『アイネクライネナハトムジーク』を読んだから

TK

『アイネクライネナハトムジーク』を読んだから

「この終わり方、好きだわぁ・・・」


快晴の空の下、そびえ立つビル群の中に構えられた庭園で、俺はある小説を読んでいる。

その小説とは『アイネクライネナハトムジーク』だ。

モーツァルトの曲をタイトルにしたこの小説は、恋愛をテーマにした連作短編集が6つ収録されている。

それぞれの短編集は主人公が異なるものの、物語の舞台は一緒だ。

つまり、他の短編との繋がりを楽しみながら読み進められるのが、当小説の魅力と言える。


おそらくだが、著者の伊坂幸太郎はこういう作りが好きなのだろう。

伊坂幸太郎の他作である『ラッシュライフ』も、複数人の主人公の視点から1つの世界を語る作りとなっていた。

まあ他作はこの『ラッシュライフ』しか読んだことがないので、まだ伊坂幸太郎を語ることはできないが、思考の大枠はつかめた気がする。

たった今俺は、連作短編集の1つめである「アイネクライネ」を読み終えた。

俺はこの「アイネクライネ」の締め方が、この上なく好きだ。

非常に曖昧な終わり方で、かつ何も始まっていないものの、そこには確かな希望を感じさせてくれる。

明るい兆しが見えた瞬間に話を終わらせるのって、なんでこんなにも美しいのだろう。


「あっ、そろそろ行かなきゃ」


優雅な場所で読書をしている俺だが、今日は休日ってわけじゃない。

あるバイトをするために、電車で片道1時間かけてこの街にやってきた。

そのバイトとは、発売予定のコールスローを3品食べて、それぞれの感想を述べるという内容だ。

こういう労働を感じさせないバイトは、基本的に担当者の態度も丁寧な傾向にある。

なぜなら「わざわざ来て頂いている」「商品開発に協力して頂いている」というスタンスだからだ。

金を払ってんだから文句言わずやれよ!的な発言をする輩は基本的にいない。

ストレスも不安も全く感じないまま現場に向かっていると、スーツを着た清潔感のある青年に呼び止められた。


「すいません、アンケートにご協力頂きたいのですが・・・」


表情と声、共に好印象だったのだが、答えてあげる義理はない。

それに、俺は今仕事に向かっている途中なんだ。ゴメンな。


「いや、今仕事に向かっている最中なので」


「そうでしたか!失礼しました」


引き際まで、好印象だった。


***


「・・・アンケート、答えてあげればよかったかな」


彼と別れてから数分ほど歩いたところで、ふと小さな罪悪感が込み上げてきた。

「アイネクライネ」の主人公は佐藤という青年であり、物語は佐藤が必死に街頭アンケートを取るシーンから幕を開ける。

アンケートに協力してくれる人は当然ながら少数派であり、断られるごとに佐藤は落ち込んでいた。


その佐藤の姿とさっきの青年の姿は、今思い返すと何も変わらない。

彼もきっと、苦しんでいたはずだ。

今さっき痛みを理解したはずなのに、なぜ俺は協力してやれなかったのだろう?

