時と、同じような顔してたからさ」


 口が悪くてしばしば辛辣なことも言ったりしつつも、なんだかんだで面倒見がいい幼馴染のことが、やはりションホルは大好きなのだった。

 その彼女ともしばし別れて、彼は間もなくズーンへと向かう。

 バローンへの対策も筋道が見えてきそうだし、ボルドゥと対決する日はそう遠くないのだろう。


 ふと気が付くと、サラーナが真剣な顔で自分を見つめている。きっと、同じことを考えていたのだろう。ションホルはサラーナの瞳を見つめ返し、力強く頷いた。



 その後ほどなくして、ションホルは里の仲間三名を伴ってズーンへと向かい、また、バローンにもファリーダ妃の仲介で二名の同志を送り込んだ。



 そしてさらに二月ふたつきあまり後。

 ズーンがまたしてもヒュンナグに要求を突き付けてきた。

 両国の間に広がる広大な無人の地、両国の緩衝地帯ともなっていた「れずの地」について、一方的に領有を宣言。さらにそこへ兵を侵入させたのだ。


「かの地は遊牧にも適さない無人の地。ズーンが欲しいというならくれてやってもよろしいのでは?」


「そうですな。我らヒュンナグとしても、必要がないからこそこれまで捨て置いてきた土地でございますゆえ」


 重臣たちの中からはそのような声も上がったが、それを聞いてボルドゥは激怒した。


「土地は国のいしずえぞ! これを軽々しく他国にくれてやれなどと申した愚か者どもは斬り捨てよ!」


 親衛隊ケシクの兵たちが、「れずの地」の譲渡に賛意を示した重臣たちをその場で斬り捨てる。そして間髪を入れず、ボルドゥは宣言した。


「我ら、これより驕慢きょうまんなるズーンを討つ! 俺について来い! 遅れる者は斬る!!」

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