時間に余裕があったんだから、軽く答えてあげてもよかったはずなのに。


「・・・帰りにまだやってたら、今度は受けてあげるか」


人は必ず失敗する。後悔もする。でも、それ自体は全く悪くない。

悪いのは、失敗と後悔を糧にしないことだ。

反省を活かす姿勢さえ忘れなければ、人は前を向いて生きられる。


***


現場である雑居ビルの2階に着くと、学校の教室ほどのスペースに30ほどの席が用意されており、既に20名ほどの老若男女が座っている。

俺は担当者から「7番に座って下さい」と指示されたので、7のシールが貼ってある机に座る。

席についてから数分後、担当者は試食の進め方を淡々と説明し始めた。

長々と説明をしているが、要は「食べた感想をアンケート用紙に書いて下さい」というだけのバイトだ。

日本ってホントに、恵まれた国だと思う。


食べさせてもらえる上に、金まで受け取れるのだからな。

たまに「そんなんじゃ社会で通用しないよ」というクソみたいなセリフを吐く大人がいるが、くたばれと思う。

そのセリフは、ただの大嘘だ。

飯を食って感想を言うだけで金を貰える。

駐禁対策としてトラックに座っているだけで金を貰える。

看板を持って交差点に突っ立っているだけで金を貰える。

全く働けない心身であれば、生活保護を受給できる。

日本とはそういう国だ。


通用しないなんてことは絶対にない。

それは通用しないのではなく「通用する方法を探していないだけ」だ。

俺は自他共に認める社会不適合者だが、絶対に生き抜いていける。

クソみたいなレッテルを貼る思考停止野郎に、絶対に屈さない。

そういう気持ちを、社会不適合者には持ってほしい。

出されたコールスローを完食した俺は、アンケートを書き、雑居ビルをあとにした。


***


駅に向かっている途中、先程とは違う青年ではあるが、同じアンケート用紙を持つ青年が、声をかける人を探していた。

俺はわざとその青年との距離を詰めるような道筋で駅に向かうと、案の定、彼は声をかけてくる。


「すいません、アンケートにご協力頂きたいのですが」


そう伺う青年の顔は、これまた清潔感があった。まあ汚い人間にこの仕事はできないだろう。


「はい!いいですよ」


心構えができていた俺は、申し出を快諾できた。

人間、学んだだけじゃ実行できない。

その学びを行動に落とし込むという決意をして、初めて現実をこの手で変えられるのだ。


「ありがとうございます!なるべく早く終わらせますんで!」


そう声を張り上げる青年の表情は、明確に明るい。

仕事だからというよりは、本当に喜びの感情に包まれているのだろう。


「今は学生さんですか?それとも会社員でしょうか?」


なんで学生には「さん」がつくのに、会社員は呼び捨てなのだろう。

些末な疑問を振り払い、「自営業ですよ」と答える。

彼はその答えを聞いて、「あ!そうなんですね。自営業の方は今日始めて会いました」とテンション高めに言う。


「自営業ということですが、具体的には何を?」


「まあいろいろやってますけど、例えばYouTuberとして活動してます」


「へえー!凄いですね!なんていうチャンネルですか?」


「“TK”っていうチャンネルです」


「“TK”ですね!後で観てみます」


雰囲気が和やかになったところで、彼はさらに質問をぶつけてくる。


「今、何かしらの資産形成ってやられてますか?」


「はい、株をやってます」


「株式投資をされているんですね!素晴らしいです」


何が素晴らしいのかわからないが、特に指摘するほどでもない。


「今って家賃がおいくらの所にお住まいですか?」


急に踏み込んできたな。ただ、雰囲気のせいか、嫌な気は全くしない。


「3万円くらいですね」


そう答えると、彼はさらなる質問に移る。


「大体でいいのですが、年収ってどのくらいでしょうか?」


この質問に至るまで、僅か1分半。

明らかに早すぎる気もするが、やはり雰囲気のせいか、答えることに抵抗を全く感じない。

彼の持っているアンケート用紙を見ると、5つの年収額が事前にプリントされており、「年収499万円以下」という選択肢が最低ラインであった。

俺の年収は、確実にその最低ライン以下であったので、素直にその旨を答える。

その瞬間、彼のまとう空気がほんのり冷めるのを感じた。


「わかりました!では、これにてアンケートは終了となります。ご協力頂き、ありがとうございました!」


「いえいえ、では」


俺たちは、共に笑顔を貼り付けながら別れた。


***


なるほど、な。

どんな目的でアンケートをしているのか、なんとなくわかったよ。

そりゃ、俺みたいな貧乏人には興味無いよな。

でも、アンケートに答えたことに後悔はない。むしろ、晴れやかな気持ちだ。

誰かの人生に一瞬でも参加できた。誰かの苦悩を紛らわすことができた。

そんな儚い思い出ができたことに、素直に感謝している。

俺が彼に会えたのは、きっと『アイネクライネナハトムジーク』を読んだからだ。

そして幸いなことに、俺はまだ『アイネクライネナハトムジーク』を読み終えてはいないらしい。

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『アイネクライネナハトムジーク』を読んだから TK @tk20220924

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